穏やかだったセレーンの最後の記憶。

 ティルテュの投げたブーケは、過たずシルヴィアの手におさまり、彼女はそれに、実に愛しそうにほおずりした。

 だが、凪の時は、終わろうとしていた。
 セイレーンの窓口たるオイフェのもとには、容赦なく暗い情勢の動きが伝えられる。
「…マイオス叔父、動き出したのか」
報せを聞いて、レヴィンは苦い顔をした。
「変に義理堅いんだよ。俺なんか死んだということにして、ダッカー叔父と二人で、王位でも領土でも好きにすればいいんだ」
「だが、それでは何の解決もならないのだよ」
シグルドが返した。
「両公爵も、君にシレジアの正当な王位継承権があることを知っている。それを枉げようとするのは政治的に喜ばしくない。なにより、ラーナ様から君に通じる正当な血統を陶然とする民が納得しないだろう」
「…」
レヴィンはぶいっときびすを返した。王位継承に関する一連の擾乱に巻き込まれたくない、というよりは、レヴィンの主張は、王座に座ってしまったら、今までのように吟遊詩人など出来なくなるのが不満であるのかも知れない。
「いつまでも、息子が自分の言う通りになると、思い込んでる母親は、嫌だぜ、全く」
「お言葉ですが殿下、それもこれも、殿下が態度をはっきりさせなさらないのがお悪いのです」
シグルドの部屋には、セイレーンにこの情報をもたらした本人であるところの、天馬騎士マーニャがいる。フュリーがその影のように、隠れがちに立っている。
「全部俺のせいかよ」
「そうでないと仰る」
「…」
「殿下はこのシレジアの王位を、だれにはばかることなく継がれてしかるべきお方。殿下がたびたび仰ることも尤もでしょう。ですが、…少々、御考えが足りません」
「そういう考えの足りない王子が王になって、国が成り立っていけると思うか? マーニャ」
「それは、殿下が御判断為さることではありません。殿下がまさに王たるに相応しいか、審判をくだすのは民です。
 ですが、殿下のお父上は名君でございました。シレジアの諸臣はその御遺志を踏襲しておりますから、殿下が御自分の御采配について御心配為さることはありません」
「だったら、なおさら、誰が王になっても」
「レヴィン王子!」
マーニャの凛と張った声が部屋に響いた。
「殿下は御自分がどんな方かを未だご自覚為さっておられないのですか?」
「わかってるよ」
「わかっておられません!」
マーニャは持っていた槍の石突きでカン!と床を叩いた。レヴィンはそれに肩をすくませる。
「殿下が、次いでしかるべき王位を放棄されると言うことは、シレジア王家、いえ、いにしえの聖戦士の一人、風の賢者フォルセティの血脈を絶やすと言うことなのですよ!」
レヴィンが、訴えたそうな目で、マーニャを見る。だがマーニャは、それを見ていないのか、しゃんと視線をあげたままである。
「そんな、理性的な部分を無視されたような目的のために、俺は今まで生かされてきたのかよ」
「失言は御容赦を。ですが、他にどう表現できましょうか。他に御姉妹もなく…シグルド様のように、お跡御安泰とは、お世辞にも申し上げられません」
「だから」
「フュリー」
レヴィンが何か言いたそうなのを遮るようにして、マーニャは後ろの妹に振り返った。
「王子が城下に降りて吟遊詩人のまねごとなど為さらないように、お前がおそばにいてよくよく注意しなさい。いいですね」
そう言い渡されて、フュリーはさらにみを竦ませて、
「…はい」
と言った。

 聖戦士の血統を持つからには、その因子が絶えない様「努力」をするのは、仕方のないことだろう。
 シグルドだって、ヴェルダンでディアドラと出会っていなければ、いずれどこかより高貴な姫君を迎えて、「血を残す」ことになっただろう。
 マーニャの端正な表情から発せられた、なにやらねっとりしたものさえ感じさせる言葉の内容が、妙にオイフェは引っ掛かっていた。
 自分も、薄くはあるがバルドの末裔、(そんなこと絶対あってはならないが、)シグルドとセリスにもしものことがあれば、自分にその血脈保持と言う大役のお鉢が回ってくるだろうことは何となく予感できることでもある。
「血脈を残すとか、血統を保持するとか、言い方は違うけど、ようは、『子供を作れ』ってことだよな」
そういう考えに行き当たって、オイフェはどうしようもなく、自分の顔が熱くなるのを感じた。こういうことにこのごろ敏感に反応してしまう自分の思考回路が実にあさましかった。
 そして、マーニャの振るまい。
「…マーニャ殿は、フュリーさんを、レヴィン様に?」
つぶやきを、シグルドが聞いていた。
「…ラーナ様が仰っておられたよ。この国には、未来の王太子妃として申し分ない女性が二人もいる、とね。
 マーニャ殿と、フュリーと、性質は両極であろうけどね」
「そんなものですか。でも、当のレヴィンさまは、ラーナの様のご意向をどう思ってらっしゃるのでしょうね」
オイフェが聞き返すと、シグルドはまたオイフェの鼻を摘んだ。
「見てて分からないか?」

 「マーニャさんてさ、かっこいいよね」
と、シルヴィアが言った。マーニャが訪れている間、小さいセリスの世話をしていたのであったが、オイフェがマーニャを見送ってていたのを見つけたものらしい。やっと歩くセリスは嬉しそうな声をあげてオイフェの足にしがみつく。
「自分の言ってることやってることに、すごく自信を持ってるの。それで、いつも前を見てて」
「はあ」
「レヴィンはさ、そういうところが好き、みたいね」
「はあ」
オイフェは呆然と相づちを打った。レヴィンのなんとなく、マーニャに対して卑屈そうな態度だったのは、そういう感情の裏返しだったのか。
「フュリーもねぇ、そういうレヴィンを知ってるから、なんとか、マーニャさんみたいになって、あのヒトに信頼されたいってかんばってるみたいだけど」
「はあ」
「でもね、所詮、フュリーはフュリーよ。彼女ねぇ、自分のいいところを見失ってる」
「はあ」
生煮えの返事を返すオイフェに、シルヴィアが焦れた風に改まる。
「…オイフェさあ、大体、そんなフュリーのどこが好きなわけ?」
「え」
オイフェは突然急所をさされたように息をつまらせた。
「ぼぼ、僕は、フュリーさんには…好き…とか、そういう感情じゃないと思う」
「あら、えらそうなこと言うじゃない」
「騎士として、献身的に主君に使える姿を見習いたいのです」
「そうか、オイフェもそろそろ、騎士叙勲されてもいい年なんだってね。アレクが言ってたわ、思いだした」
シルヴィアはふふ、と笑った。
「じゃ、いっそのことも『フュリーの騎士』になったら?」
「は?」
「物語の騎士ってさあ、なんか、絶対結ばれそうにない人を『恋人』ってよんでさあ、その人のために命かけたりするでしょ? かっこいいじゃない、そういうの。」
じゃ、がんばってよ、と、シルヴィアは去って行く。
でもそれは、物語の中でのことだ。オイフェは言いたくなったが言わなかった。
 


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