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  漢水の流れは絶えずして  

「ぷ」
漢中までの道、吹き出すのをこらえるように張コウが口を押さえた。
「なんだい、また思い出し笑いかよ…飽きねぇな」
夏侯淵が後ろを振り向き気味に言うと、
「ですが、あまりにもかおしくて…あの殿のお顔」
張コウは笑いをかみ殺した様子で言う。
「甄姫様も若も信じられないお顔をして…」
「お前、シュミ悪いな」
やや隊伍を崩し、隣まで馬を下げてきた夏侯淵が、つくづくと言った。
「シュミというのは、…嬉媚のことですか」
思い出し笑いの原因がそもそもそこにあるように張コウが言うと、夏侯淵は
「ちがうわ、そうやって、人を食ったようなことするところだ」
投げるように返す。
「ああ…いい意味で裏をかくのは、私は大好きですよ」
ねえ嬉媚。すぐ後ろを付いてきている、半分は話の主題になっている副将に声をかけると、嬉媚は何かの思索を打ち切ったような顔で
「え、はい?」
と言った。
「あなたの話をしていたのですよ。
 この出陣の前、殿にお目通りしたときの」
「ああ…そうでしたか」
嬉媚は、やっと納得のいったという顔をした。夏侯淵曰く「妙なモノ好き」の殿こと曹操は、夏侯淵の出立の挨拶より、よほど張コウのつれている金髪碧眼の姫将鎧のほうが気になるようだったが、身分柄直々に声をかけられないことも手伝って、みすみす磨く前の珠を失った、と言うような顔をした。おおよそ、自分達の常識の範囲から外れている容姿ではあったが、それで「自分」を取り戻した嬉媚は、さまざまな意味で人の心を動かしたのだ。
「もっともあなたは、出陣までに徐晃殿に出会えたほうが印象深いでしょうが」
そうとも言われ、彼女はそれには、
「はい」
と、はばからず笑顔になる。嬉媚は、張コウにだけは、割と素直にどんな感情も表す。

『それが…そなたのまことの姿であったか』
徐晃も、最初嬉媚とはわからなかった。もっとも、姿より中身の軽重が重要なタチの徐晃は、話を聞いて
『そうでござったか、拙者いささか、嬉媚の実力を侮っていたやもわからぬ。
 許せ、嬉媚』
軽くではあるが頭を下げた徐晃に向かって、嬉媚はそれこそ慌てふためいて顔を上げさせた。一番最初に嬉媚を嬉媚として扱ってくれたのがこの徐晃なのだ、頭を下げる義理はあってもその逆はない。
『将軍、いいのです。それよりも、私、漢中へ行くことになりました』
『聞いている。拙者は殿のみをお守りするため残るが、戦況いかんでは殿のご出陣に供することになろう。
 いずれにせよ、両将軍をよく助け、曹魏の名を高く響かせよ。よいな』
『はい』

「…嬉媚は本当に涙もろいのですから」
そのあと涙がちになって言葉らしい言葉にならなかったのを、嬉媚は冷やかされたとでも思ったのだろうか、目じりを恥じらいの色の染めて
「そんなこと仰られても…」
ぼつぼつと返す。
「いいのですよ、それも嬉媚のかわいいところですから」
張コウが軽く笑う後ろ側の気配を
「かーっ、もう聞いてらんね」
夏侯淵は文字通り、兜を脱いで頭に風を通すようにぐしぐし、といじった。

 「将軍」
 道中の野営で、嬉媚が、漢中一帯の地図を見せられて言う。
「漢中は、今現在、本当に私達のものなのですよね?」
「そういうことにはなっていますが、ややこしいのですよ」
張コウは悩ましげな思索の姿で、地図に向き合う夏侯淵と嬉媚の周りをめぐりだす。
「五斗米道の張魯は、確かに、この漢中一帯に勢力を広げていましたが、私達はその張魯が降ったことにより漢中を事実上の支配下に置くことができました。
 しかし、益州にとっても漢中は要地なのですよ。劉備は、戦略的要地以上の意味を感じているかもしれませんが」
「奴に言わせれば先祖伝来の土地だからな」
夏侯淵がそれに付け加える。嬉媚が
「ああ」
と納得した声を上げた。
「漢が興ったところですものね」
「そうです。いまや私たち曹魏の勢い雲をつく中、あえて無実化した漢王朝を再び興すというのが劉備の大儀名分…
 いい迷惑です、同姓の劉璋を追い出してまで益州を手に入れたのだから、もう充分でしょうのに」
張コウがめぐっていた足を止めた。
「益州の軍勢も、私たちの出陣を知って、同じように軍を出してきていることでしょう。
 到着即合戦もありえます。嬉媚」
「はい」
「私から離れずにいなさい。そうすれば、あなたは死ぬことはありませんから」
「はい」
張コウがあまりに自信たっぷりに言い、また嬉媚もそれを疑わずうなずくのを見て、
「その根拠の無い自信はどこから来るんだか、一度俺はお前らの頭の中、まとめて開けて見てみてえぜ」
夏侯淵がつくづくと言った。

 両軍の最初の大衝突は、定軍山でおきた。夏侯淵の弓が唸りを上げて震え、益州軍に容赦なく矢を浴びせる。張コウの戦いざまが、傍目には舞うようで、しかし激しいものだったことは言うまでもない。その中で、嬉媚も拝領の牙断で奮闘した。戦の混沌の中で嬉媚は、男の将兵に全く見劣りしなかった。
 ところが、日ごろの行いが悪かったのか、それとも。この山をめぐっての攻防で、夏侯淵は再起不能にも等しい深手を受けてしまっていた。
「ちくしょう、あのジジイ…」
二人が機嫌を伺いに行くと、幕舎の中で、夏侯淵がうめいている。嬉媚は、持ってきた箱から薬剤を取り出し、なにやら作業を始める。
「…ジジイはジジイらしく、縁側で茶ぁでもすすってろってのに…」
やむことない恨み節の相手は、この深手のもとになった、劉備配下の老将・黄忠のことである。ともに弓については右なしを自負する者同士が真っ向から衝突する形になったのだ、
「…そして、年の功に負けたのですね」
張コウはそう言った。伸ばしてきた戦端が大きく押し戻されるのは想像に難くない。もう報告の兵は陣を出ていた。
「殿に合わせる顔がねぇよ、こりゃ…」
「確かに、この首尾では、間違いなく殿がじきじきにお出ましになるでしょうね。
 ですが夏侯淵殿、せめて傷は治して、美しく殿をお迎えしようではないですか」
「こんなところでまでお前の美しく、に相手してられっか!」
あくまで自分の機嫌が優先で、文字通りの他人事にされた夏侯淵はそう声を荒げ、
「いてててててて」
体中に響く声で騒ぐ傷の痛みにまたうめく。
「嬉媚、痛み止めは準備できましたか?」
張コウはいたって冷静にそう言い、
「こうも早く総大将同士の激突の様相を呈してくるとは…
 筋書きが美しすぎて、腕が鳴ります」
「まったくお前はいつも通りだなぁ」
「お褒めいただきありがとうございます」
「これがほめているように聞こえるんだから、なおさらだ」
嬉媚が匙で少しずつ差し出してくる薬を、今の心境と全く同じ顔で、夏侯淵は苦々しく飲み下した。

定軍山からやや東に下がった所・南鄭に、魏軍の主・曹操の陣ができていた。
「淵よ、無様だな」
そして曹操は、ばっさりと、聞かされていた従兄弟の首尾について一言そう断じた。
「わしは常々、あれにはもう少し臆病になれといってきたはずだが…」
「無理を言うな孟徳、淵に臆病であれなど、お前に人漁りをやめろというのと同じことだ」
曹操の傍らで動かない将が、ずけずけと曹操の話を受けるが、曹操は全く起こる気配がないどろか、少し笑うように
「手厳しいな元譲」
と返した。この二人の間には、君臣とは全く違う空気があって、お互い忌憚ないことが普通のようだ。
「事実だ」
隻眼の将は、まだ枕の上がらない(上げられない)夏侯淵のかわりに詳しい戦況の報告に来た張コウに
「早々に淵の弔い合戦か」
と言う。張コウが
「本当に夏侯惇殿は手厳しい、従兄弟殿は生きておられるのですよ」
薄く笑みながら言うと、
「治ったとしてもよほど養生をせねば弓をもてまい、この戦いではもう役には立たん」
開いた目に、暗く灯りを移しながら夏侯惇が言う。
「漢水をはさんでにらみ合うか、長期戦になりそうか」
「なるかどうかは、こちらと向こうの出方次第」
「なんでもいい、孟徳の道の前に邪魔があればそれを払うのが俺の仕事」
夏侯惇は低く呟き、
「俺たちは遠征軍だ。持久戦を見越して、兵糧を狙われぬよう、よく守らせておけ」
張コウにそう言った。
「かしこまりました」

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