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 自分の幕舎に戻りながら、
「彼女の動きを見ていたでしょう」
張コウは嬉媚に言った。
「はい。まるで重量感が無くて…飛んでいるようでした。
 将軍は、あのひとを、『玄女』と仰いましたね、本当に…」
嬉媚の発想は、ことさらに張コウの琴線に触れたものらしい。彼は少しの間、はっきりと声を上げて笑った。
「まさか、本物の九天玄女がいたら、天下はとっくに劉備のものですよ」
やっぱり、あれは人間なのだ。混戦も気にかけない落ち着いた取り回しに、神がかりのようなものを感じていたが、嬉媚は少し安心した。
「あの動きは、この『竜胆』に伴うもの。彼女は、何年と言う時間をかけて、それを教えられたものですよ。あなたが牙断を使うようにね。
 ですが、あなたが到底及ばないほどの戦闘経験をつんでいるはずです。
 惜しいですね、降ってくれれば華のある戦力になるのですが…彼女に、そのつもりはなさそうです」
持った槍を慣れたように「竜胆」と呼ぶ張コウの思い出し笑いは、しばらく続きそうだった。

 「攻めあぐねる陣容ではないな」
 いよいよ益州軍と対峙する、漢水に近いあたりに魏軍は陣を展開する。
 斥侯に探らせた益州軍の陣の様子が絹布に書かれているのを、夏侯惇が手のひらで大雑把になぞってそう評価した。
「いずれ、劉備はもっと奥にいるのだろう。すぐ出てくるとも思えん」
そして、おもむろに左右を見回す。
「おい」
たまたまそこにいただけだ。しかし、嬉媚は声をかけられて
「はいっ」
とすくみあがった声をあげる。
「孟徳がおらんな、どこに行った?」
そういえば、嬉媚が報告に来たときにはいた曹操の姿がない。一緒に来た張コウの姿もない。とすれば。
「と、殿でしたら、張将軍とご一緒かと…」
詰まりながら返すと、
「捕らえた女か」
夏侯惇は、ちっ、と、明らかに苛立ちの舌打ちをした。幕舎の隅には、張コウが「竜胆」と呼んだあの槍が、丁寧に武器立てにかけられている。夏侯惇もそれが目に入ったのか、
「これは、その捕らえた女のものか」
と嬉媚に尋ねた。
「は、はい。張将軍はその槍をご存知のようでした。『竜胆』と呼んで…」
「『竜胆』?」
夏侯惇も、少し考えるような仕草をする。彼にも、心当たりがあるようだった。周りはわかっているのに自分だけが知らないというのは、もどかしいことこの上ない。嬉媚が
「あの…夏侯将軍?」
と、おそるおそるながら尋ねる。
「なんだ」
「あの捕虜は…一体何なんですか?」

「『新野のあやかし』を、まさかこう目の当たりに出来ようとはな」
曹操が、後営まで出向いたのも、おそらくは夏侯惇と同じ連想が、頭の中で完結を見たからであったのかもしれない。それと、少々別の方向の食指と。
「劉備もおかしい奴だ、このような女、何故後宮におかずに戦に出させるのか」
維紫の一歩前まで来て、その姿をじっくりと見る曹操に、
「殿、その女は劉備のものではありませんよ。幕舎に置いてあったアレをご覧になったでしょう」
張コウが後ろで少しく笑いを含んだ声で言う。そう言う会話を聞き流すように、維紫は抵抗一つもせず、彼らに敵意のまなざしを向けるでもなく、縛られたままで明後日の方向を見ている。
「張コウ」
曹操が口を開くと、
「ご自分の幕舎にお連れせよというご命令には従いかねます。女とはいえ捕らえたのは将でございます、それなりに扱わねば、曹魏の軍礼を疑われますよ」
先回りした張コウは畳み掛けるように返す。
「目をつぶってもよかろうものを」
「この陣のすべての将が目をつぶっても、決して閉じない目が一つ、殿にはございましょう?」
「…元譲か。確かに奴は、寝ていても心眼で見抜きよるわ」
曹操は恨めしそうに呟いた。

 「あれは、まだ俺達が荊州で劉備と戦っていた頃だ。
あの頃の劉備は、まだ益州のような拠点も持たず、一もみにもみつぶそうとしてものらりくらりと逃げ回る厄介な奴でな…」
夏侯惇が、開いていた目を閉じ、当時までさかのぼるように話し出した。嬉媚はまだ一宮女で、許昌で難儀をしていたころだ。
「新野という場所で、何年か対峙した頃があった。
 うまい説明は俺には出来ないが、その女が現れるようになったのは、その頃のことだ。その槍をもってだな…」
あやかしのように現れて、演舞でも見せ付けるような動きの後には、屍が輪を作ると、逃げ出す情けない兵もあったという。下心目的で生け捕ろうとして返り討ちにあったものはその数倍はあった。問題は顔のよしあしではない、戦場にまじらう女には漏れなくついて回る現実だ。
「正確には、その槍は『竜胆』ではない」
目を開け、槍を指し、夏侯惇はそう言った。
「本物は、向こうにあるわ」
それから少し考え、
「…あの男が…とは少し考えにくいが、意外に、ということもあるな」
「意外、ですか」
また嬉媚にわからないことが増えた。しかし、もう彼女の好奇心に付き合う暇はないのだろう。
「全く、孟徳めいつまで眺めている」
夏侯惇はざっ、と幕舎を出て行った。

 両軍の対峙は、案の定と言うべきか、持久戦に持ち込まれていた。魏軍は何度も兵を出したが、益州軍の守りはかたく、魏軍の士気も徐々に下がってゆく。
 後営に女兵卒がとらわれているらしいという話が誰言うとなく広まり、日に何度かは例の幕舎を見回り、影のかけらでも見えないかと張り付く兵士を遠ざける仕事が嬉媚に増えた。自分については、ナリにひるまれてそんな目が向けられないのがむしろすがすがしい。
「ずいぶん緩んでますね、みんな」
そう嬉媚が言うと
「遠征で長期戦になるとそうなるものです」
張コウはなんでもないようにそう言った。
「どうです嬉媚、あれから維紫と少しは話をしましたか」
「いえ…」
聞けば、維紫は、世話につけた女兵卒とすぐに打ち解けて、時々は笑いなどもするようだ。そういうある種豪胆なところに、嬉媚は確かに興味はあったが、よしみを通じても開放になったらそれきりの間だと、嬉媚は必要以上の接触を避けていた。
「敵軍の将であっても、誼を通じる価値のある人だと、私は思いますがね。例のないことでもなし、まして戦場では少ない女同士なのですから」
「そうでしょうか」
「そうですよ。彼女が、自分を残して撤退してくれと言ったとき、『彼』はどんな顔をしていましたか?」
張コウの表情に、いささかなまめいたものが加わる。思い出している仕草の嬉媚の耳に、吹きかけるように一言、張コウは吹き込んで
「…そういうことなのですよ、彼女は」
と、嬉媚が飛び退るその反応を楽しそうに見る。
「おかしいですか? あなたはもうわかっていると思っていました」
「え?」
「最初、彼女の体を調べたでしょう。手に持てるようなものは、そうでもなければ出てきませんよ」
「あの、ええと」
「もっと詳しく説明しましょうか?」
「将軍、ここでそう言うお話は、ちょっと…」
「楽しくない」
張コウはつまらなそうに言って、
「そうそう、嬉媚」
と改まった。
「近く、益州軍へ攻撃を仕掛けるとの、殿の仰せです。未然とはいえ、益州軍にこずるい手を使われた、その返礼は十分にしておかなくては。
 準備は万全に整えておきなさい」
「はい」
「だから、しばらくは距離をおきますけど、つれなくしているわけではないので、我慢してくださいね」
最後にまた耳打ちされて、嬉媚はくらり、とめまいを覚えた。

 後営に近づくと、女性の話し合う声と、かすかな笑い声がする。嬉媚が
「笑っているのは誰ですか」
と幕舎に向かって言うと、その話声は急にやんで、下働きの女兵卒が、するっと幕舎から出てゆく。雰囲気からして、ずいぶん話し込んでいるように見えた。
「ご自分の立場がわかっておられるのですか、あなたはとらわれて…」
と言いながら嬉媚が中に入ると、
「ごめんなさい、つい話があってしまったものですから」
なごやかな声が嬉媚を迎える。縛された手で膝を抱えるようにしていたが、嬉媚を見上げる維紫の目は、とらわれているというのに、この状況を憂いも何もしていない。本当に今捕虜なのが、この女にはわかっているのか、嬉媚はそれを問い詰めたくなった。笑うようなことは出来るのに、他の将が行う益州軍の内情を聞き出すといった尋問には、何も話さないのだからなおさらだ。
「『玄女』様には、自分が必ず助け出されるという、どこかに根拠のある自信でもお持ちなのかしら」
そう、わざと意地悪く言ってみる。すると
「私はそのようなご大層なものではありません。ただの維紫です」
彼女はそう言う。嬉媚はそれに一瞬だけぽかん、とした。
「そう言う問題ではなく、ここは魏軍の陣営の中だと、わかって」
「はい。私は今とらわれています」
「もしかして、捨て駒にされたとも、思わないのですか」
「…この戦いがどのようにおさまるとしても、私は帰れると思っています」
維紫は、一瞬の間をおいて、ゆるやかにかぶりを振った。嬉媚は、張コウに聞かされた維紫と「竜胆」と白馬の将の関係を思い出して、思わずあきれたような顔をしそうになった、その嬉媚に、
「お暇でなかったら、何かお話でもしませんか? 知らない土地の話を聞くのが好きなので、よかったら」
維紫がそう、まったくてらいない顔で嬉媚を見る。しかし嬉媚は、
「わ、私はまだ任務がありますから」
そそくさと幕を出た。あのままあそこにいれば、完全に維紫に飲み込まれていたかもわからない。

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