レンスターでは、早い知らせを受けた旧友達が、ラケシスを出迎えてくれた。旅の最後のあたりでは、何か思っている節があったラケシスも、つい笑顔になってしまうものらしかった。

 そして城主リーフが直々に、先導してナンナの許に向かう。逃亡生活の頃は、母とも慕ったリーフは、ラケシスの帰還を喜んだ。
 途中、リーフは
「そうだ」
と、鍵を取り出す。
 中庭に面した彼女の部屋は、ラケシスがいなくなった時そのままに保たれていた。
「代々の王妃の部屋と聞きますが、ナンナは、引き続きラケシス様に使っていただきたい、そう言っています」
「はい。過分の計らい、有り難うございます」
「御謙遜を。ラケシス様は私達の母上、生まれてくる子供には、敬うべきお祖母様です。家族が増えて、私は嬉しい」
リーフはくるくると、什器にかかる布を取り払いながら言う。部屋はだんだんと、ふた昔前と同じ雰囲気を取り戻す。
「覚えていますよ、ラケシス様はこの椅子で、よくナンナをあやしておられた」
あった椅子に座ったラケシスに、リーフはやや興奮したように言う。
「この城がフリージのものになりかけた時にも、頑としてこの部屋だけは解放しなかったそうです。いつかお帰りになるから、そのままにしておくのだ、と」
「お城の人が?」
小首をかしげると、リーフは、含蓄を含んだ笑みをした。
「いえ」
その柔らかい否定に、ラケシスはすぐわかったような顔をした。
「そう、あのヒトが」
「ラケシス様、実は…お詫びしなければならないことが」
「あら、何を?」
リーフの顔が、急に紅潮してくる。なんのかの言っても、この王は若い。
「ナンナに結婚の申し込みをする時に、この部屋を使ってしまいました」
「そう」
「ちょうどその時、解放軍が本拠にしていたもので。静かに話すところがなかったから」
言いながらリーフは頭をかく。ラケシスはふふふ、とろうたけた笑いをした。
「で、でも、その時は、何処におられるか分からないラケシス様に聞いていただきたい一心で」
「はいはい、そんなことでは私は怒りません」
ラケシスが、笑いすぎたのか、腹のあたりを撫でながら言った。
「でも、うれしいわ、私との約束、ちゃんと守って下さったのね、リ?フ様」
「当たり前です。そのへんは、教育がしっかりしてますからね。ラケシス様達を見ていますから、いずれ、そのような穏やかな間柄でありたく思います」
「ほんとに頼もしいわ。ナンナも子供も幸せよ」
ラケシスは立ち上がり、さぱ、と衣装の裾をさばいて部屋を出ようとする。
「さ、その幸せな王妃様の所に」

 ナンナの部屋には、先回りしたデルムッドや先だって再会した旧友のすがたもあった。
「…お母様?」
ベッドから身を起こして、小走りに駆け寄るラケシスに抱きすくめられる。
「お母様!」
「ナンナ、こんなに大きくなって」
二人の顔だちは実によく似ていた。今さらに、その血というものに、周りは驚かされる。
「もう会えないと思いました」
「そんな悲しいこと言わないの」
言ってラケシスは、目立ちはじめたナンナのお腹を見る。
「調子はいいの?」
「はい。何かあるといけないからって、みんなここから出してくれないの」
「当然だよナンナ、今ここで君に何かあったら、私はあわせる顔がないんだから」
「…」
ナンナが、ラケシスの顔を見ながら、ほろ、と涙を落とした。
「早くお父様、帰って来ないのかしら」
「ああそうだ、言い忘れていました」
ナンナの言葉にきょとんとしたラケシスに、リーフが言う。
「フィンは今レンスターにいないのです」
「どうして?」
「しばらく好きなことをして来いと言いました。全国を回っている様です、
 いえ、心配ないですよ、ついこの間、子供がうまれるまでには帰ると手紙をよこしてきました」
「まあ、存外にのんきね」
「ちがうのお母様」
ナンナが、眉根を寄せたラケシスに言う。
「今まで、私達のために、やりたいことをずっと我慢していたのだもの、三年でも短いぐらいです。その時間で、お父様は、お世話になった人たちにお礼を言いに行きました。それと…」
「それと?」
「もしかしたら、その旅の途中でお母様を捜し出せないかしら、と」
「…」
ラケシスは目を閉じた。
「そのために、国と王様と娘をほったらかしなのね? しょうのないひと」
そして、彼女ならではの憎まれ口を叩く。
「そう。私も、あの人に言いたいことをひとつ抱えてここに来たの。
 リーフ様、待たせてもらっていいかしら?」
「もちろんです」

 その間に、こんなてん末があった。
 アルテナが、ラケシスをミーズに招いた。ジャンヌが先導する。はたしてトラキアの竜は、彼女らをミーズにおろした。
「ラケシス様」
アルテナが直々に、出迎えてくれた。高雅なたたずまいの膝を少し曲げて、
「ようこそ、ミーズに」
と、礼をした。
「ジャンヌ、ごめんなさい。無理を言って」
「私の事は気になさらずに。
 こちらのラケシス様はきっと、アルテナ様のお力になります」
「アルテナ様…貴女が、リーフ様の姉上…
 ええ、良く親御様に似ておいでです」
アルテナは、前のろうたけた貴婦人をつと見つめ、周囲に目配せをする。

 アルテナは、さきの大戦の後、トラキア王女の頃からの自分の城であったミーズ中心に行動している。紆余曲折あって、半島北との結束を固めるために、新しくマンスター侯爵に封ぜられた貴族と縁組みをした。その前後には、城からでなかった彼女に重病説もあったが、今は半島南北の掛け橋的存在として、レンスター本城との往復も忙しい。
「…フィン殿はしばらく、この城においででした」
と、アルテナは静かに言う。
「私の身を案じて」
「?」
首をかしげるラケシスに、紆余曲折が語られる。

 有り体に、とは言えないが、すなわち、こうだ。
 アルテナに関して流れた重病説の真相は、彼女の懐妊であった。アルテナは、これは、マンスター侯爵との間の事ではない、と前置きした。
「…真相は、私と彼しか知らぬこと。事態の処置が完了するまで、彼をここに拘束してしまいました」
 それが一二年前の事である。重病と言う割には、実に健やかそうに、アルテナは表舞台に帰ってきた。この奇妙な振る舞いに、なんらかの疑念を持つ向きがないではなかったが、半島交通の要衝になるミーズに、半島北の貴族や役人を頑として置きたがらなかったことが、いよいよ、そのゴシップめいた疑惑に火をつけた。
「侯爵と私との間には、まだ子どもはいません。ですが、あの子には、私が母だと言うことすら、知らせたくはないのです」
アルテナは細くため息をついた。 現在、彼女の身柄は、国王リーフと同じ格となる南トラキア女大公としてしかるべく、トラキア城に移る準備が着々となされている。
「いずれ、このミーズの城を託すことになります。あの子に託された大きなものは、きっと、将来の彼のためになるでしょう」
 ところが、アルテナの婚外子の事は、宮廷には、限り無く真実に近いゴシップとして流布している。
「ラケシス様、ラケシス様になら」
「ええ」
ラケシスは、たおやかに居住まいを直して、アルテナの張り裂けそうな言葉に返した。
「アルテナ様は、なにもやましいことはなさっておりません。消える竜の血を、ただ手を拱くわけには行かなかっただけ」
「…」
「血は守られました。それだけで、アルテナ様はきっと、赦されます」
「ラケシス様」
アルテナが涙を落とす。
「よろしいですか、アルテナ様、いかなる中傷にも、挫けてはいけません。貴女様には二つの血を守る義務がございます。
 お強く、そして弱く。貴女様を愛するひとすべてが、二つの血を守る貴女を守りましょう」
「…有り難うございます」
アルテナがそそと涙を拭った。
「お目にかかりますか、あの子に」
「ええ」

 小さなエルトシャンを金とするなら現れた子・小さなジークフリートは銀の輝きである。内側に強いものを秘めた、年より大人びた真摯な眼差し。見なれぬ客二人を訝し気にみている。
「…お見受けできなかった伯父様の御名を継がせました。
 さあ、リート」
アルテナはリートを抱き上げる。ラケシスが覗き込む。
「傭兵をしていた頃、トラバント王指揮下の騎士団に配属されたことがありました」
「まあ」
「何度か、お見受けしました。自らの信ずるところに殉じたい強さと悲しさを感じました。
 身体をはって自分の国を自分で守れるということに、私はうらやましくなりました」
「…獅子王は」
「それができなかったの」
「…」
「アルテナ様は、そのトラバント王によく似ていらっしゃる。
どうか、ご自分の信念に弛まれませんように」
アルテナはその言葉を待ってたのかも知れない。リートを抱き締めたまま、崩れ落ちるように、泣いた。