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 確かに、胡青姐は、庭のこの間の場所で、また書簡を読んでいた。見れば、庭は見渡せるが、日の当たりにくい場所で、この間の雨がまだ乾ききっていなかった。
「胡青姐」
と呼びかけると、彼女はは、と顔を上げた。
「張…将軍」
そう言う声は、ほんのわずか震えている。その後、陶製の椅子からすべり落ちるように膝をつき、拱手する。
「先だってのことは、おみぐるしいところを…」
「何を言いますか、私は少しもそんなことを思っていませんよ」
お立ちなさい。張コウに促されて、胡青姐は立ち上がる。俯く彼女に
「顔をお上げなさい」
といわれるが、青姐はなかなかそれをしない。
「また、無理に上げられたいですか?」
そういわれて、やっと、顔が半分は見えるところまで上げた。
「もうすこし」
しかしやはり、張コウは指で顔を上げさせてしまう。やや光の落ちるその場所でも、忘れていない緑の色は変わらない。
「…あなたの瞳は、夏の緑のようですね。…あまりに美しかったので、探してしまいましたよ」
そう言って、
「水でだめにしてしまった書簡を持ってきたのですが」
と、今まで彼女が座っていた椅子の上に、包みを開ける。青姐は
「将軍がそんなことをなさらなくても…」
というが、どうせ一人では解決できなかった問題であっただろう。この時代、書簡を複製する技術など、人力以外にはないのだから。
「それと、壊れてしまった髪飾りの代わりを。私の見立てであなたに合うかはわかりませんが」
張コウが良く使う、蝶をかたどったものだ。しかし、
「もったいない…」
青姐は、やおらほろほろと、その緑の目から涙を落とし始める。これには張コウもぎくり、とし、
「悪いことをされたわけでもないのに、何故泣くのですか」
と、つい問い詰めるように言ってしまう。
「すみません、こんなにご迷惑をおかけしたかと思うと、私」
青姐は涙を抑え、震えながらの声で言った。
「ありがとうございます、このご恩はきっと返します…」
「恩など返さなくても結構です」
青姐の言葉に、張コウはきっぱりと言った。笑みが薄く張り付いた顔だが、言葉は薄い刃のような雰囲気を持っていた。
「私に恩を返すことを考えるより、侍女達にからかわれて何の反抗もできない、あなたのその性根を治しなさい」
いいですか? 張コウは言って、庭からすっと、退るように去った。遠くから、黄色い声が聞えている。甄姫の侍女達に見つかれば、また、青姐は何事か冷たいあしらいを受けるだろう。しかし、この場所が青姐の守る場所であるかぎり、逃げろと言うこともでない。彼女には悪いが、美しくない風景を見るつもりなど、彼にはさらさらなかった。

「いや、俺は名前は知らないが」
と夏侯淵が言う。青姐が徐晃の下にいたという話は、どうやら本当のようだった。
「徐晃が、やたらでけぇ女を副将に見込んでいろいろ仕込んでるってのは聞いてたぜ」
「なるほど」
「何でも、天井のホコリが手で取れそうな上背で、人間じゃねぇ目の色してるって、そんなのとは係わり合いにゃなりたくねぇやな、とは、もっぱらの話だったな。
 今はどうしているかは、知らん」
「見る目が無いことですね」
おそらくは兵卒たちの間の話をまとめたものなのだろうが、それを代弁した夏侯淵の言葉を張コウはぴしゃりとはねかえす。
「そう言うことは本人を直接見てから仰ってくださいな、彼女の上背はせいぜい私の鼻あたりほどしかありません。そのうえ会うたびにかしこまられてしまうので、顔など満足に見たこともありませんし」
「それだって、並みの女に比べたら頭一つ出てるじゃねぇか、お前、自分の上背考えたことあるのか」
言われてみれば、自分と比較しても、青姐の背は随分と高い。しかしそれは、夏侯淵に指摘されるまで張コウは気がつかなかった。しかし今はその話ではない。
「私も彼女も、たまたまその上背になるように生まれついただけです、何の恥じるところがありますか」
自分のおもうようにならぬところをどうにかしようとしてあがく様は美しくないですよ。張コウはそう言った。夏侯淵は、
「へ〜え」
しきりに頷いた後にやりとして、
「なるほど、察するにお前、その大女に惚れたな」
と言った。張コウの気配がにわかに色めき立つ。
「な、なぜそこでそんな話になりますか、私はただ青姐の話をしているだけで」
「お前がそんな熱心な顔で、自分以外の、しかも女のことをしゃべくるところなんざ、初めてみるわ。世間じゃな、そういうのを惚れたっていうんだよ」
どーだ、反論してみろと言わんばかりの夏侯淵の言葉に、張コウは
「美しくない。何故異性の話を口にするだけでそう言うところに話が飛躍するのでしょう」
と、心底嫌そうに言い、ふいっと、部屋を出た。

 ああ美しくない。本当に美しくない。なんて下卑た発想でしょう、と、らしからぬ、がつがつという足音で張コウは廊下を歩く。当時の尺(=23.04cm)にして八尺四寸二分の男が、気配を荒立てて歩くのだから、すれ違うものは一体何事かと、皆がみな振り返る。
 私はただ美しいものを求めているだけ… 半分は自分に言い聞かせるようにぶつぶつ呟きながら、足はいつのまにか太子の宮殿の方向に向かっている。その足が、止まる。
「あれは…」
いつもの椅子に、青姐がいた。しかし、その周りに、侍女らしい娘の姿がある。
「そう、この髪飾りを下さった人の名前はいえないのね」
「わかっているのあなた? どの将軍も気味が悪いと使いたがらないから、ここの警備に回されたのよ」
「ただの番犬が、こんな金細工、もったいないにもほどがあるわ」
「…そういえばあなた、この間張将軍と何か話をしていたのをみたけど?」
「あなたを張将軍が相手になさるとおもう? 珍しいから一時興味をもたれているだけよ」
「まあ、そんなことが。でも将軍も、幻滅なさるでしょうね、女らしい話の一つもできずに、口から出るのは難しい本の話ばかり」
「『美しくないあなたには、私はもったいない』」
「やぁだ、こんなところであの方の真似なんておやめなさいよ」
「とにかくこれは、ふさわしいものが持つべきね」
一人の手が、青姐の髪飾りをもぎ取った。
「ああやだ、指が黒いわ」
「髪は墨を油に混ぜていくらごまかしても、目まではごまかせないのにね」
「そのヘビのような目の色、怖いのよ」
「ほんとう、怖いこと」
侍女たちが、絹物の裳裾をさらさらとさせながら、行ってしまう。青姐は終始うつむいたままで、侍女達のさった後、さらに背を丸め、嵐が過ぎた後のように、ふう、とため息をついた。
 気がつけば、ぎっとこぶしを握っていた。ハタから見れば、自分はおぞましい、おそらくは醜い顔をしているだろう。しかし、彼女らの、ひねゆがんだ中身に比べたら、まだましと言うものだ。反射的に、といってもかまわない動きだった。
「青姐!」
まだ庭に三々五々と、部屋を飾る花を摘む侍女達に聞こえるように呼ぶ。そして、まっすぐそこまで歩み寄り、かしこまる青姐の腕をつかむ。
「醜いものに触れたものですね」
「…張将軍!…」
青姐が、張コウの声が侍女達に聞こえているのをどう取り繕うか手をこまねいているのを、
「いらっしゃい青姐、こんな場所に無理している必要はありません」
手を引き、そのまま宮殿を退出していった。

 張コウの屋敷では、主人がまず帰らないだろう早い刻限に、奇妙な連れを伴って戻ってきたのに驚いた。奇妙というのは失礼かもしれないが、屋敷の者も、青姐のたたずまいにはいささかの圧迫感を感じたのだ。
「急ぎ湯を用意して、この方を綺麗になさい、特に髪を」
彼は自分の侍女達に言い渡す。また一方を向いて、
「彼女はしばらくここで預かります、必要なものをそろえなさい」
といい、最後、訳のわからないまま突っ立つだけの青姐に
「私は部屋と取り急ぎの服を用意します。
 青姐、心配は要りませんよ、悪いようにはしませんから」
珍しい蝶でも捕まえた少年のような、無邪気な笑みをした。

 用意された服は男物ではあったが、色や模様は丁寧に合わされていたようで、むしろ裳裾があるような衣装よりすっきりして見えた。それよりも、みな驚いたのが、丁寧に落とした墨まじりの油の下から出てきた青姐の髪は、乾かすと実った稲穂のような色になり、部屋に入る日の光にすかすと金色に光るように見えたことだ。全く異質なものに見えたが、これが青姐の本当、なのだ。
「天は、あなたの瞳にふさわしい髪の色を与えて下さったのですね。
 美しいですよ、青姐。これからは、ちゃんと顔をあげておきなさい」
身支度を整えて張コウの前に出された青姐に、まず彼はそう言った。
「あなたの生まれは聞いています。西胡人となれば、あなたが生まれたのはきっと商いの旅の途中だったのでしょう。
 こう美しく生い立つまでを、ご両親は見届ける事もできず旅立たざるを得なかった悲しみ…
 私の心に響きます」
青姐は、そう呟く張コウを、返す言葉なく見ているだけだ。飄々とした笑みを絶やさない将軍が、今に限っては真面目に、はるか遠くを見る顔をしている。まるで、話だけで青姐も知らない、西胡の方まで見やるような目だった。
「張将軍…」
青姐が声をかけあぐねていると、張コウがふと自分の方をみた。反射的にうつむくが、自分を見た彼の顔は、確かに笑っていた。すると彼は立ち上がり
「さて、私はしばらく自分の部屋にいなければなりません」
と言う。
「お仕事ですか」
「お仕事…であればよいのですが、あなたのことです。
 いろいろ、事後承諾になることが多いので、いつもより丁寧な書簡が必要なのですよ。
 太子宮殿の護衛の責任者の名前を教えて貰えますか?」
そう言われ、青姐にも、自分がここに着てしまったことの後始末なのかと思い当たったようだ。
「…お手を患わせて…」
とまたうつむくのを、
「ほら、言ったでしょう、顔は上げなさいと。
 私のしたことです。その責任はきちんと取るつもりなのですから」
張コウは諭しながら、書簡のことはさして大事と思うようでもなく、
「あなたの部屋はここにしましょう。書庫を兼ねていますから、あなたの好きなものは何でもお読みなさい」
「あ、ありがとうございます」
拱手する青姐の腕の上から顔を覗き込むように
「遠慮も要りません。というより、私がよいというまで、ここから出しませんよ」
張コウは、少しく笑みを含む声で言った。

 が。
 美しくない。美しくないというか、格好が悪くて恥ずかしい。
 仕事場に入った張コウは、サラの書簡を取り上げながら、そう思った。
 まさか、自分でも、こんななりふりもかまわない挙動に出るとは思わなかった。
もう少し自分らしく、美しく穏やかにつれてくる方法など、今考えればいくつもあったというのに。しかしあの状況にあって、穏やかに連れ出せたか?と自問しても、できないような気がしてきた。
「考えるのは止めましょう」
当面の「仕事」は、青姐がいなくなって、それなりに困る方面への侘びの書簡を何巻きか、というところだ。

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