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 「嬉媚、こちらにいらっしゃい」
ある日、見張りに出ていた張コウは、嬉媚を呼び出し、対岸の益州陣が見やすいところに立った。
「あちらでは何か動きがあるようですよ、あなたにはわかりますか?」
嬉媚は川風になびく旗をじっと見る。何日も見てきた旗には参戦している益州の将の姓が見え隠れしているが、確かに、これまでと様子が少し違うように見える。
「…すこし、少ない気がします」
「そうですね、私もそう思います。ここから何が考えられますか?」
「…奇襲か何かですか? しかも、妙才将軍をあそこまでにした黄忠将軍が、自ら指揮を?」
よくできました、嬉媚。張コウは、予想外に早く返って来た嬉媚の返答に満足そうな顔をした。
「…老黄忠とおだてられて…本当に、定軍山の勝利だけでは冥土の土産話にたりないのでしょうかね」
張コウはくつくつ、と笑い、
「嬉媚、伏兵を準備させなさい。場所は西の間道です」
そして、馬首をめぐらせた。
 果たして、その夜。
「黄忠指揮の別働隊を伏兵にて包囲しました」
と兵が報告に来る。
「大当たりですね嬉媚、もしかしたらあなた、策士の才能でもありますか?」
張コウはそういって笑う。
「何を狙いに来たのでしょうね、兵糧でしょうか、それとも夏侯淵殿の命のありなしを、自ら確認でもしに来たのでしょうか。
 いいでしょう、そのまま、囲んでおおきなさい」
兵がそれをうけて幕舎をさがる。
「囲んで、どうするのですか」
嬉媚が尋ねると、張コウは
「それは、明るくなってから考えましょう、黄忠はどうせ逃げられませんから」
そう答え、軽く纏め上げていた嬉媚の髪に刺さっている蝶の飾りをすい、と引き抜いた。額冠もはずされて、軽く止められていただけの金の髪をほぐす指は、これが男のものかと思うほどしなやかだ。
「少し、眠りませんか」
「…はい」
その指が、自分の何から何まで知っていると思うと、嬉媚のうなずく声も、やや消え入り加減になった。

 夜明けて。
 陣から少し離れた間道に、まさに、気配でそれとわかる伏兵に囲まれ、
「ええい、こんなまどろこしいことをせずとも、出るものが出ればこの黄漢升、命を惜しむほど臆病に出来ておらぬわ!」
と気炎を上げる黄忠の姿があった。この気概は尋常の老人にはない。嬉媚は恐ろしくもあったが、そのかくしゃくとした様子に少し感心もし、
「さて、どうしましょうね」
張コウは面白そうに、人のオリにとらわれた黄忠とその兵達を見ている。
「後営に戒めて取引の材料にするもよし、手早く縛して処断してしまうもよし」
その横顔が、戦の狂気に取り付かれたように、じわりと淫靡な笑いに変わってゆく。この顔をすると、張コウはえてして、自らを血の色の染め上げるのを楽しむかのような倒錯した戦ぶりになるのを、嬉媚は何度も見ていた。軍で五指に上がる理由は、その勇猛さもあるのだろうが、嬉媚は、
「将軍!」
と声を上げずにはいられなかった。張コウは、一瞬でその表情を消し、嬉媚を見る。
「どうしました」
「え、あ」
まさか今の張コウの顔が怖かったともいえず、嬉媚は返す言葉を失う。
「なんでも、ないです」
「…おかしな嬉媚だこと」
張コウは少し肩をすくめ、ややあって、「ああ、そうでした」と思いついたように嬉媚に話しかける。
「ねぇ嬉媚、前から思っていたのですが、もう赤の他人でもないのだし、その『将軍』というのは少しよそよそしくは…」
それを無理やりにでも止めさせるように、「報告!」と兵の声がする。
「無粋ですねぇ…」
愚痴りつつもその内容を聞いて、
「…面白い」
彼は、さっきとは違う、戦を予想させる高揚を顔に上らせた。
「老将軍の帰りが遅いので、二番手が差し向けられたようですよ。
 嬉媚、いらっしゃい」
乗っていた馬の手綱を持たれ、腰から下がぐいっと動き、嬉媚は
「ひゃあっ」
危うく落馬しそうになる。しばらくの疾走の後、間道に出た張コウは馬を止め、黄忠を囲んでいた伏兵や襲撃の報告で出てきた部隊に向かって、
「包囲は解除、老将軍はなりゆきにまかせ、これから来る龍の一群れに全力を傾けなさい!」
と声を上げた。

 そして。嬉媚はその騎馬の雑踏の中で、不思議な光景を見た。
「黄忠殿!」
来た騎馬隊は、確かに黄忠を救援するものだった。
「すまぬ、しくじったわ!」
「命あってこその勲功、お気になされるな!」
砂塵の中、白馬に白鎧の将が、黄忠と魏軍の間に入ろうとするが、将は張コウが配備していた殺到する兵の前に、馬を進めることもできない。
 そこに、さっとなにかがきらめき、将の前の兵は壁がなだれるように崩れ落ちた。弧をえがくきらめきは、二つの友軍の間を確実に狭めてゆく。そして
「黄将軍、私の馬をお使いください」
と言ったその声は、確かに女性のものだった。声の後には、主のない馬が残される。改めて黄忠が乗ったのを確かめるように、
「将軍、撤退の号令を」
その声が魏軍の中に踊り入る。白馬の将は、一度は確かに、何かをとどめるような様子があったが、やがて逡巡の末、と言った声で
「撤退!」
と声を上げた。騎馬の早さに歩兵はそもそも追いつけるものではない。追おうとするものはことごとく、間断なく空を斬るきらめきの前に倒れ、やがて、傷に呻吟する兵士たちの中、浮かぶように「彼女」はいた。

 諾々と、女は縛されて、後営にはいってゆく。その幕舎の前で、張コウは、
「彼女になにか暗器が仕込まれていないか調べなさい」
嬉媚にそう言う。
「は、はい」
「念入りに調べるのですよ。隠せるところが女は男より多いのですから」
「え、あ」
思い当たる節に嬉媚の声が詰まるが、張コウは、それに付き合うつもりがないときは全く淡白な反応をする。このときも、
「恥ずかしがっているヒマも必要もありません、お急ぎなさい」
いとも冷静に促して、嬉媚の背を押した。

 嬉媚は、後営の幕舎に入り、後ろ手に縛されているその女と対峙する。女の気配は、嬉媚の入室にも、少しもおびえるところも無く、
「命令により、体を調べます」
と言うその声にも、動じるところがない。嬉媚を見るまなざしは、全く透明で、嬉媚をすかして別の何かを見ているようだった。
 鎧とすべての衣を取り、白い、滑らかな肌には、胸に一本、ほんのりと残るより他の傷も無く、結局体のどこにも、結った髪を解いても、針一本見つけるできなかった。
「武装の類はこちらで預かります」
嬉媚が言うと、女はこくりと頷く。そうされるのを予期していたかのような雰囲気だった。
「嬉媚、もうよいですか、入りますよ」
外から声があり、しかし嬉媚の返答も待たずに張コウが入ってくる。女には与えられた衣を一枚まとうほどの時間しかなかったが、彼女は、体が隠せればいいのか、さして取り乱しもしなかった。
 入ってきた張コウの手には、女が使っていた得物が握られていた。嬉媚を少し見やり
「…調べましたか?」
とたずねられて、
「はい、何も怪しいものは持っていませんでした」
嬉媚が答える。
「そうですか」
張コウは、嬉媚をそこに残したまま、女の身分の確認をするようだった。
「黄忠に馬を譲り撤退の助けにし、自らはしんがりの任を全うして敵の縛につく。
 その判断力、戦にまじらうことは一度二度の話ではありませんね」
「…」
女は何も言わない。しかし張コウは、女が返答するかどうかなどは、どうでもいい様子だった。
「聞いてますよ、益州軍に『玄女』ありと」
「…」
「玄女?」
嬉媚は少し首をかしげた。玄女…九天玄女…といえば、戦勝の仙女のことだ。この世ならぬものが現し身をもってここにいる? そんなことが…
 張コウが、握っていたものをざく、と突き立てる。
「益州軍の『将軍玄女』、維紫。
 それがあなたの姓名ですね」
幕舎の敷物を貫いて自立したその槍は、赤房のついた立派なものだ。しかし、この槍を、先刻の白馬の将も持っていたような気がした。自分の持つ牙断と同じように、そろいであつらえられたものなのだろうか。
「懐かしいものを見させてもらいましたよ」
張コウは、どうやら、嬉媚の知らない何かを知っているようだった。槍は再度引き抜かれ、
「あなたはそんなことを考えもしないと思いますが、念には念を入れて…
『竜胆』、預かりますよ」
「…」
維紫と呼ばれたその女は、透明なまなざしで張コウたちを見た。そして、
「…ご随意に」
と、それだけ言った。

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