一年ほどは、そのままであったろうか。町は、穏やかではあるが、クールのいなくなった町はどこを見てもむなしい。去年のそのころになくなったクールをしのんで、今年の収穫祭は、豊穣を感謝する祈りの日となった。
クールの木は、その丘の上で、しっかりと根付き始めていた。まだ、育つことに賢明なのだろう、木の実を落としている様子はない。
「フィンが、王宮にあがりました」
ムーナが、その木にむかって、そっと呟いた。
「あなたのことは、バーハラのキュアン様も大変悲しまれて… 去年の夏に会った、あれが最後になるとは思わなかったと、とてもあなたを悼んでおられるようです。
そのかわり、ご帰還の暁にはフィンを預かり、自らのお手で騎士に取り立ててくださるとか。
もったいない話ですわ」
言いながら、ムーナはぽつりと、木の葉の一枚の上に涙を落としていた。
その丘の上り口のところで、かっ、と馬の止まる音がした。
「おや、ムーナじゃないか」
「…エド」
槍を手挟んでいるのは、どこか闘技場へ行くところなのか、帰るところなのか。
「一年か」
存外に、エドは腹蔵のない顔をして、ムーナのそばにやってくる。
「喧嘩相手でもいなくなりゃさびしいというが、あんたの場合はなおさらだろうな」
「…」
エドの生きている片目が、ムーナを何かいいたそうに見下ろしていた。
「俺も、いきなり担ぎ上げられて迷惑してるのさ」
「そうかしら、領主になれば、町のすべてはあなたの決定ひとつよ」
「俺は今のこの町で十分住み心地がいいからな、俺の自由にしたいなんて思わない」
「…」
「…八方丸く収まる方法が、ないわけでもないぜ」
エドが、丘を降りながら言った。
「え?」
その後を追いながら、ムーナが意外そうな声を上げる。
「あんたが、次のアレン伯を指名する。
それが方法だ」
「…そんなことですか」
しかしムーナは、
「それは、もっと先の話です。フィンはまだ王宮に上がったばかり、伯という爵位の重みはわかりません」
「重みのわかる奴を指名するんだ。
あんたが、後添えとして従った男が、自動的にアレン伯になる」
「エド…もしかして…」
「俺を指名しな、さびしい思いだけはさせないぜ」
はっはっはっ エドは、また馬に乗りなおし、道を、町の方に向かっていった。
教会に、ムーナの姿があった。
聖印の前にひざまずき、涙でぬれる左手の薬指に、何度も唇を当てる。過ぎた春の、花咲き乱れる中、この教会の聖印の前で、クールと永遠の誓いをした。
昨日のように思い出されるその記憶が、エドに踏みにじられようとしている。
どんな理不尽なコトを望まれようとも、ここに居場所を得られる限り、応じようとは思っていた。
しかし、ムーナに突きつけられた選択は、それならばいっそ、一族をすべて取り込んでアレンから放り出されることに頷けといわれたほうが、ムーナには楽なものだった。
それでもムーナは、王宮に向かうことは止めなかった。王宮仕えの小姓として働き始めたフィンは、母の面会と聞いて、飛ぶようにやってくる。
「どうですフィン、王宮は楽しいですか?」
ムーナが尋ねると、フィンはこく、と頷いて、
「王妃様がお優しくしてくださるので、辛いことはないです」
と言った。
「母上は、またマージの教練ですか」
「ええ。一人のマージを育て送り出すことは、一人の騎士を育て送り出すのとおなじ心血が注がれるのですからね」
「お気をつけてください。教練の後の休憩は、絶対、忘れないでください」
「はいはい。立派なことを言うようになったこと」
ムーナは目を細めて、クールと同じ深い青の瞳で、じっと自分を見上げる息子の頬に、つと唇を寄せた。
ムーナの、教練の後の休憩は少しずつ長くなり、その眠りも深くなっていった。昏睡、と言ってもいいかもしれない。呼吸をしているのを確認しなければ、まるで死んだように眠っているからだ。
しかし、目覚めたムーナには、まったく死の影などなく、むしろ、生き生きとして、魔法に弱い竜のため、ランスリッターを後方から支援するマージ部隊の育成に余念がなかった。
もしクールがいれば、ムーナにもう魔法を使わせることはなかっただろう。魔法も杖も、使いさえしなければ、どれだけ残されているか知らないが、残ったムーナの命は、穏やかに尽きていくのに。
文字通り、命を削るムーナの姿は、彼女の魔力の変調をしているものにとっては、まさに自殺行為にしか思えなかったのである。
エドが、
「考えは決まったか?」
と、領主の館にやってきて言った。ムーナがかぶりを振る。
「私にはクールしかいません。
ここに迎えてくれたのがクールだからこそ、私はそれに報いたいと思うし、彼との間に授かったからこそ、フィンもいとしいのです。
エド、あなたは、アレン伯の地位が欲しいだけなのでしょう?
去る年の武勇伝と、あなたの失った片目。それがあれば、伯の地位などたやすく手に入るでしょう。
身を引く用意はいつでもできています」
「居場所があるのかよ」
「妹のリーナが、私と同じように、アレンに嫁いでいます。彼女を頼ります」
「面白くねぇな」
エドは、心底からそう思うような声で言った。
「あんたが一緒じゃないと、この執務室でふんぞり返っても、何の楽しみもないじゃないか」
「ごめんなさいエド、その言葉だけには、答えられません。
それ以外なら、あなたの自由にしてください。でも私は…」
ムーナはその場所にいたたまれず、執務室をた、と走り出ていた。
そんなときであった。ムーナがセイジとして得意にしてきた光魔法について、オーラの使用許可が下りた。
ライトニングから先の光魔法の使用許可を得るには、人に教えるだけではなく、自分でも修養をつむ必要がある。その修養で、ムーナの魔力は相当使われていたが、それは、ムーナだけが知ることである。
オーラの使用許可がおりたムーナは、軍の魔法部隊の中でも、ますます重く扱われるようになり、それなりの軍職を、という声もあった。しかし、ムーナはかぶりをふり、有事の時にランスリッターを後方から支えるただのマージの一人でよいと言った。
「…うえ、母上」
かわいらしい声がして、は、とムーナの目が覚める。王宮の、自分の控え室だった。見知ったマージやプリーストの顔に混ざって、フィンの顔があって、みな一様に安堵していた。
「どうしたの、みんな、そんな変な顔をして」
そうムーナが言うと、
「母上は、三日もここで眠っておられたのです」
フィンはそう言った。
「三日も?」
「マージの教練の後はいつもそうやって休むけど、こんなに長く眠っていたのは初めてで…どうしたのかと思ったわ」
と、顔見知りのセイジが言う。いつか、ムーナの魔力の変調を指摘し、魔法を使ってはいけないと、忠告してくれた彼女だった。
「ムーナ、もう無理よ。あなたが実技を教えるのは」
全員をさらせて、差し向かいになり、ムーナはまずそういわれた。
「お願いだから、座学に回って。このままあなたが壊れていくのを、見ていられない。
息子さんだって、あなたの魔法が命を縮めていることを知ったら…」
ムーナは、小さくかぶりをふった。
「ムーナ、あなたがいなくなるのは、軍のマージ10人が丸ごといなくなっても、まだ追いつかないほどの損失なのよ」
「…」
「クール様の所に、いきたいの?」
そう問われて、ムーナはあいまいな笑顔をした。
自分は、クールのところに行きたいのかも知れない。
ムーナは、帰り道、漠然とそんなことを思った。預けられたオーラの書の、箔押しの表紙を撫でつつ。
自分も、あの丘に立つ樹になって、クールと、町の行く末をただ、みていたい。
自分だけで、それを実行するのは、簡単だ、魔法を使い続ければ、魔力に変換されつくした命は、彼女を天に送るだろう。
でもそれには、心残りが多すぎて。
ムーナはふう、とため息をついて、乗った馬車がアレンの町の方角に曲がるのを、なんとなく体で感じていた。
領主館の入り口に、エドがいた。
「そろそろ、いい答えをもらいたいな」
そういわれて、思わず後ずさる。
「なんとなく、一族の奴らにその話をしたら、思いのほかみんな乗り気でな」
「何ですって」
「それで八方丸く収まるなら、ぜひその方向で、と来たもんだ」
「…」
「何もひどいことしようってんじゃないんだ。よほど思うところがあるんなら、手伝うってだけじゃないか」
そのエドの言葉には返さず、ムーナは小走りで中に入っていった
「神様」
と、ムーナが聖印を切る。
「私には、後どれだけの魔力と、命が残っていましょうか。
その命の間、クールとの誓いが忘れられないまま、ほかの人を受け入れることは、きっと罪になりましょうね。
夕方の執務室には、明かりのないままに傾いた日が入って、丘にある樹が、風に震えている。
ムーナが帰るのを待っていたように、一族の者がぞろぞろとムーナの元にやってきて、しきりにエドとの話を進めようとする。
「季節はやはり春がよろしゅうございますね」
「婚礼のお衣装は新調いたしましょう」
そんな声が聞こえるのを、ムーナはうつろな目ですべて流して、
「皆さんがこれがよいと思った様にお願いします。
それと、この話は、王宮のフィンに伝えることは絶対にしないでください」
と、それだけ言った。
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