| 目次

  青眼胡娘  

 それはさながら、一幅の絵のようだった。
 徒然そうに、長躯をしなりと窓にもたれかけ、書簡の読みかけを手に、外を眺めてふぅ…ぅ、と、長いため息をついた朝服姿は、将軍と言うよりは、薄幸の文人と言ったほうが良く似合う。
不如意なることにため息をつくのも美しい私… そんなことを思っていると、
「なぁんだよ、」
と言う声が、その清純な雰囲気をぶち壊しにした。
「自分で呼んでおいて、ほったらかしもなかろうよ」
「…」
文人のような男は、かけられた声の方を、実に鬱陶しそうに振り向いて、
「私の部屋なのですから、主の私が何していようと、あなたには関係ないことだと思いますが」
と言った。客人は
「あーあー、お前のこったから、そう言うとは思ったけどよ」
と言いながら、主に少し離れた卓に座り、物言わずに入ってきた侍女に何やと言い渡す。
「勝手知ったる他人の部屋、ですね、夏侯淵殿」
「おうよ、拾ってやったのは俺だからな、感謝しろよ」
夏侯淵はヒゲがちの顔をにやっと子供のようにゆがめた後、
「しかし張コウよぉ、お前これ、全部読んだのか?」
と、壁の一面を見た。ぐるぐると巻かれた書簡の束や絹布の巻物が整然と積み重なってあり、見ている方が目がぐるぐるとなりそうだった。
「すげぇ量だなぁ…」
「学びて時にこれを習う、また楽しからずや」
張コウは言いながら向き直り、女性であれば嫣然と、という形容がぴったりの微笑で、
「ですが、それでも解決出来ないことなど、山とあることだって、私はわかっているのですよ。たとえば…」
「たとえば、何だい」
張コウの表情はくるくると変わる。笑んでいた顔をすぐに曇らせ、
「知勇に美を添え生まれ出た私に…」
ぼそぼそという。夏侯淵は、こりやアレが出るぞ、と、悟ったような顔をしている。
「何故縁と言うものをお与えにならなかったのでしょう!」
ほら出た。夏侯淵は、出された茶をず、とすすって、明後日の方向を見やり陶然とした張コウを見やる。その癖があるから、縁の方が遠慮して寄ってこないんじゃないか? という気もするが、言って納得する相手でないことは、悲しいかなこれでもかと言うほど思い知っている。
 とにかく、ひとしきり陶酔して、
「…とか」
と言う張コウに、
「ああ、そりゃ…神様も困るだろうよ、いろんな意味でお前につりあうのを探すのは、お日様を西から出すより難しいや」
夏侯淵は、半ば呆れたように言った。
「しかし、縁だなんて、お前にしちゃ俗なものを欲しがるな。そんな踊るほど欲しいなら殿にねだってみたらどうだい。娘でも紹介されたら、一気にお前も俺と同じ一族だぜ?」
「そんな卑屈なこと出来ますか」
人のことと思って投げやりに仰るのだから。張コウはすっかり機嫌を悪くしたらしく、また窓にもたれかかるように座って、夏侯淵を振り返りもしない。
「あてがわれるのがイヤなら、お前が言う、『美』とかを探す根性で捜して見たらどうだよ」
夏侯淵はまさしく投げやりに言って、
「あーぁ、妙なうえにややこしいモノ拾っちまったぜ」
と呟きながら、部屋を出て言った。張コウが呼びつけた用、というのも、結局わからずじまいだったが、夏侯淵はまた後でもう一度聞けばいいや、それぐらいに思っていた。

「探すといっても…女とは、思うほど型にはまらぬもの」
と、甄姫は、これはまさしく嫣然と笑んで言った。
「すべてが自分好み、など到底無理なこと、妥協、という言葉も忘れないほうがよくてよ」
彼女が言うと、妙に意味深ではある。張コウは
「ですがあなたはここにいらっしゃる。曹家の型はあなたに合った、と?」
甄姫はこれには何も言わず、意味深そうに笑むだけだった。ちなみに場所は、銅雀台を築いた新しい宮城の敷地にある曹丕の宮殿である。
 その格式は、数いる曹操の息子の中でも曹丕を嗣子にと定まる方向になったことが伺えるもので、にもかかわらず張コウが曲がりなりにも太子の妃にもならんと言う女性を一人で訪れることが出来るのは、昔はともに袁家にいたという縁から来るある種の特権ともいえた。
「珍しいこと、あなたがそんな話をするなど。あなたも人並みに継嗣の心配でもはじめたの?」
甄姫がふふ、と目を細める。
「陽に陰の美は常に好奇の対象なのですよ。逆もしかり、ゆえに才人と佳人とは、互いにあい捜し求めあってやまないのです」
難しい言葉にくるまれていたが、内容はかなり露骨である。要は、男と女は全く対極に存在するから探し求め合うのだ、と、張コウがそんなことを言ったとき、庭で軽く声が上がった。
「だあれ、鞠をあんなところまで飛ばしてしまった人は」
「あなたお行きなさいよ」
「まあ、あんなところまで行くの、私にはとてもとても」
庭で侍女たちが鞠で遊んでいて、取れないところにでも引っかかったのだろう
か、何とはなしに張コウが外を見る。
「まあ、にわかにさわがしいこと。我が君がお聞きになったらなんとしましょう」
甄姫がふと眉根を寄せるのに、
「私が見てまいりましょう」
彼はそう言って、その窓から猫が飛び出すように、するっと外に出た。

ちょうど、雨上がりであった。水溜りに散らばった書簡はすっかり水浸しになり、一部は地に落ちた弾みに綴じ糸がはずれでもしたか、ばらばらになってしまっている。そこに、髪飾りの壊れたかけらが散らばり、彼女は飾りが壊れてしまったことより、書簡が水に浸ってしまったことの方が気に掛かるようなそぶりで、鞠を手に立っていた。ほかの侍女達は、それを遠巻きに見るだけで、誰も、鞠を投げてくれるようにも言わないし、取りに行こうというものもない。
 奇妙な沈黙の後、現れた張コウに、甄姫の侍女達は歓声を上げる。
「まあ、張将軍、いらしていたなんて」
「甄姫様は何も仰らなかったのに」
しかし張コウは、そわそわとしている侍女達には、通り一遍に笑顔を見せただけで、まっすぐ、鞠を抱えている彼女に対峙する。よく見れば、彼女に当たったとおぼしき鞠の部分は、少し黒ずんでいた。
「…どうしました? その鞠を返して差し上げなさいな」
と、鞠をもったままの彼女に言う。うつむいているが、頭が随分近く見える。水溜りよけに、何かの上に乗ってでもいるのだろうか。
「…あの」
彼女は、うつむいたまま、
「たぶん、もう、必要がないと思います」
そう言い、壊れた髪飾りと書簡とを拾い上げる。女官衣の裾が水溜りの泥に染みてゆく。何かに乗っているようでもないとすると、この彼女、相当の上背がある。
「どうしよう…」
その彼女が、うつむいたまま言う。
「借りたものを、こんなことにしてしまうなんて…」
「書簡のことですか? 見たところ、裾も由々しい有様ですが」
張コウがその独り言のような言葉に返すと、彼女はびく、と肩を震わせて
「あ、気になさらないでください、油断をしていた私がいけないので…」
「偶然とはいえ、鞠はあなたに当たったのでしょう? なのに彼女たちは、あなたに謝りもなしですか。
 滋味ある言葉がけもできないとは、美しくない」
どこからか、すでに別の鞠を出してきた侍女たちを見て、張コウはため息をつく。
「いいんです」
彼女はうつむいたままだ。
「私はこの宮殿ができたときに配備させられた新参者で…ここの雰囲気にも合わないし…」
「…だからといって、大勢でひとりをないがしろにするというのはいただけないことですね。戦でもしませんよ、そんな卑怯は…
 それより、水でだめになった書簡はどうしましょうか?」
「ああ、そうだった…」
かろうじて水に浸からなかった部分に、張コウにも見覚えのある一節が見える。あれなら、自分が部屋に運び込ませた書簡の中にあったはずだ。
「いずれにせよ、新しく書き写して、借りた方にはお返しをしないといけませんね」
「は、はい…」
顔を一応張コウに向けているが、その顔はうつむいている上に油でしっかりとまとめ結い上げた髪と、覆うように上げられている腕でよくはわからない。よく見れば、女官衣ではあったが、ここにいる甄姫の侍女なら、綿甲いりのものなどつけない。「配備させられた」という本人の言葉のように、ここを警護する兵卒なのだろう。
「ともかく、顔をお挙げなさい。あなたは何もしていないのだから、卑屈になることなどありません」
張コウの言葉に、
「ですが」
彼女は顔をさげた。
「そのままでいると、上げさせますよ」
言葉より手が早い。袖を下げさせ、あごを上げさせた途端、張コウはほんの短い間だが、返す言葉を失った。予想していたものと全く違うものが、そこにあった。
「…」
彼女の目は宝玉のようだった。しかも、玉のような淡さのない、鮮烈な、若葉のような色。
 突然のあしらいに一度だけ、目を見開いた彼女は、次の瞬間には飛びすさるようにまだ雨の名残の残る地面に膝を付いていた。
「申し訳ありません。私には過分のお計らいです。自分で何とかいたします。
 もうこれ以上、私にお声をかけないでくださいませ」
そして、走り去った彼女のいたところには、張コウと、ぬれた書簡、そして壊れた髪飾りだけが残る。
「…面白い」
何が面白いのか、張コウは例の、張り付いたような薄い笑みでそう言うと、彼女が残していったものをすべて、持ち去っていった。

 ともすれば殿を見下ろせる上背と、透き通った若葉のような瞳の色の女、といえば、難なくとその身元を知ることはできた。
「胡青姐のことね、この当たりを見回っている」
と、甄姫が言った。学のある方だと自認していた張コウも、間近に胡人を見たことはなく、つい聞き返してしまう。
「胡人なのですか」
甄姫は少し答えるのが億劫そうな声で
「何でも、二親が西胡人だそうよ…もっと西だったかしら…大秦? 遠いところはよくわからないわ」
と、そう言った。大秦とは現在で言うローマになろうか、とにかく、親がこのあたりのものでないければ、緑の目を持っている十分な理由になる。
「徐晃殿のところで一通り武術を修めて、この辺りの警備を仕事に与えられたらしいわ。
 でも、わたくしも我が君も、義父上のところに参ることが多いでしょう?」
太子の宮殿はそもそも宮城の中に内包されて作られるものだ。すでに外側から警備されているのに改めて内側を、ということは、もしかしたらある種閑職にある、というわけか。徐晃といえば、自分と同格の、魏の重鎮だ。その下で育った将とも言える人物が、宮城一個の警備の任とは、いただけた話ではない。
「その胡青姐は、どこにいるのでしょう。渡したいものがあるので、探しているのですが」
張コウが尋ねると、
「仕事であってもなくても、大体庭にいるという話よ。
 それにしても…」
甄姫は笛の調子を整えながら言った。その言葉の表情は、ややからかい気味にも聞える。育ちのよさは、えてして、そういう揶揄を隠すことがない。
「青姐がよいの、あなたは? 面白い人」
「いえ、婀娜っぽい意図など何もないのです。興味はありますが」
「意図がなくでも興味はあって探しているなんて、ますます面白いこと」
くすくす、という甄姫の笑い声は、なまめいていたが完全に張コウを面白がってもいた。

| 目次
 

-Powered by HTML DWARF-