だがベオウルフは、その誰かに見られている気配というものが、疲れなどが原因ではない事にすぐ気が付いた。
 思い起こせば。
 ウィグラフが、町の向こうの方にぽつりと見える高台の城を指した。
「あれがハイライン。あの城から東に向かえば、ノディオンだ」
「まあ、ずいぶん早くついた事」
ラケシスはしみじみと言ったが、ベオウルフにしてみれば、物見遊山半分の旅は、自分が仕事に関わってする移動にくらべればざっと半分なところだ。にもかかわらず、路銀は倍かかっている。
「街ね。ちゃんとしたお部屋で寝られる?」
「あいにくだが」
ベオウルフは、ラケシスの目の前で腰の財布をちゃらちゃらと振る。
「この重さでは、今夜はこのへんで一泊と言うところだな。だれかさんのおかげで今回の旅はいろいろと物入りだ」
「朝になると髪が露で重くなるから嫌よ。お食事も美味しくないし」
「それは同感ですね」
ウィグラフも頷く。
「ええい、贅沢なれしてるお貴族様たちめ。大体ウィグラフ、お前、何で持ち合わせがないんだよ」
「こんな長旅になろう事は予想していなかった」
ウィグラフは自分の落ち度をあまりにあっさり口にする。
「…そういえばウィグラフ、いい剣持ってるよな」
ベオウルフが、ウィグラフの荷物に目をやった。ふだん使いの剣の他にもう一本が、がっちりと固定されている。
「売ればここから先も遊びながら帰れるぜ。俺は目利きは素人だがな」
「それ以上言うな」
が、ウィグラフは、とつぜん目くじらを立てた。
「これは先祖伝来の品だ。どこに行こうが何をしようが身を離さぬように言いおかれている。売ることなどできるか!」
その剣幕に、ベオウルフはそれきり毒気を抜かれてしまった。
「まあいい、なんとかハイラインまでのメシ代は出せる。ハイラインの城下町に入れば、闘技場で稼ぐこともできるさ」
「とうぎじょう?」
「まあ、…なんていったらいいだろうな… 人が戦ってるのを見て、どっちが勝つか賭けて、その予想が当たれば配当金が出る」
「?」
「わかんねぇだろうな」
それに、闘技場には、飛び入りで戦う方に参加した方が実入りはいい。ベオウルフはぼつぼつつぶやきながら、一行はハイラインをはるかに望む街に入る。

 小さな街だ。小一時間もせずに中をぐるりと回れてしまう。一行は一軒だけある宿屋に荷物だけ預け(それでも預け賃の出費は痛い)、教会の午後の鐘が鳴ったら街を出る事に決めた。
「おれはこのままいろいろ買い出しするから、お前達は街に出てな。約束忘れるなよ」
多くの例にもれないように、この宿も、酒場をかねている。とはいえ、無駄に使える金などびた一文もないのだから、ベオウルフは酒場の隅っこの目立たない席に背中で腰掛けて、目を閉じている。
 城に近いだけあって、小さいがこの街はなかなかににぎわしい。だが何となく、そのにぎわしさに影があるのは気のせいだろうか。その時、馴染みらしい男が入ってきて、宿の女将と話をする。
「女将、例のバカ様が来たよ」
「え? あらやだ、それじゃ若い子を上に上げておかなくちゃ。
 まったく、イヤだよ。飲み食いの金を踏み倒した上にうちの若い子にまで手を出して」
「ああ、ほんとにしょうがねぇバカ様だ。それを訴えてみろよ、西の街では税が重くなったらしいぜ」
「ああ、やだやだ」
ベオウルフは、片耳をそばたてて片目を開けて、そのやり取りを聞いていた。そして、聞いてみる。
「なんだい、そのバカ様っていうのは」
「旅のお人なら知らないはずだね。あの城の主人の息子さ。これがほんとにバカしかしないお人でね」
女将が呆れたように言う。
「あんた、グチにつきあってくれるのかい? だったらここにおいでよ。少しはおごるよ?」
「ありがてぇ」
女将はベオウルフの前に木のジョッキをおいた。自家製らしきエールを注ぎながら、
「あんた、どうしたのさ、あんな可愛い女の子を」
と聞く。
「ま、な。いろいろあっておれが雇われてるのさ」
「貴族なのかい? あの娘は」
「さぁね」
貴族といえば一気に覚えが悪くなるだろう。ベオウルフは言い濁した。
「マディノ生まれの箱入り娘らしい」
「へぇ。あたしゃてっきりあんたが人買いで、ハイラインのお城にあの娘を売りに出すのかと思ったよ」
「おいおい、物騒だな」
「そう思いたくもなるよ、あのバカ様のおかげでね」
「なんだい、そのバカ様ってのはそんなワルかい」
「ワル? そんな可愛いものであるものか」
女将は肩を竦めた。
「今年でたしか十六七にはおなりだよ。だけど、飲む打つ買うは当たり前、お城の主様もひとり息子だとかでわがままさせ放題。息子に何かあっちゃ困るって、傭兵を用心棒に雇って、またそいつらが粒ぞろいの悪党さ。
 結局ワリをくうのがあたしらなんだよ」
そして、ジョッキをあおりかけたベオウルフに耳打ちする。
「お気をつけよ、あの女の子。バカ様に見付かったらもう最後だからね」
ベオウルフは頭の中をのぞくように上目遣いになってしばらく考えた。
 この何日かの旅の間に掴んできたラケシスとウィグラフの言動と、その悪党一味のやりそうな事と、それにたいして二人がどんな反応を示すかと言う事を考えてみた。
 結論。
「おかみさん、ありがとよ」
ベオウルフは飲みかけのジョッキをつい、とおしやった。

 案の定、広場には人だかりができていて、ベオウルフは「おいおい、またこれか」と額に手を当てて天をあおぐ。
 おそらく、そのバカ様とやらに、きれいどころを物色してくるように手下の悪党が命じられたとする。事態を察知して住民があらかた家の中に入ってしまった街の中で、ただでさえ行きずりで良く分かっていない二人は目立つ。声をかける、いや、無理矢理つれていこうとする。ウィグラフとめに入る。奴は悪そうなやつには容赦なくキビしいやつだから…
「どうしても無理を通すと言うのなら、おれの背後が黙ってはいないぞ」
ウィグラフは、持っていた剣を抜いて、悪党のまとめ役らしき男の鼻先に突き付けていた。
「うう」
男は声が出せない。ラケシスはその様子を、例によって人を食ったようなまなざしで見ている。ベオウルフが人垣をわけて、ラケシスの肩をたたいた。
「遅いですわ」
「あのなぁ、何でこんなところで騒ぎを起こすんだ」
「あら、むこうが悪いのですわ。理由も話さずに、私についてこいというのよ。ウィグラフがそれをとめたのですわ」
「まったく…
ウィグラフ、そのへんにしとけ。こんなやつらは相手にしてなきゃいいんだ」
「ふん!」
ウィグラフは、刃先に突き付けていた剣を一瞬しならせて、それから腰のさやに戻す。男の鼻面にぴっと亀裂が走る。だが、血は出ない。
「うわわわわ」
「その傷を見れば、お前達がだれにあったか、お前達の主人なら分かるだろう。そのうえで、その荒んだ生活を改めるように言え」
ウィグラフに一瞬後光の指すようだった。命じる姿がどうに入っている。面々はこけつまろびつ城の方に走っていった。

 ほんとにただのお貴族様なのか? ベオウルフは言いたい事をその場は飲み込んだ。
 宿の女将が荷物の預け賃を返し、のみならず一晩宿をおごってくれると言う。
「ま、これはあんた達が騒いでくれたおかげの怪我の功名と言うやつだ。
 だがこれからはちょっとは我慢してくれ。仲裁するおれの身も考えろ」
夕食の席でベオウルフは二人に言う。ウィグラフが、ハイラインのバカ様…一応エリオットという名前をもってはいるらしい…の説明をすると、ラケシスもベオウルフもその放蕩さと淫蕩さに眉根を潜めていた。
「で、これからは注意して道中を続けるべきだろう。いまのおれたちの旅だと、途中後一泊は野宿をする覚悟になる。
 城のバカ様とやらの手下の中には、こっちの世界では少し名前があるやつらが何人かいる。カネ次第ではコロシもする。
 おれも気をつけるが、自助努力も頼む」
「だいじようぶよ。私にはこんなすごい家来が二人もいるし」
「そう言う問題じゃない」
「御心配なく。私が命を賭けて姫を守りますから」
「あのなぁ」
そう言う次元の問題ではない、と言おうとしたが、ベオウルフは、自分の身が危険になるということが大袈裟な事にしか捕らえられないのかも知れない、と、考え直す。
「まぁ、そういうことだ」

 そんなてん末があった翌日の野宿で、あのイヤな気配があった。ウィグラフにそういうことを伝えると、
「俺にはそんな事は全然なかったな」
とあっさり言われた。
「ああ、俺の思い過ごしであればいいとは思う。だが、ハイラインのバカ様が執念深いやつだと言ったのはおまえじゃないか」
 すでに一行は昼前にハイラインの城下町に入ってきた。ラケシスが
「ねえ、このお宿がいいわ」
と、ベオウルフが制止するのを振り切って飛び込んでいったのは、『薔薇の露』亭という看板も豪華な大通りに面したところだった。ベオウルフはもちろんのこと、ウイグラフも一瞬目を白黒させる。しかし彼の方はすぐ真顔になり、いかにも行きずり風の奇妙な三人組に警戒している表情の主人に、
「極上の一人部屋を一つ、ふつうの二人部屋を一つ、開けておいてくれ」
と言うや、再び外に飛び出した。
「ど、どういうことだよお前」
「どういうこともない」
ウィグラフが指す先には闘技場がある。
「賭けるより、戦った方が実入りがいいのだろう?」
と無表情で言う。
「人ごみで姫の身になにかないようにしっかり守っていてくれ」
「おい、ウィグラフ」
「心配するな、腕には覚えがある」

 数時間後。二人は『薔薇の露』亭の「極上の四人部屋」にいた。
「ウィグラフすごい! 私もうどきどきしてしまいましたわ」
「光栄です」
ラケシスは、闘技場でのウィグラフにすっかり御満悦のようだ。当たり前だろう。百戦錬磨の剣闘士達をいるだけなぎたおしたのだ。おかげで大金が手に入り、今三人はこうしてのんびりしているわけだが。
「私あこがれてしまいますわ、こんなに強くて優しくて、剣もうまくて、そのうえとても美しいわ。まるで物語から抜けて出てきたみたい」
「…」
ウィグラフはその言葉が嬉しいのかそうでないのか、とても複雑な雰囲気の顔をしている。
「そりゃ、ほめ過ぎじゃないか?」
とベオウルフは混ぜ返そうとしたが、ラケシスには聞こえないようだ。
「しかしウィグラフ、本当にいいのか? 宿代を出した残りを全部俺が」
「気にするな。ノディオンに戻ればはした金に過ぎない」
「はいはい、たしかにお貴族様にははした金だ」
「ねぇねぇ」
ラケシスが言う。
「この町の市場は夜も開いているのですって! 行きましょう! ね」
「ね、ったって…」
だが、この姫様の場合、言ったら即行動なのだ。
「しょうがねぇな。ウィグラフ、もすこしつきあってくれや」
「うむ」
二人は同時に、座っていた寝台から立ち上がった。しかし二人とも、口とは裏腹に楽しそうである。