『…お前の父親と言う男は、あれでいて存外に頭が回るし、…いろいろ知っているはず。何かいい知恵が、きっとあろうさ』
レヴィン様はそうおっしゃったけれど、僕には、あの人にこの話をするのはためらわれた。なぜって、…エルナにあったことを説明したら、村の大人達のような反応を絶対にしないという保証がない。それに…僕は、ナンナみたいに、父親と言う存在には、まだ慣れていない。
 まさか、ティルナノグという小さな村でも武勇伝が聞かれるような、そんな御大層な人が、僕の父親だなんて、レヴィンさまから話を聞いても、僕はにわかには信じられなかった。
 レンスターで、はじめて会った。思っていたより、若かった。僕と同じ青い瞳が驚いていた。
「君が、デルムッドか」
そう言われた。それが僕の名前だったから
「はい」
と返事をして、初対面だったから
「…はじめまして」
と言い、でも、父親だと聞かされたから、
「…父上」
と呼んではみた。
 でも、父は、その時からすでに、何かに追われるように急がしそうだった。一瞬だけだったけど、実は、僕がいたということを、喜んでいないのじゃないかと、思ったりした。なにしろ、僕が生まれた時、父はすでに母のところにいなかった。母は僕を迎えようとして、…いなくなった。
 なにより母には……

 僕は、今はだれにも、このことを話さないことにきめた。
 酒場からの帰り道、夜店で、ちょっとした髪飾りを買った。エルナに似合うかな、と、漠然と考えた。
 帰ってくると、部屋の前でアレス様が立っておられた。
「辛気くさい顔だな、それでも飲んだ顔か?」
「恐れ入ります」
「まあ、まだ飲めるだろ? もうしばらく付き合え」

 「そりゃ、お前に元気がないからに決まってるだろうが」
そのへんにあったマグに、なみなみとワインを注ぎながら、いかにも、という顔でアレス様がおっしゃる。
「レスターから聞いている」
「あのおしゃべり…」
「一人の悩みはみんなの悩み、そういうやつだとラナが言っていた。おまえのほうが長い付き合いだ、わかってるだろうに。
 まあ、そうかりかりするなよ、とにかく」
ぞくぞくと部屋に押し掛けてきたのも、ファバルにアーサー、セティ様(下戸のはずなのに)と言ったお馴染みの面々だった。
 他愛のない会話。僕達の過去と未来の話、剣や魔法の話…でも、アレス様はリーンの、セティ様はティニー話をしなかった。たぶん、アーサーと、…僕にも気兼ねをしているのだと、思う。
 ぼくは、誰かの話にあいづちをうつことしかしなかった。飲めるだけ飲んで、気を失うように寝た。

 明けて、僕の頭と目の前がグルグルとまわっていた。はじめて、二日酔いと言う目にあった。気分が悪い。
「すまんな、無理させたか」
僕の顔を覗き込む、アレス様の顔まで、ぐるぐる回っていた。
 視点の定まらない目のように、頭が、よけいなことを考えはじめる。僕とこの人とに、共通するもの…
「アレス様、僕達にはヘズルの血が流れていますよね」
「ああ。それがどうかしたか」
「その血は、よごれているのでしょうか」
「は?」
「アレス様がはじめ軍にいらした時、そう言う話を聞きました…
 あのときは、ナンナが迷惑をかけました」
「叔父殿と同じことを言うな。俺は気にしてない。あれがあって、俺はリーンにほれ直したんだから」
「アレス様…僕達の血は…いったい」
「汚れているわけがないだろう。お前はその生き証人じゃないか。…わかってないやつらは、それでも、叔母上の身の上にはなにかがあったと勘ぐりたがるだろうがな」
「…」
「デルムッド、一人で抱えるな。もうお前は天涯孤独じゃないんだから」
「…そうですね。
 ただ、気になることが」
「何だ」
「父上は、それについてどう思っているのでしょうか」
「さぁなぁ。 …直接本人に聞いてみるのがスジというものじゃないか?」
最後に、アレス様は首をかしげられた。

 ヘズルの血がけがれた、という出来事と、僕がうまれるまでにいたった事情と、どっちが先なのかは、いくら生き証人といっても、かげも形もなかった僕には分かる由もない。
 アルコールが抜けるまでの愛だ。僕は眠ったものらしい。いや…眠っていたのかいなかったのか。
 とにかく、先遣隊として、ティルナノグを立つ前の晩のことを、思い出していた。

 ナリユキとして、僕はエルナのことを、絶対に忘れてしまいたくなかった。
 村から少し離れた森の番小屋には、夜になれば誰もいなくなることがわかっていたから、エルナを誘った。
 これまでのこと、これからのこと、話がつきた時、僕は、エルナの身体の、なんとなく僕を頼ってくるような重みと暖かさに、自分を抑えられなくなった。
 肩に手を回して、何も言わずに、僕の覚悟を伝えようとした。エルナは、抵抗しなかった。その唇は、乾いていたけど、柔らかかった。
 押し倒したエルナの上を覆うように、手をつく。
「ずっと、きみのこと、忘れないから」
エルナはじっと、目をとじていた。唇とおなじほど、首筋の肌も耳たぶも、柔らかかった。
 服に手をかけると、エルナの肩がふるえた気がした。恥ずかしいのかな、と、思って、手が入るだけ開けた。指をのばす。ききかじりの「作法」が、頭の中で、今のアルコールのように回っている。僕に何の経験のないことを気取られたくなかった。でも、緊張して、目の前は白くなってくるし、指も固くなって、何に触れているのかも分からなかった。
 もう一度、唇をよせようとしたとき、エルナの目から、涙がおちたのを見た。
「…エルナ?」
どきっとして、僕はエルナ顔を見た。エルナの唇が開いた。
「…ごめんなさい…もう…恐いから…」

 エルナはああやって、兵士がどんなにひどいことをしても、ジッと耐えていたのだ。そんなエルナが、それを楽しんでいたとは、僕には思えなかった。
 エルナは、しばらく、僕に顔を背けて、丸くなって、すすり上げていた。落ち着いてから、言う。
「無事に、帰ってきて。帰ってきてくれたら、私…」
大人達の前での、気が強くて口の悪いエルナは、いなかった。僕に乞うように、こう言った。
 起こしたエルナのからだを、僕は服の上から抱き締めていた。エルナは、それには応えてくれた。ゆっくりと、腕が背中を上がってきて、縋ってきた髪の香りで、僕はもう十分だった。

 意識を取り戻すと、頭の上の方で、
「起きたな」
と声がした。べっどからに身を起こすと、そこにいたのはアレス様ではなかった。
「ち、ちちうえ?? …アレス様は?」
「軍議にでておられる。その間、君を頼まれた」
…といっても、父程の人物なら、一緒に出ていて叱るべきなのに。そのことを率直に
「父上はいいのですか?」
と聞くと、
「大丈夫」
とだけ言って(ナンナが言うには、そう言う時に限って無理があるらしい)、水を渡してくれた。
「飲めるか?」
「は、はい」
気分はもう悪くなかったし、身体は以外と乾いていたらしい。僕は、自分でもびっくりするほどのどをならして、一気に飲み干してしまった。
「…このごろおもいつめていたようで、心配はしていたが」
「…すみません」
「いや、逆に力になれないのがもどかしいよ」
「父上には、心配をしてもらいたくなくて」
「何故。息子の身の事ぐらい、心配させてくれ」
父は珍しく感情を出して、ぽんぽん、と、頭を手のひらで叩いた。
「今までなにもしてあげられなかったのだから」
「…」
僕は、父の姿をじっと見ていた。アレス様と話していたことが、気になった。
 ヘズルの血についての例の事情。それが世間に流れて、一番迷惑しているのは、実はこの人のはずだ。夫たるこの人をおいてきぼりにして、絵空事のような背徳のうわさばかりが先走りする。
 何か言ってもしかるべきだ。…それをしないのは…どうしてだろう。
「父上」
「?」
「母上の事を、聞かせて下さい」
父上は、実に複雑な顔をした。ややあって、
「…お生まれは、アグストリアのマディノとお伺いしている。ノディオンにはしばらくしてお入りになったそうだ。それまでお城の外に出られたこともなく」
「…そうじゃなくて」
「…王女と言う御身分でマスターナイトという称号を得られたのは、おそらくあの方が初めてだったと思う。指導を受けられる時は、相手が例え一兵卒であっても、しかるべき態度で望んでおられた…」
「…そうじゃなくて」
父は、変な顔をした。ほかに、話題になりそうなことを探るような顔をした。
「僕が聞きたいのは、そういう母上の事ではなくて…」
そういうことなのだ。そう思っていいなら、父は、守りたい人の「見えない傷」と戦っている。僕とエルナの間の事のように。
「父上しか知らない、ところを」
父上はしばらく考え込んでいた。そして、口を開いた。

「こう申し上げることをお許しいただけるなら…可愛いお方だったよ。私の前では王女の御身分をじつに厭うておられた。私がお名で呼んで差し上げないのを気にもしておられた。
 私と差し向いでおられる間は、実に愛らしく私を頼って下さった。いつまでも、私が初めてお見受けした時の、可憐さをもっておられた。
 部屋に明りが残っていないと、安心してお眠りになれないのだよ、あのお方は。逆に私は真っ暗でないと眠れないから、そのことでたまにご不興を買ってしまったこともある」
実に楽しそうだった。はっきりと、笑いながら話していた。でも僕には、それがやせ我慢にも見えた。
「…レンスターのあたりで、変なうわさを、聞きましたよね」
「ああ」
「どうおもいましたか?」
父上は、一瞬だけ、実に悲しそうな目をした。しかし、口ぶりは堂々としていた。
「…戸惑いはあったが…今はどうということもない」
半分ぐらいは予想しなかった答えだった。
「戸惑いって」
「王女が何処かでその話をお聞きお呼びになったら、さぞや御心痛になられるだろう、と」
「父上」
「ん?」
僕は、どうにも取り繕いようがなくて、自分でもあさましくなるほどハッキリと聞いた。
「母上は、兄上である、アレス様のお父上とそういうことになったのですか?」
「…」
父は、否定も肯定もしなかった。
「君は気にしなくていい。
 それは、私が一生かかって立ち向かわねばならない問題だよ。真偽の程は、私にもわからないのだから」
「わからないって、…わかるでしょう」
「さて、なんのことかな。
 ただ、いえることは、これからも様々に思惑は流れようが、そのすべてにも、私の目をさまさせることはできないということだ」
父は顔をあげて窓の外を見る。その眼差しは、景色ではない何か遠くを見ている感じがした。
「今なお、私の心は、あの方の足下にぬかづいている」
その言葉が重かった。僕は顔を伏せた。僕が思っていたより、この人は事態をしっかりと受け止めている。母上の不義のうわさを憂えているわけではない。むしろ、そのことも、母に感じる魅力の一つなんだ。

 僕は、父に求められるままに、エルナとの間にあったことを全部喋った。もちろん、あの「失敗」の事も。
「なるほど、気高い子なのだね、そのエルナという娘は」
父はそう言った。エルナをそんなふうに言った人は、初めてだ。
「でも、彼女の決心は、ティルナノグのみんなには、わかってもらえませんでした」
「たしかに、にわかには分かるまい。今まで斜に構えた言動があったのだから、なおさらだ。
 しかし私は、エルナを容れることにやぶさかではないよ」
「え」
父は、また僕の頭をぽん、とたたいた。
「一度会ってみたいよ」
僕は、父の言いたいことがわかった気がした。
「はい、いつか会ってもらいます」

 僕は彼女に手紙を書いた。
 今まで彼女に何もしなかったことをわびた。
 エルナと離れている間にあったことを、思い出せるだけ書いた。
 でもあの事には直接ふれなかった、何を書いても、言葉どおりに読んではくれないだろうから。
 『戦いが済んだらまっ先に帰って君に逢いたい』
 僕はこのままでいいんだ。
 君を思いつづけよう。
 気高い君を。
 胸をはって。
 

をはり。

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