ところで。
 トーヴェ城を押さえ、マイオスに制圧されたシレジア王都を救いに向かおうとしていたセイレーンのシグルド一行に、悲報が舞い込んでいた。
 マーニャ、戦死。
 その方を受けた時、その場のすべての人間が、黙った。
 マーニャ。シレジアに舞い降りた一騎のヴァルキリー。だが天は、彼女になにの嘉するところも与えず、たった一本の矢によって、ふたたび我が元に召し上げたのである。
 無言の中、一人だけが、その事態に反応していた。
「…マーニャ…」
レヴィンの、日にすかした木の葉の緑の瞳から、ぼつりと涙を落とした。シレジアを制圧され、母窮地の報があっても、陣営の兵士の間で笛を吹いていたレヴィンが、泣叫ぶという体ではないにしても、回りにはばからず涙を落とし、しまいには崩れ落ちて、床を拳で叩いた。
「マーニャ…」
「レヴィン様?」
フュリーは彼を立たせようとしたのか、手を差し伸べた。彼女にとっては実の姉のことである。だがその瞬間の彼女は、ただ、事態を受け止めて、
「…」
エッダの聖印をきっただけだった。
 レヴィンに先を超されて、泣けなかったのだろうか。オイフェはキナ臭くなる鼻をおさえながら考えていた。
 そのレヴィンは、フュリーの気配を察していたのか、差し伸べられた手を払って、立ち上がって、部屋を出ようとしている。フュリーは、面々にに退出の礼を取ってからその後を追った。

 レヴィンたちがいなくなった軍議の場は、早くもマーニャの弔い合戦となりそうな様相を呈して、熱く空しく盛り上がって終わった。
 オイフェが、シグルドの部屋を出ると、レヴィンとフュリーは廊下のそう遠くないところにいて、何ごとか言い合っていた。
「王子…」
「ついてくるなよ」
こんな会話が聞こえた。
「非常識すぎます…こんなときに町にいらっしゃるなんて」
「ほっといてくれ。母上がマーニャのことを、もっと真剣に考えてくれていれば、俺はマーニャを戦場には出さなかった」
「…王妃様のせいになさるのですか?」
「…ま、詩にあるロマンスと、現実は違うってことだよな」
「それとこれとは話が違います。…王妃様が御存じになったらきっと嘆かれます…」
「…お前、代わりになるか?」
「え?」
レヴィンは、あからさまに、フュリーの全身を見た。上から、下まで。鼻で笑ったようだった。
「…」
フュリーはうつむいて、何かを言ったようだった。レヴィンは、今まで彼女の胸の前で固く結ばれていた手を引いた。誰も使っていないはずの、側の扉を開けて、フュリーを引きずるように中に入っていく。

 以上の光景を、オイフェはでくの坊のように立って眺めていた。二人は、オイフェに気がついていないようだった。
 そのまま、一日、出てこなかった。

 おのおのの手繰る糸に引かれるように、運命の扉は、いよいよ、開こうとしていた。
 シグルドは、救ったシレジアをラーナに任せ、なにかの覚悟に動かされるままに、本国に戻ることを決心していた。
 請うて居城を、グランベル北部に接するザクソンに移した。その先に展開するグランベル軍の真意を、半ば悟りつつ、半ば否定しつつ。

 ザクソン城で出陣を待つ部隊の準備をあれこれと指示しながら、オイフェは、天馬部隊に訓示するフュリーを呆然と見つめていた。
 何ヶ月か前、あの気掛かりな一日の後、部屋から出て来たフュリーの様子を、頭の中で反芻していた。やはりオイフェは、事態を自分一人の胸におさめておくことは出来なかったのだ。
 シグルドから指示を受けて、セリス付きの侍女が部屋に押し掛けて、フュリーを支えるように出て来た。いつも手入れを欠かさなかった髪も、乱れていることすら気がつかない風で、頼り無く足をすすめて出て来たフュリーに、いつもの毅然さはなかった。
 部屋の奥から、もろ肌を脱いだレヴィンが、憮然と、睨むように、フュリー達を見ているのが見えた。

 奪回されたセイレーンで、レヴィンは母ラーナと、ずいぶん長いこと話し合っていた。
「王子は、古の風の賢者フォルセティの末裔です」
フュリーが呟くようにいった。
「おそらく王后陛下は、この時期こそと思し召して、王子にフォルセティ継承を為さったのだと思われます」
 シレジア城の古い侍女から聞く、かつてのラーナの話には驚かされた。
 先代シレジア王(レヴィンの父である)が王子の頃、彼女はシレジアにある四つの城の守護隊長…四天王…の筆頭だった。シレジアは独立国家として、長いこと戦沙汰はなかったが、しばしば頭部から南部にかけての海岸を襲うオーガヒル海賊を相手に、純白の天馬を真っ赤に染める戦いをするような烈女だったらしい。
 気丈さ、芯の強さは、オイフェが話に聞く限り、マーニャの姿と重なるようでもあったし、先代シレジア王と結ばれてからの、宥恕ある王妃としての姿は、フュリーのようでもある。
 とにかく、そのフュリーと息子との関係を察知したラーナの手で、慎ましさの中に華を含んだ宴が用意されていた。
 宴に先立ってフュリーには、シレジア王太子妃に準ずる格の宝飾品が贈られ、それは普段ことさらに装うことのない彼女を華々しく彩った。だが、本人の笑顔はなんとも貼り付いたように見える。
「フュリー…嬉しくないのかな」
シルヴィアが言った。
「嬉しくないわけないと思うわ。レヴィンと結ばれたのよ?」
ラケシスが答える
「でも、ねぇ。レヴィンの魂胆が見え見えなのよねぇ」
と、シルヴィアは腕を組んだ。
「魂胆?」
「いかにも、いなくなったマーニャさんのかわりって感じ。
 そういうこと、フュリーがわかっていないハズないんだよね」
「まぁ」
ラケシスが眉をひそめた。
「ま、男にもいろいろ質があるってことでしょ。なんか、レヴィンも変わったよね…」

 そう噂されるレヴィンの様子も、この頃は持ち前の愛想のよさが時々なくなる。ちょうど今、そのようだった。フュリーの固い笑顔に、その仏頂面がよくにあっているようにも感じた。

 そして。
 グランベル帝国領になるリューベックから、ドズル公爵ランゴバルトの手勢が迫りつつあった時、オイフェはフュリーとその天馬と、空の上にいた。
「『ノエル』、ハイヤ、ハッ」
名前を呼ばれて、フュリーの天馬は、布陣を左に見せながら南下する。オイフェは、敵の布陣を書き込もうとするが強風と高度にすくみ上がって動けない。
「軍師様、下に降りましょうか?」
と振り返りぎみにして聞いてくるが、オイフェは
「い、いえ、目で、覚えます」
と震えた声を上げた。
「高度をもう少し落としましょうか」
「お、ねがいします」
旋回しながら、天馬はわずかに高度を下げる。
「弓兵がいるみたいですね」
二人で同じ方向を見る。
「あの旗の紋章…ユングヴィのものでしょうか」
フュリーの声が震えているように感じた。空中を乱舞していた何騎という天馬のうち、ほかのだれも傷つけずマーニャだけを狙える腕。「天の配剤」よりほかにそれを成功さしめるものはない。ブリギッドとエーディンは、ランゴバルトに協力してザクソンに侵攻しようとしているアンドレイの存在にため息を付いていた。

 そこに、一陣の風が天馬をあおった。
「!」
フュリーが手綱を引くが、華奢な天馬は大きくバランスを失った。
「あ」
フュリーの後ろにまたがっていただけのオイフェはそれだけで落ちかける。
「つかまって!」
フュリーは手を差し伸べた。オイフェがそれを掴んだ。だが、また風が来て、今度は二人とも落ちた。

 幸い、高度はさして高くなかったし、下は水だった。潮をしたたらせ、お互いの肩を支えながら海岸に戻ると、フュリーの天馬が先に主人を寂しそうに待っていた。
「まったく」
と天馬に苦い言葉を投げそうになったが、フュリーは、心配そうに鼻をならす相棒の首をたたきながら
「ええ、ノエル、私なら平気よ」
と言った。
「…リューベック軍に、見付かっていなければいいですね」
「ええ」
フュリーはそう頷いてから、
「オイフェ、この岬の当たりに村があったわね?」
と言った。
「はい」
そう振り向くと、フュリーは自分の腕を抱えるようにして震えている。
「大丈夫ですか?」
「…ごめんなさい。ちょっと、寒くて」
「あたりまえです、海に落ちたんですからね」
村ですね。オイフェはフュリーを天馬の上に乗せた。

 岬の村について、事情を話して宿を請うと、宿の女将は喜んで部屋をあけてくれた。具合の悪そうなフュリーの手当てをするために、部屋からオイフェが追い出されてしばらくして、いやに中っ腹な顔をした女将が戻ってくる。
「あんた、あの天馬騎士さまの弟さんかなんかかい?」
「へ?」
「だったら、あの騎士様の旦那さんも知ってるね?
 こんな危ない仕事、早く止めさせなさいな!」
「は?」
オイフェが目を丸くする。
「ど、どういうことですか」
「どういうこともなにも、あんな大きいお腹したひとを天馬に乗せて」
女将の言葉を最後まで聞く余裕もあらばこそ、オイフェはつんのめりそうになりながら部屋に飛び込む。
 あたたかい部屋の中で、フュリーは横になっていた。
「フ、フュリー…さん」
眠りかけていたらしい彼女は薄く目をあける。
「オイフェ、どうしたの? 私のことなら何も心配はいらないわ」
「大丈夫じゃないですよ、いま、宿の人に話を聞いて」
「ああ、そう」
フュリーは呟くように声を出す。
「でも、今、シグルドさまの軍に天馬騎士は必要だわ。この事を言えばきっと、私は気づかわれて後営にまわされる…」
「天馬騎士なら、大勢いますよ、現に今もフュリーさんの部下はザクソン近辺に」
「…それに、私の体はどんなことになっても、レヴィン様のお側にいたかったの」
「…」
「私は、レヴィン様が望んでおられる何の替わりもできないけれど、…それでも…」
フュリーの目に涙が滲んだ。
「私にできるのはこれだけ。…ラーナ様と、お姉様が、私に託した、風の賢者の血を、絶やさないように、する事」
自分のことを、それこそ道具のようにしか思っていない…すくなくとも、オイフェはレヴィンの、フュリーに対する態度はそう言うものだと思っていた…人間の子供でも、身ごもれば嬉しいものなのだろうか。
「オイフェ、私は、全然不幸なんかじゃないのよ」
そう言うが、フュリーの存在自体が、オイフェには、そういう矜持を失えばそのまま崩れていきそうなものに思えてしょうがなかった。
「…フュリーさん」
つい口にしていた。
「僕は、貴女の騎士になります」
「え?」
フュリーは突然の言葉に頭をもたげる。
「無事シアルフィに戻れたあかつきには、正式に叙勲の式をあげて下さると、シグルド様はおっしっゃて下さいました。
 …フュリーさん、貴女の騎士になります。
 だからもう、悲しい顔をしないで下さい…」
フュリーは、いつになく感情を出して紅潮したオイフェの顔を見ていた。そして、雪間の花のような微笑みをした。
「…ありがとう」
だがすぐに、その顔は歪み、涙がつたう。枕上にいるオイフェに、頭を寄せるように近付け、しばらく、声を殺して泣いているようだった。

 …オイフェは、イザークへの旅の途上にあった。
 小さいセリスは、数名の無名の騎士に守られ、隊商をよそおった馬車の中にはシャナンと従弟妹たち、レスター、うまれて3ヶ月にもならないデルムッドもいる。デルムッドがうまれたのとほぼ同じ時に、フュリーも男の子を産んだが、彼にははっきりとしたフォルセティの印があり、シレジアにとどまるラーナの計らいでなんとかシレジアで育てられるようだ。
 送りだすシグルドの顔は悲壮だった。
「必ず迎えに行くぞ」
事態も分からず、父に抱き上げられて喜ぶセリスに言うその言葉が、いやに空しかった。
 そして…やんぬるかな…、イザークに入る前に、「バーハラの悲劇」の報がもたらされる。
「うそだ!」
シャナンが立ち上がった。
「シグルドが…アイラが…死んだなんて…そんなの…うそだ!」
オイフェは身を縮こめた。体中が寒くて、ふるえが止まらない。しばらくは何もしゃべれなかった。
「そうだ、嘘だ」
呟いた。
「シグルド様はきっと迎えにくるとおっしゃった…」
そして、彼のそばにいた、多くの人々のことを思い出した。彼等も、同じように、ほのおに焼かれたのだろうか…
「生きていてください…」
主君の訃報に触れた涙の奥で、それでも拭えない面影を一つ、何度も書いては消してゆく。
 

フェザーピンク 実は、続く。


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