王宮にあるクールの控え室に、彼は土を払わされて、おいてある簡単な寝台に寝かせられていた。
「クール!」
王宮に上がる服ではない、いわば平服で中に飛び込んできたムーナは、たらりとその寝台から落ちたクールの手を拾い上げ、まだ土の残っている手に、自分の頬に当てた。
「クール…クール、ムーナです。目を開けて…」
しかし、目が覚めれば、いつも傍らにあるムーナを、優しく見返してくれる深い青の瞳は、ムーナに対して開かない。
「ムーナ様」
と、軍の中で見知ったプリーストが、とてもいいにくそうに言う。
「背中から落ちられたと思っていたのですが、一番強く打ったのは肩と首のようで…その…」
「だから何!」
きっ、とムーナに見返されたプリーストたちは、それぞれ小さくなり、お互いの目を見交わす。やっと、その一人が
「首と背骨が折れています。私達のライブが出る幕はございませんでした。
クール卿は…もう…」
「…うそ…」
ムーナは、動かないクールの手を、ぎゅっと握り締める
「クール、何かのお芝居ではないの? 私をからかっておいでなの?
…クール!」
クールの手を額に押し当てて、ムーナはこれが女性の口から出るかと思うほどの、低い慟哭を発した。クールの手に残っていた土が、ムーナの涙で緩んで、彼女の白い頬に黒い跡を残した。
アレンの町の教会では、鎮魂の鐘が、低くいつまでも響いていた。
喪のドレスに、黒いベールを、顔が隠れるまでかぶり、鎮魂の儀式のあとは、町を見下ろせる丘に、その棺が埋められ、墓標の代わりに樹が一本植えられた。アレンの屋敷から、その丘が良く見えるのだった。
会議室に、一族が集まる。ムーナにとあることを尋ねられた、王宮づとめの一人は、
「聞いたところ、坊ちゃまを正式な継嗣とする旨の届出は、何もなかった、とのことです」
という。忘れていたのではない、王宮にいる間にと思って、後回しにされていたのだろう。
「継嗣を指名する届出がないとすれば」
と、一族の中で声がする
「このアレンの町は、いずれか、選ばれた長老が管理をするのが妥当だと思われます」
「それは、フィンを跡継ぎとして認めないと、そう言うことですか」
「違います奥様、今は奥様がアレンのご領主も同じ、ですが、実質の町の運営は、われわれにお任せいただくことになります」
「…ですが」
一族の中で、違う声があがる。
「坊ちゃまはご年少、まだ領主とさせるにはいささか尚早に思われます」
「そのことは、私が王宮に計らい、何とかいたします。
ただ、フィンが将来この町の領主となり、クールが持っていたすべてを受け継ぐことに、皆さんの了解をいただきたいのです」
一族の者は、ムーナの人柄をわかっていた。夫を亡くしたといっても、アレン伯夫人であることは代わりがない。最終的な決定権は彼女にある。
「どうぞ奥様の仰せのままに」
一族は、ムーナに向かって頭をたれた。しかしムーナは、その面々の中に、かねてから心配に思っていたひとつのひずみがないことに気が付く。この場所に欠席をすることは、すなわち、ムーナの考えに反対だということだ。
エドという男がいる。もっとも、アレンの町を出たら、「片目のエド」といったほうが通りがいいかもしれない。
この男も、アレンの町の一族だった。嫡流に当たるクールからすれば大分遠縁になるが、同年代ということも有り、ともに王宮に出仕し、騎士としてお互いを切磋琢磨していた。
しかし、ある年のトラキア襲撃が、二人のそれからに、埋めがたい溝を引いた。
器量を見込まれて、二人は、小さい部隊の指揮を執るようになっていた。その部隊を指揮して前線に出たとき、トラキアの竜騎士部隊と衝突した。
生還せよ。レンスターの誇りのために。二つの若い小隊は、天から降り落ちるような槍と、竜の牙と爪とを相手に、果敢に戦う。
しかし。
ほぼその竜騎士部隊を壊滅させたと思った刹那、竜の爪がエドの頭に食い込んだのだ。
それ以外の人的被害はまったくなく、軍はエドの勲功をたたえたが、エドはその勲功と引き換えに、片目を失った。
今エドは、今は取り急ぎ呼び立てるほどではない予備軍人として軍に在籍しているが、本人は軍から距離を置きがちである。マンスター四王国の城下町にある闘技場で日銭を稼いでは、何をするでもなく、すごしていた。
エドは、きっとクールや私を許してはいないのだ。彼のうわさを聞くたびに、ムーナはそう、胸を痛める。エドの負傷を回復させたのはムーナである。しかし、竜の爪によって、跡形もなく壊された、彼の片目を、戻すことはできなかった。
エドがよく来るという酒場で待ち伏せをすること何日か、やっと顔を見せたエドに、ムーナが言った。
「もうご存知でしょうが…クールが逝きました」
「ああ、知ってるよ。らしくもない。あんな単純な事故で」
「…彼は、継嗣に関する届出を、まったくしていませんでした。アレン伯の地位は今は空白です」
「なんだ、俺にその伯になれっていう相談か」
「違います。
一族の方は、フィンをのちのちの領主とする方向で、今は一族の相談ですべての運営をして欲しいという私の願いを受け入れてくださいました。
ですがエド、あなたの答えをまだ聞いていません」
「…はっはっは」
エドは、ムーナの言葉を聴いて、しばらくした後、そう笑った。
「俺が素直にはいそうですかというと思っていたのかあんた」
「思いません。あなたのことですから、きっと、何か意見を持っていると思いました。それを聞くのが今の私の勤めです。
私の考えが容れられないというなら、あなたは何を持って対案とされますか?」
「さあね」
エドはそれについては何も語らなかった。
「俺にはもう、そんなことを語る資格もない落伍者だ。それとも、勲章で目が戻るとでも、いうのかい?」
ムーナは何も言うことができなかった。エドは、また笑いながら、飲み代をそのテーブルにおいて、ふらりと酒場を出て行った。
エドの意思を確認したのは、ある意味失敗だったのかも知れない。
エドの過去の功績に目をつけた一族の一部が、エドを擁立して造反した。
「奥様、まさかこんなことになろうとは…」
「いえ、最初からこうならなかったのが不思議な話です。
子供を、仮とはいえ領主を仰ぐことを是としないこの一族の見えないしきたりを、知らなかったのは私のほうです」
「では奥様、そのままエドに何もかもお渡しになりますか」
「そんなことはしません」
ムーナはかぶりを振る。ムーナが今頼りにできるのは、王宮にいる王妃アルフィオナだけだった。
父の執務室から持ってきたのだろう、何かの本を部屋で読んでいたフィンを執務室に呼び出し、ムーナは王宮に上がるよう言った。
「名のある騎士につき、騎士への道を進む前には、必ず王宮に上がり、王宮での作法を身につけないといけません。
そのためには、あなたにはこれから、王宮暮らしをしてもらいます」
突然のことで、フィンの顔は、わずかだが、複雑で、不安そうな顔をした。ムーナはそれに目を細めて、
「お父様も、あなたほどの頃に王宮に上がり、騎士となる勉強を始めたのですよ。怖がることはありません。
王妃様が、あなたをお預かりくださいます」
と言い、荷物をまとめさせ、王宮に伴っていった。
ムーナが目通りを許されると、アルフィオナは
「やっと決心をしてくれたのですねムーナ」
と、王妃然とした微笑をした。
「待ち望んでいましたよ。あなたが宝物とまで言うあの子を私の手でいつ預かれるのか」
「もったいない仰せです」
ムーナは、ひとつ深々と礼をした。そして、
「王妃様、実は…」
と、アレンの町でくすぶり始めた火種について話した。
「片目のエド…話には聞いていますよ。去る年のトラキア襲撃に、自分を犠牲にして小隊を全員帰還させたと。デュークナイトへの推挙もあったようですが、断ったそうですね。
彼は今?」
そう確認するアルフィオナに、ムーナは見知る限りの彼の現在を説明し、
「その彼が今、一族の領袖として擁立されようとしています」
「難しい話ですね」
アルフィオナは眉根を寄せた。
「ふさわしいものが統率を取るというしきたりは、あなたの街に限らず、建国以来封土を持つ小領主の一族では珍しくないことです。
エドに、その器量はあると思いますか」
そうして尋ねるのに、ムーナはかぶりを振った。
「町の利権をほしいままにするのか、あるいは一族の意思を程よく取捨選択をして穏便な運営をするか、その点については、私はエドの実力を図りかねています。
ただわかるのは、彼が領主になることは、私の望んでいる結果ではないこと、それだけです」
「つまりあなたは、あくまでも、アレン伯の子と周知はされているフィンを将来アレン伯に、と」
「それが可能ならと思っています」
「でも、そのような係争は、あの子の肩にはまだ重いでしょう」
アルフィオナはふと唇を緩めた。
「私は、公にあなたを味方できませんが、王宮の行儀見習いとして、フィンを預かることはいたしましょう。
よろしい? ムーナ」
「ありがとう、ございます」
ムーナはまた、深々と膝を折った。
フィンを王宮に預けたことで、ムーナは目的は半ば達成したと思った。
ほかでもない、アレンにおいたままでは彼の命に危害が及ぶことも最悪考えられるからである。
そして、ムーナの行動は、エドを擁立しているものたちにとっては、王宮を盾にしたと見られていた。
「お分かりでしょうな奥様、クールさまを失って、本来あなたには何の権限もない。一族の中でそれが良しとなれば、そのままこの領主の館より放逐されても何のお構いのないお方。
あまり、われわれを無視した行動をとられないよう、自制をいただきたいものですな」
「フィンを王宮に上げることは、前々から王妃様との間で話が決まっていたことです。クールのあとを継ぐ継がぬは別として、アレンの一族からまた王宮仕えの騎士を出すことに、問題はないでしょう」
「なるほど」
「では今回はそのようなことであったと、受け取っておきましょう」
恫喝するような視線が去って、ムーナはふう、と長く息を着いた。そして、執務室の窓を見やる。
クールの眠る丘に植えられた木は、丘にゆるく流れる風に揺れているのか、ゆらゆらと、頼りなさそうだった。
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