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 手首の腫れがひどい。指を動かすにも、痛みをこらえるために息を詰める必要がある。
 エルトも、携行食をつまみながら、どう行こうか考えていた。
 彼も、シグルドと同様に、何度も視界がゆがみ、迷わされていた。しかし、そのうち、その木立の様子に見慣れた感じが出てきて、もしかしたら、迷わせる場所はある特定の場所で、それがある特定の場所に一方的につながっているのではないかと考え始めていた。
「これをうまく使えば、あるいは外に出られるか」
 食事を終えて、手首を冷やしていた水袋から水を一口含み、この手首で馬に乗るのは難儀だな、そう考えていたとき、ぶん、と音がして、小さな子供が一人、今までエルトが座っていた場所に現れた。

 シグルドが、何度目か、視界を乱されてぐらぐらしていたとき、
「シグルド!」
と声が聞こえた。
「…キュアンか!」
やがて、馬の足音が近づいて、何時間かぶりに人間の顔を見た。
「よかった。シグルドが見つかった」
「お前は迷わなかったのか」
「なんとかね…
 道々、印をつけてきた」
キュアンは、端がぼろぼろになった夏物の外套を見せ、
「たどれば帰れる」
という。
「しかし、エルトがまだ」
シグルドが言うと、キュアンはかぶりを振った。
「迷いの森を甘く見ていた。ここは一度屋敷に戻る」
「エルトを見捨てるのか?」
「そうじゃない」
シグルドのいいとがめる声に、キュアンは
「ムーナの力を借りる。彼女は、レンスターでも指折りの、セイジだった女性だ。迷いの森の魔力の発動を、もう感じているはず」
そう呟くように言い、
「これ以上は、俺たち二人じゃ無理だ」
シグルドの馬の、余っている手綱を握り、道々つけてきたという印をたどり始めた。

 森に行く自分たちが楽しそうで、後を追いかけていたら、迷ったと、その子供はいう。
 自分ひとりをもてあましている状態で、この上荷物が増えたか。エルトはふと苦笑いをした。
 この子供が、シグルドが気配がいるが姿を見ないといった、クール卿の子であることは確信していた。なんとなれば、その子供の目も、クール卿と同じ、群青にも似た碧眼だったからだ。
「迷いの森の周りに、君がいる町以外の町はあるのか?」
と尋ねると、子供はかぶりをふる。万事休す。頬杖をつこうとして、
「痛!」
エルトは手首を押さえた。
「だいぶあせっているようだ、まさか怪我しているほうの手でやろうとは」
笑い声が漏れるが、それは完全に自嘲の笑いだった。すると、子供が、肩に下げていた袋を探り、何を差し出した。
「きずぐすり」
それだけ言う。
「傷薬…しかし、これは出血のない怪我にきくのか?」
渡された薬をまじまじとみて、エルトはぴん、ひらめくものを感じる。馬具に吊り下げていた剣を抜き、はれた手首にさっと一本傷を作った。その上で傷薬を使うと、やはり、傷も何も跡形もなく消え、痛みもなくなる。確認するように手首を握り開きして、
「これでよし」
エルトは、一度血振りして、剣を元に収める。そして、傷薬の入れ物を子供に返す。
「馬に乗れるか?」
そう尋ねると、
「ちちうえといっしょにのった」
と子供は返す。エルトは子供を先に馬に乗せ上げ、その後に乗る。
「帰り道を探そう」

 屋敷に戻り、事情をあらかた打ち明けると
「ああ、やっぱり」
と、ムーナ夫人が顔を抑える。会議室には、町を運営しているクールの一族と、シグルド、そしてキュアンがいて、面々の真ん中には地図が広げられている。森を示す緑の模様の一角が、白く抜け落ちていて、「迷いの森メルフィーユ」とだけ書いてある。
「俺が印をつけてきたのは」
キュアンがその地図を指差し、帰り道をなぞる。
「大体こんなものだったかと思う」
「メルフィーユの森には、一箇所だけ、この町の裏手に出られる道に通じる入り口のようなものがあります」
ムーナ夫人が首から何かを取り外した。
「うまく見つかればいいのですが」
「ムーナ、無理はするな」
クール卿がいかにも心配そうに言う。
「いえ、未来のご神器を預かる方と、私達の子供と、二人迷っているのです。手は抜けません」
ムーナ夫人はそういいきって、首飾りについている宝石を、そのメルフィーユの森の上にかざした。
「何だ?」
「地図を本物の森に見立てて、迷った人を探しているのです」
クール卿が言う。しかし、その表情は暗い。
「魔力を使うので、行うものは激しく疲労します。本当は彼女にはさせたくないのですが…」
そう言う話を聞こうともせずに、ムーナ夫人は、じっと、地図の上に宝石をかざし続けている。おそらく、エルトの迷っている道をたどっているに違いない、手が地図の上でふらふらと動く。
「あ、また遠ざかってしまわれて…」
「エルトの悪い癖が始まったな」
「癖?」
「一度これだと決めた型にはまると、抜けられない。考えの切り替えという考えになかなか思い至らないんだ」
「とすると?」
「自分がそう考えた方法にこだわってしまって、たとえ近くに解決方法…この場合は出口への罠だな…それがあっても、目に入らないんだ」
「ムーナ、これ以上は体に悪い、誰かに代わってもらわないと」
クール卿は、いかにも疲労し始めた妻の体を案じているようだった。
「いけません、ここであきらめては」
ムーナ夫人が、ちゃりっと首飾りを引いた。それを付け直し、顔を上げる。そのまま後ろへ倒れこもうとするのをクール卿がささえる。
「キュアン様」
「何」
「道しるべをつけたところまで、私を連れて行ってください」

 ムーナ夫人は、クール卿の馬に乗り合わせ、シグルドとキュアンと一緒に、道しるべをたどってゆく。
「ここが最後だ。ここでシグルドを見つけて、戻ってきた」
「わかりました」
ムーナ夫人が馬を下りて、夏の日の傾き始めて、一層暗くなった森に向かって手をかざす。
「ムーナ、余り魔力を使うな」
「平気です。メルフィーユは魔力ある森、私を助けてくれます」
ムーナ夫人は一身に何かを念じている。ややあって、
「キュアン様、シグルド様」
と、彼らを振り向いた。
「私に力をお貸しくださいませ。ご神器の呼び合う力で、エルト様をここまで導いて差し上げてください」
「何だか良くわからないが…」
「やるしかないだろう」
二人も下馬して、その方向を見やった。
 ざあっと、風が、迷いの森のほうに流れ込んでゆく。

 同じ風景を何度も繰り返しているような気がしてならない。右に向かえば右のわなにかかり、左に向かえば左のわなにかかる。木の間の日差しが、きた時とは逆を指し始めて、半日ぐらいは、迷っていることになろうか。馬が疲れ始めていた。
「何故、森の端にもたどり着けない?」
すっかり見慣れた怪しい森の風景に、エルトは憤慨じみた声を上げた。前に乗せている子供は、風景が変わるたびに左右や、時には後ろも見やり、何かを探しているようだ。
「なにかあるのか?」
エルトが尋ねると、
「でぐちのいりぐち」
子供はそう言った。が、二人はほぼ同時に顔を上げた。風が吹き付けてくるその向こうがわに、見慣れた影がある気がした。
 罠がなければいいが。エルトは手綱を握りなおした。
「掴まれ、駆けるぞ」
の言葉に、子供はこくりとうなずく。エルトは、手綱をばしっ、と裁いた。
「フルンティング、走れ!」

 まるで、森が幻影のようにゆがんだ。そのゆがみの中から、エルトの馬がざっと飛び出してきて、馬は数歩駆けた後、乗り手の強力な制動でとまった。そのあと、ゆっくり歩いてくる。
「エルト!」
下馬したエルトに、シグルドとキュアンはほぼ同時に飛び込んでゆく。
「よかった、無事で」
と半分涙声の二人に、
「お前達が呼びかけてくれなかったら、まだ迷ってた。
 ありがとう」
エルトは感慨深く言う。乗り合わせていた子供も、自力で下馬して、無事両親の元に戻ったようだった。

残ったレンスターでの数日を、三人はクール卿の子と一緒にすごすことになる。面識のあるキュアンに一番なついたのはうなずけるが、二番目になついたのがエルトだったのは、不思議な話だ。
「申し訳ありません、息子がご友人をとってしまったようで」
と、ムーナ夫人が言う。ひとりかやの外に出されたシグルドは、
「キュアンはともかくとして、エルトはあの迷いの森で何時間も運命をともにしていたのですから、仕方ないですよ」
といった。
「もう、帰られるのですね、お名残惜しいこと」
「多分来年は私ではなく、私の妹が来ると思います、キュアンについて」
シグルドが言うと、
「まあ、では、キュアンさまがグランベルで見つけられた方の」
「不肖の兄です」
シグルドはそれがまったくへりくだった表現でないことに苦笑いをしつつ言った。
「彼女からなら、私のほかの失敗談もいろいろ聞くことができると思いますよ」
「まあ、失敗談だなんて」
ムーナ夫人はくす、と笑って、真っ白な日差しのなか、笑顔で遊びまわっている息子を、まぶしそうに見ていた。
「きっと、ご縁なのかもしれませんね」
「縁?」
「あの子があなた方を追って入って、一緒にメルフィーユの森で迷ったのは」
そのしみじみとした言い口は、まんざら当て推量で言っているようでもなかった。
「ムーナさん、何かお告げでもありましたか、将来私達がもう一度彼に会うとか」
シグルドが混ぜ返すとでもなく言うが、ムーナ夫人は
「それは、あの子が成長してからのお楽しみですわ」
といった。
「でもおそらくあの子は、この夏あったこの出来事を、忘れてしまいましょう。そんな気がしてならないのです」

 心なしか、日に焼けた顔で三人が帰ってくると、シアルフィの公爵邸では、バイロンではなく、エスリンが出迎えた。
「あれ、父上は」
とシグルドが言うと、
「お父様は暑気あたりで横になってます」
という。やはりまだ元気といっても、寄る年波はひしひしと迫りつつあるのか。
「お兄様がお帰りになったら、こう言うように、とのことです。お父様は声を出すのもおつらい様子で」
「父上が何を?」
「今度士官学校に戻ったら、その辺の娘でもかまわないからきっと誰か見つけて来い、そう簡単に運命などころがっておるものか、と」
後ろで、キュアンとエルトがほぼ同時にふいた。
「まだ父上はそんなことをお考えなのか」
シグルドはげんなりとした声を出した。

 士官学校の新しい季節は、もうすぐそこまで来ている。


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