「攻めあぐねる陣容ではないといったのは誰であったかな、元譲」
「知らん、兵がそろいもそろって腑抜けばかりだからだ」
益州軍がわずかに後退を始めたと聞いたための進撃だった。せめて、この漢水を越えて戦線を押し上げなければ、漢中を守りに来た意味がない。しかし、出陣はしたものの、兵は益州軍の陣前まで迫っておきながら、その後ほとんど動きらしいものがないのだ。
兵が駆け込んでくる。
「報告!」
「前線の様子はどうなっているんだ」
待っていたように夏侯惇が問うと、兵は
「は、はい、それが…益州軍の陣はわずかな兵しかなく…」
「何?」
「陣の前には将が単騎あるだけで…」
「将が単騎だと? 討ち取って、その空の陣になだれ込めばよい話ではないか!
そんなこともできんのか!」
「よせ、元譲」
がなる夏侯惇を曹操が手で制する。兵から聞く将の容姿などを聞きいて、彼は
「単騎は単騎だが…長坂単騎、か」
そう呟いた。
「侮っておった。やはりあの時生け捕りにして、この陣の中に加えておればよかったわ…」
「何故、兵は動かないのでしょう」
少し高いところから、その奇妙な様相を見て、嬉媚はついそんな声を上げていた。益州軍に突入するだけの形になって、その人山は立錐の余地もないというのに、魏兵は、将を遠巻きに囲むようにして、ぴたりと動きを止めている。
対している将は、たしかに、黄忠を包囲したとき、救援に来たあの白馬の将だった。
「動けないのです」
張コウは冷静に言った。
「一人でも、動けば『竜胆』の餌食になります。嬉媚には見えませんか? あの将の後ろで、龍が一匹そのあぎとを開いてわれわれを食い尽くそうとしているのが」
張コウがそう形容したように嬉媚は感じなかったが、確かにその将には、自分より後ろを、敵軍の誰一人にも許さない気迫があった。しかし…
「一人きりなんですよ。みんなで一斉にかかればなんとか…」
「嬉媚」
予想していた返事が出てきたというように張コウがため息をつく。
「殿があれほどわかりやすく註をつけてくださった孫子の兵法を、あなたが読んでいないことはないと思うのですがねぇ…」
「え?」
「人を知り己を知れば百戦危うからず。あなたは自分はともかく、あの将の器を量ったといいきれますか?
あの時も今も、あなたは遠巻きに彼を見ているだけではないですか」
「そうでした…」
「まして、兵にとっては相手はどんなものかわからない、ただ敵将と言うだけの存在。そこに突っ込むのは蛮勇と言うもの、もっとも美しくない戦いです」
嬉媚がしくじったと思う間に、張コウは
「おそらくあれは兵法三十六の一、空城の計。
空に見えて、あの陣には大勢の伏兵か、或いは確実な援軍かがあるのでしょう。
向こうが三十六の兵法を使うなら、こちらにも手があります」
「手?」
「三十六計逃げるにしかず」
結局、兵らはしりをたたかれるように進軍を余儀なくされたが、迫った魏兵に対して、間合いを計った白馬の将がひとつ号令を下すと、隠れていた益州軍の弓兵がいっせいに矢の雨を降らせる。策だったと気がついて、下がろうとしてももう遅く、魏軍は混乱した。
寸前に兵をやや下がらせた張コウ隊の被害は、それでも軽いほうだった。もっと先にいたはずの徐晃隊の被害は甚大であったようだが、徐晃本人はどうにもなっていないと聞いて嬉媚は胸をなでおろした。
とにかく、一将の機転が数万の魏兵を退けた。逆に言えば、数万の魏兵がよせているとわかっていながら、単騎陣営の前でけん制し続けた度胸と集中力。あんな将もいるのかと、嬉媚は陣に戻っても、まだ体が震えるのを感じていた。
「突っ込まずにいて正解でしたね、嬉媚」
「は、はい…」
嬉媚の様子に、張コウは、その頬を手の甲で軽くひとなでして
「よくできました」
と言った。
「え?」
「後退は私の指示です。その前にあなたは前進を提案した。私も徐晃殿も、あの将がわかっているゆえに前進ができなかったのを、あなたはそうした。場にて適切な判断を下さないことに意見することは結構です。内容はともかく」
「すみません、将軍には将軍のお考えがあるのにと思ったら…」
「失敗は、次を起こさない経験です。それをつまないと、将としても成長はありません」
「…はい」
へたり込む嬉媚の後ろで、静かな声がした。
「嬉媚に何もなくて、よかった」
これで漢中の帰趨は定まった。曹操はそのことに対してか知らないが、
「鶏肋」
と言ったという。
「鶏肋、ですか」
「ええ。いずれ、正式な指示が全軍にありますから。その暗号だと思って、私達はそれを待ちましょう」
「…私、何がどうして『鶏肋』なのか、全然わからないのですけど…
こんなときだからこそそんな味も素っ気もないもの召し上がりたいのかしら、臥薪嘗胆のかわりのおつもりで…」
嬉媚が、何とか答えを搾り出そうと、眉根を寄せているが、張コウは
「およしなさい」
と言うだけだった。
「下手に殿の仰ることを先回りして考えるなど、わかれば間違いなくご不興をかいますよ」
「ですけど将軍」
「殿はね、おへそが曲がりに曲がってもとの位置に戻って見えるようなお方なのですから」
果たして、まもなく漢中からの撤退を命ずる報が各軍にわたり、帰り支度も慌しい中、たった一人の捕虜・維紫は開放されることになった。鶏肋の話を維紫もどう耳にしたのか、しかし、わずかに唇を緩めて
「鶏肋ですか。面白いたとえです」
と言った。
「鶏のアバラなど、湯のお出汁ぐらいにしかならない。でも、そのお出汁の分だけ、放って置くには惜しい。魏王は漢中をそのようにご覧になったのだと思います」
「はあ…」
「でも、益州には、この漢中は脂が滴るほどに程よく焼きあがった鶏の丸焼きに見えるのでしょう。私は主劉備に直接仕える者ではないので、憶測でしかありませんが」
結局、嬉媚は、この維紫という人物がよくわからなかった。ぽかりと浮かぶ雲のように、つかもうとしてもつかめなかった。張コウは
「これからも彼女に出会う機会があると思いますよ。もちろん戦場で、そろいの『竜胆』をもった姿ですが」
としか言わない。とにかく、維紫までその理由がわかっているのに、嬉媚が眉を寄せていると
「さすが『玄女』、よくわかっていらっしゃる」
と言いながら入ってくる。維紫はその姿にたおやかに拱手し、
「魏王には格別のご温情を持っての解放、感謝していたとお伝えくださいませ」
と言う。
「お顔には出していませんが、あなたを連れ帰って銅雀台での宴に並べられないのをとても惜しがっているとか」
張コウは薄い笑みでそう言った。曹操は少しごねたようだが、この決定を通させたのは夏侯惇だった。
「下手に連れ戻って、銅雀台に単騎殴り込みをかけられるのもかなわん」
と言う、彼らしからぬ諧謔味たっぷりなセリフと一緒に、である。
「さあ、あなたにこれをお返ししましょう」
そして、「竜胆」が返されると、維紫はそれをおしいただくようにに受け取り、まるで再会した恋人にするようなしぐさで、しっかりと抱きしめその柄に頬をつける。そんな彼女に
「私からも特別に、お土産話など差し上げましょう」
と張コウが口を開いた。
「私が袁家にあったとき、同じ槍を持った騎兵がいました。彼は官渡で袁家が壊滅的打撃を受けるはるか前に、離れていきましたがね」
「…」
維紫と嬉媚がきょとん、として張コウを見る。維紫が何を考えているかは知らないが、嬉媚は、やっぱりこの将軍はあの白馬の将と知り合いだったのだと納得が行く。
「一匹とはいえ、龍を馴らすに袁家は狭すぎた、それだけの話ですが…
住む場を見つけ飛翔した龍が相手では、今回の戦の首尾、納得がいきます」
「…」
嬉媚が何か言いたそうな顔をしているのを、張コウは軽くみやった。
「嬉媚、彼女を送ります」
幕舎などの撤去が進み、がらんとした平原を、三人が進んでいくと、人の気配が戻った益州軍の陣の前に、あの白馬の将が、維紫と同じ槍を持って立っていた。
「お行きなさい。将軍玄女」
張コウは維紫にそう言葉をかけて、
「嬉媚、行きますよ」
と馬首をめぐらせた。
帰りの宿営地で会ったことを思い出し、
「漢中、守れませんでしたね」
嬉媚がそう言った。
「そうですね。今回の首尾はとても美しいとはいえたものではありません、殿は必ず再戦を挑むでしょう。
嬉媚」
「はい」
「私も玄女にそばにいてほしいものです。もちろん、あなたがとらわれれば、私は何があっても助けに行きますから」
張コウは言って、「どうでしょう?」と、嬉媚の顔をことさらに覗き込むようにする。嬉媚は少し困った顔をして
「今は、まだ及ばないかもしれませんが、…あまり将軍を困らせないようには、なりたいです」
「よい答えです。もっとも、私はあなたがいて困るなど、思ったこともありませんが」
彼がそう目を細めたとき、ば、と幕舎の幕が開いて、曹操が夏侯惇と一緒に立っていた。曹操がちら、嬉媚を見て
「張コウ、それはあてつけか」
「どうかされましたか」
「ええい、とぼけおって」
どっかりと椅子に座ってむくれた表情の曹操に、夏侯惇がいかにも呆れた風情で
「孟徳、お前は本当に懲りぬ男だな」
と言った。
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