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 ファバルが言ったババぁ達というのは、イシュタルにつき従う侍女の一団のことである。
 年齢的に言えば彼女の祖母としても過言では無い、そういう面々がずらりと揃って、食事の調理から始まる身の回りの一切合切を、フリージ執事さえにも手を出させずに行っているのであった。
「魔法使いの工房のようだ」
食事を出すためにイシュタル専用の厨房の前に立ったファバルは、そんな感想を持っていた。
 将来の皇后に病気になどあってほしくない、そういうヒルダの方針に心酔していた侍女達は、ヒルダがいなくなったあとも自主的に残り、イシュタルの世話に勤しんでいる。もうイシュタルにはそんな栄華などないかもしれないのに。
 とにかく、厨房の中は、得体の知れない植物でいっぱいだった。だがその中に、彼とパティとが養っていた孤児院でふつうに見かけたものがあるところを見ると、それらは全て香辛料、なのだろう。
「この間お出ししたポトフにも入っておりましたよ、はい」
鍋をかき回す一人が、厨房いっぱいの香辛料に目をまわしたファバルの問いに答えた。
「食欲を増すものと、いきなりのお食事でからだが驚かれないようにするものも」
それから長々しく、香辛料(というよりは薬草)の話になったもので、ファバルは「もういい」といいたげな顔をして去ることにする。

 イシュタルが食事の手を止めて、尋ねた。
「そういえば、…盗賊のまねをしていたお前の妹…どうしているの?」
「え?」
「ここにいるなら、コノートに戻って、孤児達の世話を」
「黙って食え」
ファバルはイシュタルの言葉をいいさしてから、ぽつぽつと語った。
「孤児院は、アニキに任せてある」
「お前に兄?」
「前の戦いの時、盗賊をやってたって人で…俺のおふくろにずっとついてて、俺にイチイバルを継がせてくれた人だ。金はユングヴィで出してる。
 パティは、イザークに行った。…シャナン王子と一緒に」
「イザーク?」
「親父が生まれて、あいつも生まれて少しはいた場所だって聞いたよ」
「お前の父親はイザークびとなの」
「半分な。父方のばーちゃんがアグストリアで商売やってるって聞いたけど」
「…」
「…イチイバルをひくと、頭の中がざわついて、傭兵をやっているあいだはそれが鬱陶しかった。
 この戦いで、イチイバルを使い出すようになってから、それが、俺の中で重ねられて消えていくはずだった記憶だってわかって…
 今は親父をよく思いだす。片手がほとんど動かないんだ。おふくろを守るために火傷したっていうんだ。手袋の下で、ひきつれてるのが恐かった」
「…」
「ごめん、気持ち悪い話だった」
「いえ」
いつのまにか空になった皿をつい、と押しやり、イシュタルは茶を含む。
「でも、軽々しく人前で話すことではないわね。…ユングヴィ公爵の名前が泣く」
「どうしてさ」
「自分が生きてきたはずの真実が、通用しない世界があるのよ」
「…」
ファバルはぶすっとふて腐れた顔で、腕組みしたままソファに腰を投げ落とした。
 だが、イシュタルの言葉は、半分は自分に向けられていた。

 生きてきたはずの真実を否定されたのが、「大きいねえ様」だった。
 イシュタルには、二人の叔母がいる。だが、物心ついてからイシュタルはその二人にあったことは無い。父や祖父が、東のイザークに遠征に言っている間、下の叔母はシレジアびとの情にほだされ駆け落ちをしたと聞く。
 彼女の記憶にある「大きいねえ様」は、上の叔母のことだ。
 イザーク遠征の帰り道、時のグランベル王子を暗殺したかどでの追求をさけて行方をくらましたシアルフィ公爵、当局の態度を不満として、反旗を翻したその息子。アグストリアの某国の王や西のレンスターの王子と結託して、宮廷の転覆をはかろうとして、壮図空しく皇帝になる前のアルヴィス陛下に誅殺された。
 上の叔母は、その企みの片棒を担いだと聞いた。いや、公爵の名誉を回復させる政治的意図のために、人質として、幽閉されていた、とも聞いた。

 「大きいねえ様」は、自分の身の上にあったことを何一つ話さずに、ある時崩した体の調子が元でなくなった。イシュタルがバーハラに上がるようになる、少し前のことだったと記憶している。
 身のよりどころをなくして、泣きじゃくるティニーを、イシュタルはそっと抱き締めていた。
「ティニーのお父様がこのことを知ったら、どんなにお嘆きになるかしら」
と、そう思った。
「いいこと、ティニー」
イシュタルはそういって、ティニーと目線をあわせた。
「あなたのお父様は、私がお父様に頼んできっと探していただきます。だから、泣いてはだめ」
彼女がたった一つ形見とわたされたロケットには、紅い髪の、まだあどけなさを残した誠実そうな顔があり、極上の赤を日にすかしたような瞳が、穏やかにこちらを見つめていた。

 その「大きいねえ様」がぞ依命だった頃、小さいティニーに聞いたことがある。
「ティニーのお父様って、どんな方だったの?」
ティニーは
「知らない」
と首をかしげた。イシュタルは、いつも一緒にいる兄イシュトーと小さいティニーの手を引いて、「大きいねえ様」のところに行く。
「ねえ様、ティニーにお父様のことをはなしてあげて」
と言った。彼女は、一瞬だけ、瞳を曇らせた。
「ええ、でもティニーはまだ小さいから、全部話すと分からなくなってしまうわ。
 …もう少し、大きくなってからね」
彼女は、イシュトーと、イシュタルと、小さいティニーの頭を順番に撫でた。その彼女から、ふわりと、薄荷の香りがした。

 「大きいねえ様」は、よく体を壊していたと記憶している。
「ねえ様のお見舞いに行っていい? お母様」
と聞いたら、母ヒルダは
「その必要はありません」
と、娘の希望を一蹴した。
「あの女は、いままでずっと悪いことをしてきたのです。病気はその酬いです。
 …このごろ、あの女の部屋に出入りしているようだけど、わざわざお前が行って仲良くする必要もありません」
 だが、母がそう彼女を疎む理由が分からなかったイシュタルは、やっぱり兄と一緒に彼女のもとに行った。
 知らない土地の話をしてくれた。アグストリアの光やシレジアの雪の話をしてくれた。
 その時侍女が、彼女に、と、飲み物を持ってきた。子供達の前を通ると、明かりがあっても薄暗い部屋に、鮮やかすぎる程の薄荷の香り。彼女がそれを飲み干すのを見届けて、侍女が帰って行く。
「ねえ様、そのお茶おいしい?」
と聞くと、彼女は
「これはお薬よ。…あなたのお母様が私を心配して下さったのね」
と、笑った。
「…ここにくることは、お母様にとめられているはずでしょ、…帰りなさい、二人とも。
 …お母様に、私はすぐ元気になるからと、伝えてね」

 イシュタルのことづてを聞いて、ヒルダはしばらく「はははは」と大層下品に笑った。
「なるほど、すぐ元気になります、ね」
意味深そうな言葉の中身は分からなかった。あざやかな薄荷の香りがイシュタルの食欲を誘っていた。
「お母様、明日のおやつに、ねえ様の飲んでたお茶、出して」
と言うと、ヒルダは下品な笑いをやめて言った。
「あれは、お前にはとんと必要のないものです。いまも、これからも」
「え?」
「バーハラの皇子様にみそめられる運命のお前なんだから」
ソレとコレと、母の言葉につながりは感じなかった。言葉じりに湿った不快感を感じて、それ以上は言わなかった。

 「大きいねえ様」が、寄らば大樹とアルスターを訪れる地元の小領主たちに「共有」されていたとは、彼女がなくなってから、侍女達から聞いたことである。


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