1          

 イシュタルの体調は、なかなか戻らなかった。ファバルはその理由を
「食ってないからだ」
と主張して、ユングヴィに命じてミレトスからいろいろ美味珍味を運ばせようとしたが、例のごとく、自分達が吟味したものしか食べさせないと言う侍女達の迫力に圧倒されて断念した。
 ファバルはそういうことを、時々自分の部屋を訪れて面白く語ってゆく。彼が今までに口にした「うまかったもの」の話も、イシュタルはあまり実感としてわかなかった。何を食べても、味気ないことは昔からのことである。そればかりか、一時はその侍女達の丹誠隠こもった食事さえ残すことがあった。
 ある時ユリウスに言われた、
「お前の体は柔らかくていいな」
と言う言葉が、妙な圧力になったことがあった。皮膚の下にねっとりとしたものがつまっている感じがして、それをなくしたくて。さすがに侍女達の手におえず、バーハラから高名な医者が招かれ、そしてその事態を乗り越えたと記憶している。

 そんなある日。
「ほれ」
と、くるなりファバルが投げてよこしたのは、黄色くて丸いオレンジ一つ。
「レンスターでとれた今年最初のやつだとさ」
ファバルはまどに背を預けて、さっさと皮を剥きはじめる。が、呆然と手にオレンジを載せたままのイシュタルに気がついて、
「あ、ナイフがないんだっけな」
と、その皮を剥いたオレンジと交換した。周りの空気が動いて、すっとした香りが立つ。
「白い房の皮を剥いて食ってみな」
言われた通りにすると、以外にすんなりとのどを通る。甘味と酸味と、歯触りが楽しい。
「おいしい」
つい口に出た。
「人間、その感情忘れたら…おしまいだぜ」
口に放り込んだ房を飲み込みながら、ファバルは言う。
「どうせ、ばばぁたちからあれは食うなこれは食うないわれて育ってんだろうから」
「そうね」
「このことは内緒な」
イシュタルから房のなくなったオレンジの皮を受け取りながら、ファバルはに、と笑った。
「…そうだ、ティニーがここを出るらしいぜ」
「え」
「シレジアに行くんだとさ」

 「おねえ様、ごめんなさい」
呼ばれて、やってきたティニーは、何を言われても覚悟の上と言う神妙な顔をしていた。
「私、おねえさまの看病もしたいけど、セティ様とも一緒にいたいの」
そう言って瞳を潤ませた。
「でも、セティ様にはシレジア復興の大事なお仕事があって、いつまでもフリージにはいられないの」
「私に気を使わなくてもいいのよ。
 ティニー、シレジアにいってらっしゃい」
イシュタルは、ティニーのつやつやした銀色の髪に触れながら微笑んだ。
「きれいになったわ」
「…ねえ様」
「あのひとに大切にしてもらって、もっともっときれいになりなさい」
「…はい」

 だが、ファバルはそのままフリージに残るらしい。食事の時ぐらいにしか顔をあわせることはなかったが、
「お前、国元を放っておいていいの?」
の問いに、彼は
「俺、ユングヴィのことはよく知らないから、任せてあるんだ。むこうもそうしてもらいたいようだし。
 こんな傭兵上がり、ひとりいたって変わらないよ。出来上がった書類にサインして、あとはよきにはからえさ」
ひょうひょうと笑った。だがついイシュタルは声を高くした。
「それはだめ!
 それでは何も変わらない!」
「わかってる」
「お前が養っていたような孤児が増えて行く一方よ!」
「…それもわかってる。
 でも、俺はここにいなきゃいけない」
「ファバル、人の命を預かっている身と自分がわからないの?」
「あんたほっといてユングヴィになんて戻れるかよ!」
「どうして!」
「お前に惚れてる… それは理由にならないのか?」
「え」
イシュタルははた、と、動きを止めた。
「…今」
「何度も言わせるな。
 俺はあんたに惚れた。惚れた女が寝込んでいるのをほっといて、ユングヴィには戻れない」
ファバルは、自分の言ったことに動揺したのか、紅潮した顔を背けがちにした。イシュタルはそれ以上の毒気を抜かれて黙ってしまった。
「おれの一人勝手だ、忘れてくれ」
それだけ最後に言って、ファバルは部屋を出て行った。

 宙に浮いているようだった。手の触れているところだけが妙に生々しく意識をもって、イシュタルは喘ぎながら寝台を眺めているユリウスを見た。イシュタルに絡み付いてるのは、当然、ユリウスではない。イシュタルの視線に気がついたのか、彼は目の奥の濁った女との接吻を解いて、笑った。
「…フィーア、それ以上じらすとイシュタルは狂うぞ」
イシュタルの白いももの間から、やはり濁った瞳の女が顔をあげた。
「イシュタル? どうだ、言う気になったか」
ユリウスは唇の端をにやりと釣り上げた。イシュタルは起き上がりながら顔を背けた。ユリウスを一言乞えば、そのまま彼の腕の中で眠ることができる。だが、そうすることが異常なまでに恐ろしかった。
「ふん」
ユリウスは、いささか腹立たしげに鼻をならして、膝の上の女をぐらりと揺らした。嬌声が上がる。
「この、ノインがうらやましいだろう。…前までは、お前がここにいたはずだ」
はは。ユリウスの声は乾いていた。
 イシュタルはやっぱり顔を背けた。矜持が、この女達のようにふるまうことを許さなかった。
 それにしても、この十二魔将という者達は何者なのだろう。マンフロイなる黒衣の魔道士が連れてきて、一層ユリウスの変化が激しくなったと思う。
 なにより、イシュタルを求めなくなった。
「…『暗黒神』に昇華なさるおからだには肉欲など相応しくありません」
マンフロイはそんな、わかったような分からないようなことを言っているが、そのわりには、十二魔将に弄ばせて、その様子を肴に魔将の女を抱くことはする。
 とにかく。顔を背けたままのイシュタルにしびれを切らしたのか、ユリウスは他の十二魔将の名を適当に呼んだ。
「…あのままでは寝るに寝られまい。…イシュタルを満足させてやれ」

 入りそうな穴を全部塞がれた自分の姿を、イシュタルは高いところから眺めているような感じだった。
 声も出せなかった。
 何の反応も出来なくなる程何度も突き落とされ、髪となく顔となく身体となく、白い粘液を浴びせかけられた。
 イシュタルは胸の奥に悪寒を感じた。
 目の前が黒くなった。

 「おはようございます、イシュタルさま」
「いつもよりすこしお寝坊でしたな」
「汗しておられます、ご朝食の前にお召し替えを」
侍女数人がイシュタルの寝台のわきに音もなく立っていた。別の侍女が、着替えやら何やら身支度をもってあらわれる。
 いつもの朝だった。
 が。
 着替えを手伝っていた侍女の一人が、イシュタルの姿を見てハッと息を飲んだ。小声で同輩を呼んだ。みな同じように息を飲んだ。
 イシュタルはそれを見ないふりをし、そしてわすれた。それはささいなこととして気にかけないようにと言う母の言い付けの通りだ。
 別のことを考えてた。
「…ファバルは今日も来てくれるかしら」
でも、そんなこともどうでもよくなっていた。
 夢の続きはまだ自分の中で燻っているのだろうか。
 嫌に気分が悪い。

 つづく。


prevbacknext