1          

 ファバルは、フリージ城下の朝市の喧噪の中にいた。
 民の力と言うものは、戦争が始まろうが終わろうがてんで意に介さないように見える。
 そして、城にいる時のような格好では、今までそういう人物に対して自分がして来たよう敬して遠ざけられると思ったから、イチイバルを担いでいないだけの傭兵のいでたちは、彼の存在を喧噪の中に紛らわせると同時に、慣れ親しんだ場所としての安らぎを与えてくれた。
 それにしても。先日、自分がイシュタルにたいしてとった行動のことを思えば、身体が沸騰したようになり、活動を止めてしまったように感じる。買い物に急ぐ同じ年頃の女性の顔が通りすぎるごとに、それを目で追う。
 だが、そんな浮いたようなファバルの心を察するようでもなく、市のにぎわしさは彼をおいてきぼりにしていく。
 左右を見巡らした。と、見たことのある風体の女が、道ばたに店を広げている老婆と話をしていた。そして、振り向いて城の方に歩いて行く。女の手には、見なれない草の束が握られている。
「?」
その顔は、たしかイシュタル専用の厨房で鍋をかき回していた女に間違いない。
 フアバルは店の老婆の元に近寄り、つっけんどんに声をかけた。
「おい」
「はい?」
老婆が顔を上げた。
「いま、あの女が買っていったくさは、なんて名前のヤツなんだ?」
「はて」
老婆はしらない、というより、教えたくない、という風な声を出した。
「あのヒトと俺とはまんざらしらない仲じゃない、教えてくれてもいいじゃないか」
「お教えしてもよろしゅうございますが、殿方にはとんと、御縁のない類いのものでございますよ」
老婆はしぼんでいた唇をわずかに広げてほっほっと笑った。
「まあ、お入り用になるためには、殿方も一枚おかみになることですし。
 …もしや、貴女様、…お城のお若い侍女様とでも間違いを起こしなさいましたかえ?」
「はあ?」
ファバルは言葉の中身を捕らえかね、首をかしげた。
「婆としては、あのような薬は扱わぬがよいと心得てはおります。
 が、いつの世にも、若気の至りと言うものがありまして、の」
老婆はもぐもぐと言った。ファバルは肩をすくめて、去ろうとする。
「ペニーロイヤル」
老婆が後を追いかけるように言った。ファバルが振り向く。
「え?」
「それが、あの草の名前でございます」

 その上。
「はあ?」
その日も昼食と一緒にイシュタルを見舞ったファバルは、イシュタルからその言葉を聞いて目を丸くした。
「だから…妊ったみたい」
イシュタルはさして表情を変えずに同じことを言った。ファバルはそういうイシュタルのすがたをまじまじと見た。いつもと変わらない、正体の分からない病の身。いや、その病の正体が、今しもイシュタルの身体の中にはある。
「母から聞いたり、周囲の若いひとたちが間違いを起こした時と、同じような事が、起こっているみたい。
 朝は何も食べられなくて、お昼は、…努力したけれど…」
「…」
ファバルは、しばらく目を染め、後ろ頭をかいたが、すぐ、真顔になった。
「…ユリウスの、か?」
だが、イシュタルはかぶりを振った。
「ユリウス様がお相手だったら、もう一人ぐらい生まれているわ」
「え?」
「…暗黒神の降りるお体になってからの一年、わたしはユリウスさまからきちんとしたお情けはいただいていない」
「は?」
「私を十二魔将の男達に与えられて、御自身は同じく女達と戯れておられた」
「…十二魔将の、だれなんだ?」
「…わからない。一時に一人が相手だったわけでは、ないから」
淡々とイシュタルは、屈辱的な生活の一端をのぞかせた。
「…」
ファバルは、困った顔をしたが、やがて、しゃんと背筋を伸ばした。
「そんなこと、俺には関係ないな」
「え?」
「安心しろ、俺が養うよ」
「…え?」
「それぐらいの甲斐性、あるはずだぜ」
「おまえの、子供ではないと、分かっているのに?」
「俺がここにいる時間から考えれば、俺の子供だってしても別におかしいことはないよ」
イシュタルは少しくうつむいた。
「親の事情と子供の事情ってのは、別物なんだぜ。
 そこにその子がいるって事は、生まれて来たいからいるんだから」
「そう、ね」
イシュタルは小さく言った。だが、それを許さないものの方が、周囲にははるかに多かろうことを察してもいた。
「ファバル」
「ん?」
「私が今、話したことは、今はまだ、だれにも言わないでくれる?」
ファバルはあっさり
「ん」
と了解した。突然の事に戸惑って、隠したい気持ちが先立ったのだろうと思った。
そこに
「イシュタルさま、お薬です」
と、侍女の一人がトレイを持って来た。イシュタルははっと、目の前に出されたハーブティーを見た。
 鼻につく覚えのある香り。
「…」
食べられないのを口実にして、拒否しようという思いがさっと立った。だが、侍女の眼差しがいつになく厳しい。
 おそるおそる、カップのつるに指をかけた。

 この香りのするハーブティーをしばらく飲んだ後の「大きいねえ様」の様子を、よくイシュタルは覚えている。きっと、彼女の…最期の情景だったかも知れない。
「ねえさま、お腹痛いの? 大丈夫?」
駆け付けたテシュタルの頭を、彼女は震える手で撫でた。部屋には、何となく、怪我をした後のような血のにおいがする。
「大丈夫。…わたしは、大丈夫」
彼女はそう言った。
 なんとなく分かってきた。彼女の身体を共有する多くの小領主のだれかの子を妊るたびに、彼女はこの薬を使って「吐き出し」ていたのだ。
 私の、この子も?
 イシュタルは無意識に腹を押さえていた。
 薬はすぐにはきかないはずだ。
 でも。

 そして、数日後、朝市にやって来ていたファバルは、例の薬草売りの老婆が深刻そうな若い女と会話しているのを見た。
 生活に困っているようには見えない、小洒落た風体の女性だった。
 彼女の言葉が聞こえてしまった。遊びが過ぎて、誰が父親か分からない子を妊ってしまった、なんとかしたい、と。
「それはおこまりで」
老婆はもぐもぐといって、あの草を差出した。
「なに、これがすっかり洗い流してくれますよ。若いおからだとはいえ、お大切に…」
老婆の長くなりそうな口上を打ち切るように、女はコインを投げて去っていく。
 望まない子供? ペニーロイヤル? 洗い流す?
 瞬間、悟った。
『あのババぁ!』

 遅かった。「城づき」の侍女が右往左往している。ファバルが事情を聞こうとしても、
「イシュタルさまが急にお苦しみで」
と首をかしげるだけだった。そのイシュタルの部屋の入り口の前では彼女の侍女達が壁を作っている。
「イシュタル!」
壁越しに叫んでいた。だが、言葉は返らず、歯を食いしばるような声が聞こえる。
「イシュタル!」
「…公爵様、落ち着かれて下さい」
侍女の一人が言った。
「姫様にはこれでよいことなのです」
「いいことなんてあるかよ! 何の話も聞いてないんだろ!」
「姫様のお身のためです」
「だったらなおさらふつうに産ませてやれよ!」
「…」
侍女達は押し黙った。が、ファバルの目の前の一人が急に泣き崩れる。
「分かっております。こうしても、いなくなった私の孫が帰ってくるわけではありません…
 四つと六つの、かわいいさかりでした… いけにえとやらに、なりました…
 姫様からあの悪魔の魂を持った子が生まれ、あの悪夢がくり返されようこと、もう耐えられないのです…
 公爵様、どうか、この心情、察してくださいまし…」
ファバルは、侍女の崩れ落ちた背中を見ていることしか出来なかった。
 部屋の奥で、イシュタルが叫んだ。

 「何も話してなかったのかよ」
夜、錯乱からいささか持ち直したらしい知らせを受け、ファバルはイシュタルの元を訪れていた。彼女は半分眠っていたようだった。
「なんと説明しても、バーハラ宮廷の壁の向こうはすぐには理解されないもの。
 …ユリウスさまからそう言えとされたと認識されればそれまで」
ファバルは暫く黙っていた。やがてソファの前のテーブルを、拳で何度か激しく叩いた。
「畜生!」
再びまどろみの中に入っていたイシュタルはは、と目を覚ました。
「これから生まれてくるあかんぼが、なに悪いことしたっていうんだよお…」
頭を抱え、うなだれたファバルに近付こうとして、イシュタルはべたっと寝台から落ちた。腰から下に力は入らないし、出血も止まっていない。
 それでも、彼の近くになりたかった。
「ファバル、泣いているの?」
「…生まれてさえくれれば、代わりに育てる手はいくらでもある。
 大人の都合でこんなことしていいと、思ってるのかよ、あのババぁ達は…」
「…」
イシュタルは、ファバルのスネのあたりに背中を預けた。
「これでいいのよ」
「おい!」
「…お前は、私と子供のために泣いてくれる。
 そういう男の子供なら、また妊りたい」
「は?」
「そういうこと」
イシュタルはほんのりと微笑んで、ファバルの膝に頭を預けた。それには自然と、彼の手が添えられる。ファバルが呟いた。
「ユングヴィに、来てくれるのか?」
「ティニーの都合がある。旅と言うなら、お前の父が生まれたという、イザークに行きたい」
「どのみち、元気にならなきゃな」
「そうね」
顔を上げたイシュタルとファバルとは、当たり前のように視線とねそして唇とをあわせた。彼女の唇からは、かすかに薄荷、いや、ペニーロイヤルの香りがした。

ペニーロイヤル おわり。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ども、パパこと清原さん、1234カウントおめでとうございます?
(どんどんぱふぱふー♪)
御希望(というか俺が押し付けた)イシュファバ完成です?
多くは語りません? 御笑納ください?♪
19990408清原因香

←読了記念に拍手をどうぞ

prevback