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 青姐を連れてきて、何日かが経つ。張コウは余計に城に居残ることはなく、まっすぐ帰宅するようになっていた。
 帰ってきて、そっとのぞいた書庫では、青姐がちょうど、書簡を取ろうというのか、納めようとしているのか、難儀をしている最中だった。普段からしばしば読む書簡は、張コウの手の届きやすいところに集まっている。さしもの青姐も、手のとどかないところがあるようだった。
「これを、どうするのですか?」
青姐の持っていた書簡をついと取って、張コウが話しかけると、
「あ、お、お帰りなさいませ将軍!」
と、青姐は拱手する。
「お出迎えにも出ず、失礼しました」
「かまいませんよ、使用人のように出迎えをしてもらいたくてあなたをここにおいているのではありませんから」
再度、この書簡は?と尋ねると、青姐は、別の書簡の棚にまぎれていたので元に戻そうとしたら意外に高くて手が届かなかった、と、そんなことを言う。
「なるほど、確かに、収まるべき所に収まっていないのは美しくありませんね」
張コウはつい、と、青姐が戻したがっていた棚に書簡を押し込む。青姐がそれを見上げているので、
「どうか、しましたか?」
と尋ねてみるが、青姐は、
「なんでも、ありません」
と答える。傾いた日が入る青姐の目は、緑がいっそうに深く輝く。それをとっくりと堪能してから
「見上げるというのは不思議な気持ちではありませんか?」
そう言うと、青姐は、にわかに目じりを染めて二三歩後ずさる。そう言う反応を予期していた
ような目で、張コウは、
「そういえば、あなたが城から持ってきてもらいたかったものをいろいろと預かってきましたよ」
と言った。

 よほど目立たないようにしていたのだろう、少しすくんだ色合いの普段着が少しと、後は彼女専用の小物。二つだけ、異様に大きいのは、彼女の武装だという。
「…姫将鎧ではありませんか」
しかしその中をみて、張コウはやや驚いた声を上げた。
「これを上官から賜るのは至難の業とは知っていましたか? 武勇のみでもなく、知略のみでもなく、兼ね備え、かつそれを異存なく発揮して、初めて下賜が許されるのです。
 私より徐晃殿のほうが、あなたがどういう人物か、よく知っているようですね」
そう言いながら、もう一つの包みを開けると、牙断があった。徐晃とそろいの誂えだ。が。
「…おや?」
柄に、何かが刻んであった。それを確認するように目を近づけると、青姐が
「あ、それは」
と、牙断をひったくるように抱えこんだ。
「何か、刻んでありましたよね、もう少し良く見せてくれませんか」
「だめです」
青姐はひとこと、そう言った。しかし、こういうことは張コウのほうが一枚上手だ。青姐の後ろに回りこみ、するっとその牙断を取った。
「!」
「…ふむ」
今度は、柄に刻まれた字が良く見える。
「…嬉、媚?」
青姐は、書簡をくつろいで読む椅子に腰をかけて、袖で顔を覆ってしまっている。要は、いつ、どういう功績で徐晃がこの牙断を青姐に下賜したか、いきさつが刻まれているわけだが、「青姐」となるべきところには、「嬉媚」とある。
「嬉媚…あなたの名前ですか」
振り返って尋ねると、観念したのか、俯いたままで青姐は頷いた。
「私は、『青姐』で一向に構わなかったのですが…徐将軍はそれは通名であるから本名を刻むと」
「そうですよ、今の呼び方では『青い目』と見たままを呼ばれているのと同じことなのですからね。
 殷の紂王を虜にした三傾国の一人と同じ、名づけ親はよほどけれん味がおありのようだ」
「…」
青姐の顔がしんねりとする。どうもその名前は好きではないようだ。それがわかっているのかいないのか、
「こういう趣向は、私は嫌いではありませんよ」
張コウはそう言った。そして
「どうです、いっそ、名実ともに『嬉媚』とおなりなさいな」
青姐…嬉媚の前に膝をつき、その視線を合わせ。
「あなたにはそれが出来る。この張儁乂は、あなたをそうしたい」
嬉媚。確認するように名を呼ぶと、ぴく、と嬉媚の肩が震えた。
「きっとあなたは、どこかで、これを私が好む酔狂の類だと思っている。
 違いますよ」
「…」
「よくわかるのです。あなたは何も語らずとも、あなた以外のものが雄弁に語るのです。あなたが実はどういう人かを。
 嬉媚、本当のあなたを見たい。私には、それも許されないのですか?」
張コウは、肩をおおってさらさらと波打つ嬉媚の淡い色の髪を、指にくるりと絡ませ、急に無邪気な笑顔に変わった。
「さあ嬉媚、その話は後にしましょう。
 読書だけでも、おなかはすくものですからね」

 張コウはは、よほどその名を気に入ったようだ。口の中で転がすように何度も「嬉媚」と繰り返している。
 そしてそれをきっかけに、もう少し、嬉媚の奥深いところに興味を持ったようだった。というより、そもそもが、張コウが勢いで連れ出したわけで、彼女の来し方など、何一つ知っているわけでもない。
「嬉媚は」
と、食事の席で尋ねる。
「最初から軍にはいっていたのですか?
嬉媚は、それをかすかに首を振り否定して、
「育ての親は、どうにも縁組をさせようのない私をもてあまして、私を、働き口を世話する人に預けたのです。
 正直、どんな仕事でも良かったのです。食べられて、眠れるところがあるなら。
そうしたら、許昌の宮殿に上げれば、珍しいものをよこしたと褒美に預かれるかもしれないと思われて…『嬉媚』という名前もそのときに」
「その者に、黄承彦のような発想の転換はなかったのですね」
張コウはそう言った。そして、なんとなくは察されたが、
「…宮殿の生活は、辛かったのでしょう?」
そう尋ねた。嬉媚は何も言わなかったが、大方は察された。その沈黙が何よりの答えと見えた。髪や眉を黒くごまかすようになったのも、その頃からの事なのだろう。殿・曹操が彼女に目を留めて、何かあればここに嬉媚はいないのだが、斡旋者のアテは見事に外れたわけだ。
「質問を重ねますが…徐晃殿の下で将になろうとしたのは何故?」
張コウがさらに尋ねると、嬉媚の眉がにわかに開く。
「殿の関係する御用で徐将軍のところを訪れたときに、私の見た目をあやしむこともなく、寧ろ背のあることをほめてくださったのです」
「ほぉ」
勿論、その徐晃の言葉に、それこそ婀娜っぽいもののかけらもないことは、張コウにも容易に想像できる。
「あの方は、ご自身が武の道を究めんとまい進しておられるから、嬉媚の体格なら兵としてひとかど以上になり得ると、そう思ったのでしょうね」
「はい、全く同じことを仰って、軍に入ることをすすめてくださったのです」
そして、嬉媚は姫将鎧と牙断を拝領するほどになった。嬉媚が軍の中で、どれだけ充実した生活を送れていたか、本人より雄弁に、それらが物語る。
「楽しかったですか? 徐晃殿の下は」
「はい」
嬉媚は、素直にそう言う。女官でいたころにくじけた自分の矜持を、少し取り戻すことも出来たのだろう。
「実は、この間将軍のお手を煩わせてしまったのも、徐将軍からお借りした書簡で…」
「おや、では、あの方はきっと、私の字で書かれた書簡が返ってきて驚いているでしょうね」
二人はひとしきり、ふふふ、と笑う。そして嬉媚が少しさびしそうに、話を続けた。
「でも徐将軍は、私をそのままお手元には置いてくださいませんでした。得たものは、殿の下で発揮するものだと。その頃ちょうど都が移り、私は新しい宮殿の、あの場所にいるよう決められたのです」
「…そうでしたか」
後は張コウの見たとおり、なのだろう。黙ってしまった嬉媚をつくづくと見てから、
「手続きは終わっています、今あなたは私の直下になりましたから、あの場所に帰る必要はありません。
 …あの場所は、あなたとは決して相容れない場所ですから」
そう言った。あの場所は、ただ生活するだけの場所ではない。一時でも太子・曹丕の手が付いて、甄姫の次席に納まるための妍を競う場所である。
「わずかの間に、あなたの立ち直りかけた矜持は、今度こそ完膚なく打撃を受け、否定されてしまいました。
 髪を染め、瞳を見せないよう顔を伏せ、上背を少しでも低くごまかすように背を曲げて歩く。最初私が見たあなたは、そんな有様だったのですよ」
「…」
嬉媚は目を伏せた。しかし、それは今しがた張コウが言った悪い癖ではなく、本来持っている彼女の性根がそうさせているのだと思わせた。素直に、その仕草が可愛らしく見えるのだ。
「あなたはずっと、本当のあなたを否定されて、世の常の型にはまろうとしても、それすらできなかった。私はそんな型などとうに打ち破ったように見えているのでしょう、あなたをここに連れてきてしまった普通ならややこしい話も、みな事後承諾ですみました」
張コウは、少し恥じ入った風情の嬉媚を見て、そう言った。用意されていた酒が、いつもより彼を口数多くさせていたようにも見える。
「否定され、くじけたあなたを元に戻す方法は、難しいようでいて、存外に易しいものです。
 …私があなたのすべてを容れればいいのです」
そう顔を向けられ、嬉媚は
「は、は?」
と詰まらせつつ返事をした。
「だいたい、考えても御覧なさいな嬉媚、あなたの本当の親御のいる西胡に行けば、私は黒い目と髪で、逆に珍しいほうになってしまうのですよ」
「そ、そうですか?」
「そうですよ。その上で、目の色を取り替えろ、髪の色を取り替えろ、そんなことを言われても、私には出来ません」
張コウはその、髪や目の色を取り替えた自分さえ、想像できれば美しいだろうかと、少し笑いながら杯を開けた。
「だからね、嬉媚。あなたは、あなたでいなさい。私はあなたのすべてを容れるから」
「は、はい…」
箸もろくに進まぬまま、急ぐように食事を終えようとする嬉媚に、
「嬉媚、飲まないのですか?」
張コウは杯を掲げて見せた。
「え」
「遠慮しなくていいのですよ、お酒について鍛えられたことも、ちゃんと私は調べて知っているのですから」
嬉媚はきょとんとした。しかし、すぐにほんのりと笑顔になり、
「では、いただきます」
と、なみなみと注がれた一杯をらくらくと開けた。

「どうだい、あの大女。突然お前が連れ出したんだ、悪いわけはないよな」
と夏侯淵が言うので、張コウはまた少しく機嫌を損ねた風情の顔で
「そんな没個性的もはなはだしい呼び方はやめてください。彼女には嬉媚という名がちゃんとあるのですから」
飲みかけの茶をぶ、と噴かれて、今度は張コウはあからさまに嫌な顔をした。夏侯淵はそのあと、むせるようでも笑いながら、
「それじゃ…ごほ、何だ、あれよりすごい姉ちゃんがいたりするのか」
と言う。

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