1          

ペニーロイヤル
 

たつきさんに。
 

 今まで、自分が信じていたものが崩れてゆく。
 一陣の風に、赤い髪が炎のようにあおられる。
 黒い血反吐。
 額のスティグマが薄れてゆく。
 吐き出された血が生き物のように、足下に絡み付く。
 取られる! 引きずり込まれる!

 「!」
明るかった。見なれないけれど、見たことある天井。
「もう大丈夫でしょう」
「でも、今は何をされても大儀でしょうから、お話も程々に」
そんな声がして、人の去ってゆく足音、だが他人の気配は消えない。
「誰かいるの?」
自分は寝ていた。少々痛むが、頭は冴えている。天井だけの視界に、見なれた顔が飛び込んでくる。
「おねえ様!」
「…ティニー?」
「よかった。おねえ様のお気がつかれて…」
いかにも数日を、看病に費やしたていで、ティニーは涙を滲ませている。
「もうだめかと思いました…」
「私、生きているのね?」
どうして生きているのだろう。
 よく考えれば、ここはフリージ城。生まれてから数歳までを過ごしたはずの、しかも、自分の部屋。
 ここさえも制圧して、いよいよバーハラに入ってくる勢いの「解放軍」を討つべく、ヴァイスリッターを率いて、このあたりまでやってきたはずだった。
 だが、ヴァイスリッターは壊滅させられた。ひとり、自分…イシュタルだけが捕らえられ、生きてこの部屋に軟禁された。
 そしてここで、バーハラ落城の報を聞いた。…イシュタルは手を布団の上に出そうとして、その手首の痛さに現実に引き戻されていた。そうか。私は死のうとしたのだ。
 起き上がろうとするとティニーが慌てる。
「おねえ様、まだ横になっててください。もう少し誰かが見つけるのが遅かったら、体中の血が抜けていたって」
「大丈夫…外を見させて」
起き上がれば、窓の外はよく見える。日の光が目に痛いほどだ。
「いい天気だわ…ティニー、私、何日眠っていたの?」
「一週間、ぐらいかしら」
「ずっと見ていてくれたの?」

 ひとり、敗軍の将として面々の前に引きずり出されたイシュタルについて、彼女にも相応の「制裁」を与えるべしと言う、強硬な意見も無かったわけではない。だが、中には、ミレトスの子供達を生け贄としようとしたユリウスに、覚悟の背命をしたと言うことを理由に、命乞いをしたものもいた。従妹ティニーもそのひとりである。解放軍首魁セリスは、寛大に、イシュタルに命を許した。
「それだけじゃありません。おねえ様は、私とお母様に優しくして下さいました…」
「大きい姉様?」
イシュタルはぽつんと呟いた。アルスターの城で暮らすようになった頃、父の妹と言う女性が、娘をつれてやって来ていた。
 明るく強いひとだった。どんなことをされてもへこたれた顔をしないその人は、母ヒルダから不条理なまでにしいたげられていた。理由は分からない。わからないから、イシュタルとその兄・イシュトーは、その人を「大きい姉様」と呼び、場内の奥の、窓のない部屋に娘と一緒にすまわされていた人を訪ね、慕った。
 このティニーも、本当の妹のように可愛がった。ティニーは、イシュトーの最後について、
「ごめんなさい。おねえ様。私、おにい様のこと、とめられなかった…」
と泣いた。軟禁が決定してすぐのことである。ここまで育ててもらって、可愛がってもらった恩を忘れたのかと、罵られることを覚悟でいたのだろう。
「…戦は、その時その時で何が正義にも変わりうるもの。
 気にしなくていいの」
とは言ったが、こうしておめおめと生き延びることになろうことには、イシュタル自身が信じられなかった。
 あのまま、ユリウスに骨の随まで弄ばれ、相思により結ばれたとはうわべだけの、足枷をつけられた后になってゆくはずだった。
「…そんなユリウス様でも、私は愛していたのに」
呟いてみた。だがその声はあまりに小さく、ティニーには聞き取れなかった。
「え?」
と聞き返しては見るものの、そこで見えないところから
「ティニー?」
控えめな呼び掛けがあり、彼女は「はい」と瞳を輝かせた。涙もどこにやら疲れも吹き飛んだ顔で、
「おねえ様、私は行きます。…お食事、ちゃんととって下さいね」

 しばらく後。
「イシュタル、メシだぞ」
聞き覚えのある声がした。
「誰?」
聞いたが、答えは無い。トレイの上をシルバーが踊る金属音が、足音と一緒に近付いてくる。
 ついで現れた顔を見て、イシュタルはつい
「あ」
と声をあげていた。みなりこそ、こざっぱりとした名士という風情だが、記憶に間違いが無ければ、コノートの宮廷で、父に可愛がられていた腕利きの傭兵とかいう男。名前は、たしか、
「…ファバ、ル?」
「覚えていてくれてるとは光栄だな」
ファバルは伏せがちの顔の、表情をかえないまま肩だけ竦め、ベッドに腰掛けているイシュタルの前にまで、足で小机を引き寄せ、トレイを乗せた。
「数日絶食してたことになるから、まずはこれ、だとさ」
目の前には、柔らかく具を煮込んだスープがひと皿と、温めたミルク。
「全部食ってくれよ。ババぁどもが心配してるからな」
「…ちょっとまって」
イシュタルは、言うだけ言ってくるりときびすを返したファバルを呼び止めた。
「ここはフリージ城なのに、どうしておまえがここにいるの」
「…ユングヴィに帰る前の、骨休めってところかな」
ファバルは表情をかえない。
「いろいろあるんだよ」
質問もあまり意味が無かった。満足な答えを与えぬまま、彼は部屋を出ていってしまう。

 ファバルがここにいる理由を聞いても、ティニーは彼が言ったことと同じこと以外言わなかった。
 そのティニーからぽつぽつと、大陸の動静の変化については聞いていた。セリスをかかげて戦った面々は、それぞれゆかりのある土地に赴いたと言うことだ。イチイバルを扱えるファバルは、母の祖国であるユングヴィをおさめることになるらしい。
 イシュタルは、軟禁ではなく、フリージ家預かりの身になっていた。しかるべき処遇を、という声も高い中で、新フリージ公爵夫人ティニーは頑として、イシュタルにこのままフリージにいてもらうことを主張したと言う。
「私の濃いトードの血のため?」
嘲りぎみに笑ってみた。だがティニーにはそんな悪知恵など最初から無い。
「おねえ様は、御家族も…ユリウス様もおられなくて、本当にひとりきりなんですもの」
そういう顔は、実に真摯な意志を感じさせた。
「ユリウスのおられないおねえ様の気持ち、…少し恐いけれど、分かりそうな気がします」
ティニーは、一度言葉を止め、傍らで物言わず存在する賢明そうな男を見た。マンスターで対フリージの手をあげさせた立て役者、シレジアからやってきた風と光の賢者セティである。
「…」
セティは少し切なそうな顔でティニーとイシュタルとを見た。ティニーがは、と口を押さえる。
「あ、…ごめんなさい…おねえ様」
「別にいいのよ。幸せになりなさい」
イシュタルはひさしぶりに、少し笑えた。妹と思っていたその娘が、何かに変わろうとしている、その微妙な途中経過がきらきらとティニーを彩るようだ。
「昔の私にもあったのよ。そういう頃が」
初めて、バーハラの宮廷に上がって、闊達としたユリウス少年を見受けた時。宮廷に張られた「鉄のカーテン」のおかげで、詳細は伝わらないが、とにかく不慮の事件があり、母である皇后ディアドラと妹ユリアを失った「悲しみを精一杯隠した」妖しいまでの陽気さに、イシュタルは引き込まれた。
 二人十五を迎える前には、もう離れられない間柄になっていた。
 でも、「離れられない」という言葉の意味は、いつのまにか、変わっていた。
 ユリウスの見通せない何かに、怯えるようになっていた。生理的な畏怖。それでも、ユリウスが与えてくれたもの全部を、嘘だと断じる勇気は、イシュタルにはなかった。
 娘を未来の皇太子妃と舞い上がる母がすこし鬱陶しかった。そんなつもりはないのだ。ただ、黒い龍に飲み込まれてゆくユリウスの、人間部分を信じていたかった。出会った頃の瞳の光に、もう一度会いたかった。
 でも、黒い龍が抜けた後のユリウスには、何も残らなかった。魂を食い尽くされた抜け殻だけが、機能しないままに残されてしまったのだ。



backnext