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 川でけだるくなった体を、木陰で昼寝しながら温めることしばし。シグルドがぱち、と目を覚ました。
「ずいぶん寝たかな」
太陽の傾きを見る。もう真昼とはいえないが、まるで夕方でもない。一度目覚めたらもう一度眠るのもバカらしく、シグルドは起き上がって体を伸ばす。と、
「ん?」
視線を感じて、屋敷の方を振り向く。しかし、誰もいなかった。変わりにムーナ夫人が庭に出てきて、
「お目覚めですか?」
と声をかけてくる。
「いや、自分の家以上にのんびりしてしまいました、恥ずかしい限りです」
「お家のようにくつろげていただけているなら、私もうれしいですわ」
「ムーナ殿」
「あら、ムーナ殿、なんてよそよそしい。ムーナで結構ですよ」
ムーナ夫人ははくすくすと笑う。シグルドは呼び方のことはまた考えようと思い、
「今、屋敷の中から誰かが見ていたような気がしたのですが…」
と、屋敷のほうを指した。
「あら、では息子かしら。息子が私のところに来て、あなたが起きたと教えてくれたので、伺ったのですが」
「ご子息ですか」
「子息なんて、ご大層なものではありませんけれども…主人と私とが授かった、最高の宝物ですわ」
その言い方には、自慢らしいものは一切ない。夫人は、キュアンやエルトもそっと起こし、
「そろそろ中に…冷たいものが用意してありますの」
と言った。

 残されていた課題は、当然荷物の中に積み込まれていた。しかし、シグルドでも比較的考えやすいボーナス課題だったらしく、友人二人も、その小論文を読んで
「まあ、ここまで書ければ上等か」
といい、シグルドは
「やっとおわったぁ」
と寝台に大の字になった。
「こんな課題もうこりごりだ」
「だったら、俺の板書の写しはアテにするな」
キュアンがそれに角口をする。
「後でお前にどう説明しなおすか、そんなこと考えて板書を写すなんて、俺もこりごりだ」
「困るなぁ、座学の教官の板書は字が悪くて読めないんだ」
そう言うやり取りを、エルトは笑って聞いている。
 エルトの予定進路はマスターナイトだ。当然、同じ道を目指すものは一人もいないから、座学は教官と差し向かいだ。
「楽しそうでいいな、お前ら」
そのうらやましさがつい声になる。
「立ったらお前も、マスターナイトなんて進路とらずに、私達と同じ進路でいればよかったんだ」
とシグルドがいい、キュアンもそれに同意するようなことを言う。
「いや、俺はマスターナイトになろうとしているのを後悔してはいない。あるときが来たらノディオンに戻って、父の補佐をしながら継承を待つのを、私はいやだと思っただけだ」
「しかし、マスターナイトは、一生修養していても推薦されないことだってあるんだぞ?」
「それでもいい。何か、厳しいもので縛っておかないと、俺は何だかだめになりそうな、そんな予感がするんだ」
「…変な奴」
「単細胞のお前に、すぐにわかってもらおうだなんて思ってない」
単細胞と、いつか自分で言ったことをタナに上げて、シグルドは「単細胞はないだろう」と角口をする。キュアンが、そのエルトをみて
「…ノディオンを避けているようにしか見えないのだが、何かあるのか?」
キュアンが至極真面目に言った。
「聞きたいか?」
「いや。どうせお前は何もしゃべらない」
「良くわかってるじゃないか」
エルトは言いながら、自分の寝台に横になる。
「お前ら、明日はどこ行く?」
「そうだなぁ、行きたいところはあらかた行ったし…」
シグルドが、半分眠りながら言った。
「町の向こうに、森があったな、涼しそうな。そこがいいな」
「じゃあ、英気を養うか。
 お前らも、はしゃいでないで寝ろよ」
エルトは言って、もう一度二人が話しかけようと思ったら、もう彼は眠っていた。

 「あの森に行かれるのですか」
側近クールは、三人の話に難しい顔をした。
「キュアン様、あの森は、余り深く入ってはいけませんよ、お分かりですよね」
「メルフィーユの森につながってるんだろう?
 大丈夫、そんなに深く入るつもりはない」
キュアンが馬の様子を見ながら言う。ほかの二人はそれぞれ馬を持ってきていたが、キュアンはよんどころなくして、レンスター城にいる愛馬をつかえず、クールの馬を借りることになっていた。
「お気をつけて」
夫婦と、館の使用人たちが見送る中、三人は、森に向かって馬を進めた。
「…ん?」
しかしシグルドは、その光景に、一抹の違和感を感じる。ムーナ夫人は、確か息子がいると言っていた。しかし、気配はあっても、一度もその姿を見たことがなかった。あの見送りの中にも、いなかった。

 「そのことか」
森に入ってから、シグルドが思っていたことを言うと、キュアンが答えた。
「母上の手紙からでしか知らないからどこまで本当かわからないけど、少し人見知りをするらしい」
「ああ、それで私達の前に姿を見せない、と」
「だから母上は、それを治すためにも王宮仕えをとすすめているらしいけどね…」
「人見知りをするのは、人を見る目が早くから備わっていると言うことだから、意外と大成するかも知れないな」
エルトがしんがりを来ながら言う。
「クールに言ったら喜ぶと思うぞ、今のは」
キュアンが言う。そして今度はエルトが尋ねた。
「メルフィーユの森って、何だ?」
「…ああ…
 メルフィーユは、巷では『迷いの森』と呼ばれている。魔力を帯びた森なんだ。
 旅なれた商人でも、迷うとなかなか出られないらしい。
 俺は、この町に来たときはいつも、森には行くなといわれてきた」
「どこにあるんだ?」
「さて。
 この森がつながっているのは確かだが」
そんなことを言いながら、馬を進ませる。
 そこそこの深度まできていた。
「ずいぶん木が込み合っているな…」
「迷いの森につながっているから、木こりもなかなか入ってこないからな…」
「しかし、一本一本は見事だな」
そのとき、三人の足元を、何かがざざっと走った。天敵に終われた小動物の類かもしれない。驚いた馬が悲鳴に似た声をあげ、前足を宙に上げる。
「うわっ」
振り落とされることはなかった。しかし、三人の乗った馬は、恐慌状態を引き起こし、それぞれ乗り手を乗せたまま、森の奥へと入っていこうとしていた。

 「グラム、落ち着けグラム!」
シグルドは、馬の名を呼びながら手綱を引き、馬を沈めようとする。森はいよいよ深く、手入れをされていないその木立は、梢と梢がひしめくように密になり、昼間のはずなのに、まるで夕方のように暗かった。
 どれだけ走っただろう。小さな木の間から入る日の光からして、そうたいした時間でないことはわかる。しかし、ここはどこだ? やっと馬は止まり、シグルドはその馬から下りる。泡を吹き、まだ興奮冷めやらぬ馬を
「大丈夫だグラム、もう怖くないから」
と、首を叩いてなだめる。馬が落ち着くのを待って再び乗り、
「真っ直ぐに、奥まで走ってきたなら、逆を走ればいいのだが…」
馬を回頭させ、歩こうとしたとき、その視界がゆがんだ。
「…え?」

 一方。
 恐慌状態に陥り、真っ先に走り出したのが、エルトの馬だった。
「フルンティング!」
やはり馬の名を呼びとめようとするが、止まらない。振り落とされないように手綱を握ることしかできなかったエルトの目の前が、急にゆがむ。
「うわっ」
一瞬の混沌の中、再び姿を現した森は、昼なお暗い。その混沌の中から振り落とされでもしたのか、馬ごと地面にのめった。
 何とか馬を立たせる。
「怪我はないか、フルンティング?」
立太子の記念に贈られた馬だ、まだ完全に慣れていないのも仕方ない。しかし、馬の四肢は幸いにも怪我はなく、歩く分には問題なさそうだ。
 しかし、今の不自然な違和感の後、まったく風景の違う場所に落とされた。もしかしなくても、キュアンの言っていた「迷いの森」に足を入れてしまったかもしれない。
 自分の場所をどうやって知らせようか。馬をそばの枝につなぎとめようとして。
「くっ」
片方の手首に違和感どころではない痛みを感じた。混沌から振り落とされたときに必要以上の負荷がかかったのだろう。土を払うと、手首は心なしか赤く、はれてもみえた。
「しかたない…」
骨をやったとすればコトだ。あの町に戻ることは無理でも、集落のひとつもあるだろうか。治療を受けないと、剣がもてなくなるかもしれない。それは自分にとって、夢をあきらめるのと同じことだった。

 一番幸運だったのがキュアンだったかもしれない。キュアンの馬は、まったくほかの馬と反対方角に走っていた。何とかなだめて、見めぐらすと、木立の間から町が見えた。
 一人で帰るのは簡単だ。しかし、探しもせず帰ることは、最悪友人二人を捨ててゆくことになる。
「シグルド! エルト!」
友人の名を呼んでみた。しかし、森の木立が声をすべて飲み込んで、返答はない。
「もう少し、奥に行くか…」
キュアンは手綱をさばき、森のほうへと馬を進めていった。

 「クール」
アレンの町、領主の館で、ムーナは一人探しものをしていた。執務室に顔を出し、
「ねぇクール、あの子を見て?」
と尋ねる。
「いや、ここには来ていないと思うが」
「危ないから、一人でお屋敷から出ちゃだめといって、あの子はちゃんとそれを守っていたのに…」
ムーナが呟いて、は、と顔を上げた。
「…大変、クール」
「どうした?」
「メルフィーユの森から魔力を感じたわ」
「何?」
クールの青い目が、暗い輝きを一瞬宿した。
「もしかしたら、キュアン様たち…迷われたかも!」
「それはいかん!」

 目の前がゆがみ、まったく違う風景が現れる。一体何度その経験をしたろうか。シグルドにわかることは、太陽の角度が、だんだん真昼に近づいていることだけだ。
「エルト! キュアン!」
何度も呼んだが、返事はない。そのまま進んだら、またどこかにとばされるだろうか。もう少しがんばろうかとも考えた、しかし、腹時計が正直に昼時を告げてきて、
「仕方ない、腹ごしらえだ」
シグルドは鞍袋から、麻に持たされた携行食を取り出した。


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