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アリアドネとて、弟子の失跡をあわてていないわけではない。酒場仕込みの演技力でそれと悟られぬよう努力したのだ。向こうがうまく慌ててくれたおかげで、それがやや芝居っ気濃いものになったことの方で、アリアドネは自分が情けなくなった。
 魔鈴の行方についてはゴルゴニオに占いもさせてみた。だが、
「生きていることは確かだが」
と言ったきり考え込み、
「だめじゃ、あとは暗号じゃ」
とあっさり集中を打ち切った。
「おそらく、人知の及ばないあたりが、我々のよけいな詮索はしない方がよいと思うておるのじゃろ。
 生きておるのならよし、そうしようアリアドネ」
そして、膨れっ面のアリアドネにそう言った。
「あの子がペガサスの坊やの片棒を担いだのはひょっとして、いっぱしに母性本能を感じたからかもしれん。いつまで跳ねっ返りかと心配したが、よかったの」
「母性本能ねぇ。やっぱりあの子なりに心配したのかしら」
「ま、の。あの子はあれでいて公私混同はしないよう心掛けているようだったがの。
 だが女と言うものは、そもそも天と自らの身の内にある月の満ち欠けによって、気分を変えるように出来ておる。それを魔性と思ったが男の最後よ」
ゴルゴニオは特に聞いてもらわなくてもかまわないと言うようにそういいながら思い出したような笑いをする。
「…おばば様らしくないお言葉ですね」
アリアドネはその横で持て余しぎみに水晶を撫でる。若い頃にはおばば様もいろいろ楽しんだ口ではないんですか?という揶揄もある。ゴルゴニオは耳が遠いふりをした。
「お前にも見せたかったぞ、この間の坊の取り乱しようを」
「アイオリアの?」
「おお、わしの所にやってきて、開口一番
『魔鈴を探してくれ!』
じゃぞ? だがな、さっきと同じような結果しか出なんだから、とうとうしびれをきらして帰りおった。バシレウスのつてを使った方がよっぽど確実だと思うにの」
「まさか。魔鈴に関しての事で、あの子がバシレウスを使ったところで、向こうに対してどれだけ印象をあげられると思ってますの? ただでさえ」
アリアドネはたてた親指で地面を指した。
「これなのに。
 有事でいいことですわ。これで平時だったら魔鈴は今頃…」
「おいおい、そう決めつけんと」
「いーえ、決まってます」
そう言ってアリアドネは、ゴルゴニオからすすめられた熱い茶をひとくち啜って、舌を火傷する。ゴルゴニオはその様子を、しわの奥の目を細めて見ながら言った。
 魔鈴にかんしては、アリアドネは必要を超えた保護者的な態度をとる。もしかしたら、いつかの、生めなかった子の代わりとでも思っているのだろうか。そして、アイオリアについても、必要以上に評価が辛い。比較対照は永遠の14歳だというのに。
 ゴルゴニオは、ふうふうと茶を冷ますアリアドネに言った。
「なにか手がかりの見つかった時には、真っ先にお前に知らせようから、まあ坊のように取り乱さずと待っておれ。あるいはそのうち、わしらのまえにひょっこり姿をあらわすものさ」

 いろいろ考えては見たものの、結局「教皇」は自分の思惑のみによって新たな行動を開始した。
 野に打ち捨てられていたところを突如召喚されて、アイオリアは一瞬自分の目と耳を疑った。だが、使者の風体は間違いなく教皇の命令によっての使者であるという体裁であるし、召還を要請する書状にも嘘は伺えなかった。
 至急、という口頭での勅令もあり、取り急ぎ参上する。
「しばらくお待ち下さい」
と言いおかれて玉座の前で待つ間に、ある人物と再会した。
 黄金聖衣・蠍星座のミロ。今現在でさえ尾を引く例の事情によってアイオリアに先んじること2年にして聖衣を得た(事情通の話に寄れば、この時任じられた黄金聖闘士は粒ぞろいであるとのことである)ひとりであり、来る召還の時までは修行地に戻り、後進の指導と啓蒙活動に勤しんでいたわけである。
 アイオリアとわずかに会話をした。事件の起きる前は、互いに行き来をし、聖域中を遊び回った仲ではあったが、身の境遇のわかたれた今では会話も弾まない。旧交をあたためるような心の余裕もなかった。
 現れた教皇は、ざっと一通り、青銅聖闘士にかんする嘆き節を唸った後で、
「お前たちには早晩、その制裁に向かってもらうことになろう。
 異例の事であるが、現状をかんがみる限り、致し方のないことである」
案の定ミロは、先例がないこと、当局を手こずらせているとは言えそれに黄金が出るまでの事はないという考えを持って、「教皇」に対処方法の再考を促した。しかし「教皇」はこう言う。
「青銅だけならさも有らん」
その言い方と胸の内は、「早晩」と断わっておきながら今にも手を下したいようだ。
「しかし先方にも、無視できぬ勢力が加勢しているようなのだ。
 たとえばこの十三年来、度重なる当局の召還にも応じぬ牡羊座と天秤座の両名、やはり聖域をないがしろにし、逆徒に手を貸す動きがある。
 のみならず、…未確認の情報であるが、奴等の手許に行方知れずになっていた射手座の聖衣まであるとなると、こちらも相当量の流血を覚悟せねばならないだろう」
玉座の前の二人は揃って渋い顔をする。ミロはその任務の内容があまりに役不足なことに、アイオリアは「射手座」という言葉に反応して、である。
「そして先日」
ふたたび「教皇」がため息をついた。
「青銅の制圧に向かわせていた白銀聖闘士の一人・鷲星座の魔鈴が、逆徒の中心と目される天馬星座の師匠である情にほだされ、任務を遂行するどころか仲間を討ち先方に合流したらしい」
「教皇」にしてみれば、先日のアリアドネとのやりとりも思い出し、「危険思想」の系譜の長さに少しくぶ然とした心持ちもあって、つい口を滑らしたといったほうが正確らしい。だがアイオリアは前より過敏に反応し、
「…魔鈴が?」
と、ここが「教皇」の前であると言うことも一瞬忘れた。聖域で生きている限り、大勢に逆らうと言うことがどういうことか、彼女も知らないことではないはずだ。ましてや彼女は東洋人としての引け目もある。いや、そういう理屈は抜きにして、彼女は…
 だが、それ以上魔鈴のことを考えると、ここが教皇の面前であることを完全に忘れてしまいそうだった。アイオリアは勤めて、公人としてもさりながら、自分の本音について事態の把握を始める。
 思惑がどうであれ、聖域の大勢について何かと引け目の多い事を考えると、星矢たちは自分で自分の首を締めているようなものだ。だが、反面で、そういう当局を手こずらせる面々が羨ましい。
 形ばかりへばりついている公人…黄金聖闘士としての立場が身を拘束しているようだ。彼等に同調したい気持ちと、公人として当局に恭順する以上与えられる任務は絶対であるという強迫感、さらに同調すれば間違いなく「準えられる」だろう屈辱の予感、加えて頭をもたげる臍の下の不安感、そういったものがないまぜになって、煮融けた金属のような熱いものになって体を走る。
 以上のどれがどのようにして、彼を突き動かしたのかは、当の本人もわからないのだ。気がついた時には、アイオリアは改めて「教皇」にたいして膝を折っていた。すなわち、教皇の愚痴を勅命として拝するつもりがあると言うことだ。
「いずれにせよ、御憂慮はすみやかに取り除かれるべきと心得ます。
 この追求の一切を、私に任せていただけますまいか、教皇」

 日本の真冬の寒さは、ギリシアの冬とはまた異質な寒さを持っていた。
 斬るような、乾いた風が吹きすさぶ町の雑踏の中、ふと途方に暮れたアイオリアを、現地の連絡員が出迎えた。懐かしい顔だったので、アイオリアは一瞬だけ、年相応な顔をする。
 連絡員…エウゲニウスの態度は、まず突然のVIPの来訪に戸惑いを隠さず、そしてただの畏まりようでなく、あるいみ神を拝するような慇懃さがあった。とにかく、丁寧な挨拶の後で、
「このたびのご用は」
エウゲニウスは尋ねた。アイオリアはいつもの仏頂面で返す。
「何もよけいなことを聞かず、質問にだけ答えてくれ。青銅聖闘士の場所はわかるか?」
「はあ、それが」
つっけんどんな物言いだったが、それに返すエウゲニウスはすまなそうに、だが少しく嬉しそうに、
「彼等、当然ここには出入りしておりませんで、一時世間を騒がせた後の足取りはこちらでは全然把握できません。財団の手が回っているようで」
と言う。
「新聞記事を要約して翻訳したものなら事務所で御覧いただけますよ」
エウゲニウスは厳重に梱包されて『美術品』『天地無用』『割れ物注意』とラベルの張り付けられた獅子座のバンドーラ・ボックスと当座の荷物が積まれたカートをアイオリアの手からひったくるように預かり、
「事務所までは電車になりますがよろしいですか? タクシーの方が」
と一方的に喋り出す。その様子はなんとも言えず嬉しそうだ。無理もない。どのような事情に外側から揺さぶられているとはいえ、青銅の面々は教皇に対して今まさに弓引こうとしている。その彼等を、その出方次第によっては討たねばならないと知ったら、この男は一体どんな顔をするだろうか。

 「あそこが、グラード財団の本部と言う場所です」
と、高層アパートの一室が当てられた事務所の窓でエウゲニウスに指を指された場所は、コンクリートジャングルの中で鬱蒼と針葉樹の緑を貯えていた。
「かろうじて、今回の青銅の首魁と当局には目されているペガサスの居場所だけは見当がついているのです」
窓から離れたエウゲニウスは、戸棚の資料の中から新聞のスクラップ帳をとりだしながら言う。
「なんでも、白銀の方々に深手を負わされて、敷地内の病院に担ぎ込まれたそうですよ」
アイオリアは胡乱そうに顔をエウゲニウスの方に向け、
「それだけわかれば恩の字だ」
と言った。その言いくちに、ただならぬものを察したのか、エウゲニエスは目の色を変えて、
「まさかアイオリア様、あの子供たちを」
と聞き返す。アイオリアは目の色を濁らせて
「任務だ」
とだけ言った。エウゲニウスが食って掛かろうとする。その剣幕に、珈琲を出そうとしていた事務員風の(もちろん仮面付き)娘が「きゃっ」と高い声を上げた。
「お待ち下さい! それはあの子供たちの動きを十分見極めてからに…! 私の聞く限りでは」
その勢いに合わせて、アイオリアの声も荒くならざるを得ない。
「エウゲニウス!」
「はい!」
「大声を出すな」
だがすぐ潜める声で
「聖域から青銅の事についてここまでやってきたものは俺一人だけじゃないんだ。…幸か不幸か、教皇は俺を完全には信用して下さっておらぬ」
「さいですか」
エウゲニウスも落ち着いた。
「俺の方も、できることなら、穏便に解決したい。年令や財団との関係について、もっと調べる時間があるなら、命ごいできる余地を報告できただろう。だが、星矢たちの聖域における評価は、おまえが思っているより厳しい」
「やっぱり、制裁を下すことになるのでしょうか」
エウゲニウスがせつなそうに言った。アイオリアはそれに珈琲をすすりながら
「わからん」
と頼り無い返答をすることしかできない。
「…珈琲はもっと濃くいれてくれ」」

 それからのことを、わざわざここで述べ直す必要はない。
 とにかく、目の前でおこったことを、最後までその場で咀嚼せよとは、アイオリアには難しいことだった。
 それ以上、女神アテナと名乗るこの娘の側というものは、どうにも居住まいの悪いことだった。去ろうとするアイオリアを、沙織の声が追い掛ける。
「絶対に、これだけはいけません。
 あなたには、あなたを必要とする人が、たくさんいるのですよ、それを忘れては」
アイオリアの心中に、多くの人々の顔が浮かんでは消えてゆく。自らの信じるところによって、消えていった人々の多くの顔が過っていく。だがアイオリアは釈然としない。いつのまにか、いつかみたアリアドネの、女神のようなまなざしを思い出していた。
 そう言った多くのもの達が…アリアドネさえも…アイオリアの向こうの何かを見ている。聖衣に意志を託して、現状に甘んじていた自分を叱咤した、あの面影を見ている。
 だが、腹立たしさは覚えなかった。自問した。
『では、俺だけを求めてくれる人は、一体どこにいるのだろう』






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