「彼女には女兄弟などいませんよ。でも、けれん味があって面白いではありませんか」
張コウは本当に面白そうに
「見た目は確かに人とはだいぶ違いますが、好奇心があって素朴な、普通の娘ですよ。帰ってきたら、私の蔵書の中から問答を仕掛けてきたり、かと思ったら、厨房を借りて食事を作っていたり…彼女の行動は飽きません」
「へえ、まあ、確かにやってること自体は、ちょっとした役人の家の娘とそうかわらねぇな。で、どうしてんだよ」
「勿論、問答には答えますし、食事ならおいしくいただきますよ。
繰り返すようですが、中身は、全く普通の娘です。少し学が好きで、いろいろもの知りたがりの割には知らなくて、それが不思議と欠点とも思えず、むしろ可愛らしいとさえ思っています」
「あーぁ、こりゃ冗談抜きでご馳走様だ」
夏侯淵は言って、その話を払うように手をはらはらと振った。
「まあ、お前は楽しそうでいいんだがよ」
しかしその後、急に神妙になり、
「俺は大変だ。
今度、漢中に行くことになったわ」
と言った。
「漢中? たしかあそこは、五斗米道の…」
「ああ、張魯が頭下げてきやがったとかで…殿が、蜀と接する要地に生半可の奴はやれない、お前行って来い、だ」
「確かに、ご一族の夏侯淵殿なら安心でしょうが…殿もまた突然な」
張コウは、浮かれ気分をそれとして、卓に座りなおした。曲がりなりにも、張コウは粒ぞろいの魏の将の中でも、特に五指に上がると評される名将なのである。戦となれば、無関係ではいられない。
「しゃあねぇ、それが殿だ」
「そして、夏侯淵殿はどうしてそれを私に?」
「ああ、なんてことはねぇ、お前がいれば退屈することもまずねぇだろうと思ってよ。腕も確かだしな、ついて来いよ」
張コウはきょとん、として、それから、それは健やかな声で笑った。
「私は一向に構いません、寧ろ、あなたがことさらに私と仰ってくださるとは光栄なこと、張儁乂の、戦における美へのあくなき探求の道は、まだ閉ざされていないということですね」
「お前風に言や、そう言うことにもなろうが、何分、漢中といや益州は絶対取りに来るだろう厄介なところだ、明らかにどっちかのもんになるまで、戦ぁ続くぜ」
夏侯淵の顔は、いかにも神妙だ。
「だからあの大女…」
「嬉媚です」
「何でもいい、そいつのこと、どうするか決めてくれ」
「決めろ、とは?」
「やかましい、全部言わせるな、お前が始めたことだろ、ケリつけろってこった」
「…ということになりました。近く西進して、漢中をめぐり益州と攻防を重ねることになりそうです」
帰った張コウは、嬉媚にそう告げた。
「どうするかは、あなたの自由です。あなたの思うようになるように、私も計らいましょう。
ここに残り、屋敷を守ってくれながら書物で研鑽を積むもよし、城に戻るもよし」
嬉媚は俯いている。少し考えている様子だった。そして、
「私は、将軍のお情けでここに置かせてもらっている身です。私に去就を決めることは出来ません。
私は、将軍がお命じになるままにいたします」
張コウは正直、その選択が一番困った。しかし、嬉媚の言葉の方が一理ある。俯いた顔から、彼女の表情、まして考えていることなど、うかがうことは出来ない。
「…わかりました」
張コウは一度その話を切り上げることにした。
「私も考えます。ですが、あなたも考えてください」
とはいえ、張コウにもにわかには決められなかった。
決断力の鈍っている自分が美しくない…とと言うより、例のように格好が悪い。人ひとり、命令一つでどうにも動かせる自分が、その下す命令の選択に悩んでいるなど。
興味本位で連れてきて、のびのびとさせた嬉媚の姿は、予想をはるかに上回って張コウの中にある。愛着もある。正直離し難い。しかし、張コウが嬉媚の自由を奪ったという事も確かで、それについては、彼女に何らかの希望があればそれを実現させてやりたい、城にもとらないというのであればそれでもいい、とにかく彼女の自由を確保してやらねばという、柄にもない義務感も沸いてくる。
「私は、嬉媚をどうしたいのでしょう」
隣に耳をすませる。嬉媚の気配は、ほとんどない。
「嬉媚?」
屋敷にいても、この書庫代わりの部屋で大概の時間をすごす嬉媚のことだから、いないということはないはずだった。
「入りますよ」
驚かせないよう、静かに続く扉を開ける。嬉媚は、呑気な風情で卓にうつぶせて眠っていた。
「おやおや」
張コウは、それについ笑みをこぼしてしまう。屈託のない子だと、そばにあった仮眠用の掛け布を取る。背中にかけようとして、ふと、嬉媚のまつげがぬれているのが見えた。
「無理につれられてきたここを出られるというのに、何をそんな必要が…」
そう呟く。その涙顔が可愛らしい。それだけに、これから戦になるようなところにつれては行けぬとも、どんな場所でもつれてゆくとも、言い切ってしまえない自分が、なんとなく疎ましかった。
これと決めた人が現れたとき、自分はおそらく、物笑いになるほどあられもなく浮かれあがると、自嘲まじりに思っていた。しかし、それが嬉媚だとわかり、彼女のものなら、この一時の眠りさえも、邪魔したくない自分もまた真だと、今になって思い知らされる。
目が合えば笑み、書簡の問答を仕掛けてくるような、そんな闊達な彼女を取り戻させたのは自分だと自惚れていいはずなのに、あるがままの嬉媚の前では、何かといっては美にかこつけた体裁を作る自分が浅ましくさえ見える。
嬉媚が顔を乗せている簡を見た。
「…詩経ですか」
琴線に触れた一説を、写し集めていたものなのだろう、字は嬉媚のものだった。
「…青青子衿 悠悠我心…」(あなたのお衣装の色が見えて、私の心は募るばかり)
陽気でなければいけないと思っていた笑いが、なんだかやるせないものになってくる。
「…一日不見 如三月兮…」(お会いできない一日が、三月にも思えます)
しかし、どうするかは決まった。張コウは、傍らの筆を取って、その書き写しの余白に、ほんの少し書き付けて、嬉媚の背に布をかけた。
嬉媚が、ばたん、と、転がるように扉を開けて出てきたのは、書簡にそんな仕掛けをしたことを、張コウ本人も忘れかけた頃だった。
嬉媚の手に、あの書簡が握られているのを見て、彼は
「一日不見 如三月兮」
と笑んで呟く。
「それでは私は、あなたを放っていたように見えてしまう、それとも、その通りだったのでしょうか?」
「い、いえ、そんなことは…これもただ、すきな詩だったので、写しとってあっただけなので…」
嬉媚の肌は、余人より白く、顔色がはっきりとわかる。彼女は真っ赤になって、書簡を広げていた。
「それよりも、これは…」
張コウは、そういえば、と自分のしたことを思い出し、嬉媚のすぐそばまで歩み寄り、確認するように書簡を見た。嬉媚は何か言いたいようであったが、口ばかり開いて、声にはならないようであった。張コウは
「どうしました、そんな顔をして」
と笑ったが、一時、薄い笑みを隠して、
「これが私の気持ちですよ。いけませんか?」
と、嬉媚の目を見た。
書きつけられたことばは「上邪」の一言しかなかったが、嬉媚ならそれだけで、全てを思い出せると思っていた。事実嬉媚はその全部がわかっているようで、灯の具合にまた緑の風合いを変え、涙まじりの嬉媚の頬にかかる髪を指で撫でやりつつ、張コウは
「上邪…」
と、その続きを口にした。
上邪(神かけて誓います)
我欲與君相知(あなたと出会い、)
長命無絶衰(いつまでも、この思いが変わらないことを。)
山無陵(山がなくなり)
江水為竭(川に流れる水が尽き、)
冬雷震震(冬空に雷が轟き、)
夏雨雪(暑い夏に雪が降り、)
天地合(天と地が一体になる、)
乃敢與君絶(そんなことがあったら、わかりませんが)
その声は、細く、しかし誇らしかった。促され、嬉媚も一緒に唱えようとするが、涙でそれはでなかった。
「ありえないことばかりですね。だから、変わらない。
私は、いつまでも、あなたと共にいたい」
見上げさせた嬉媚の目から、ともし火に光る透き通ったものがほろりと落ちる。
「私の嬉媚…一緒に、来てくれますか」
その言葉にこくりと頷いて、その肩に触れる涙の震えを、可愛らしい、と思うのだ。美しさではない。嬉媚は美しいのではない。可愛らしくて、愛おしいのだ。
「ならば、私はもうあなたを離しません」
宮城に再び、嬉媚の姿があった。しかし、一見して嬉媚と気づくものはない。
張コウは、嬉媚の髪をあえてしっかりと結わせず、上を軽くまとめ、まとめたところに、揃いの蝶の飾りをささせ、彼女の目と同じ色の石を求めて、それをあしらった額冠をつけさせた。一見すれば、嬉媚には、三つ目の瞳があるようにも見える。
姫将鎧の肩当てのあたりに、亜麻色がゆらゆらとかかるのを、張コウはついと見やり、
「美しいですよ、嬉媚」
と言う。嬉媚はそれを、わずかに目じりを染めて受けるが、目をそらすほどに俯いたりはしない。
「夏侯淵殿がいらしたら、殿へ、出立のご挨拶に伺います。気後れのないように…というのは、今のあなたにはもう言う言葉ではありませんね」
そんなことを言っているうちに、夏侯淵が
「いやー、遅れるかと思ったぜ。…張コウ、お前は早いな」
「何にも神速を尊ぶ。それが美を保つ基本のようなものです」
「美のことはどーでもいいからよ、殿のとこ、行こうぜ」
「そうしましょう」
張コウは行って、嬉媚に目配せをする。夏侯淵はそれを見て、
「誰だそいつ」
と言う。嬉媚は夏侯淵に恭しく拱手して
「嬉媚と申します」
と言う。夏侯淵はややあって、
「え、ええ、すると何かよ、これがあの大女…いや、大女ってのはいけねぇんだったな。
しかし…噂とは随分違うな……」
用事を忘れたように立ち尽くす夏侯淵に、
「殿の下に参るのではありませんでしたか、夏侯淵殿。
先に行きますよ。嬉媚もいらっしゃい、美しく、顔をあげて」
「はい」
軽い足取りの張コウの後を、嬉媚が、牙断を手にすたすたと付いてゆく。
「参ったねどうも…」
夏侯淵はひとしきり唸ってから、左右を見巡らして二人がいないことに気がつき、
「ってかおい待てよ二人とも、主将は俺だろ!」
と、小走りに追っていった。
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