事務所に戻ったところで、夜が明けようとしていた。安否を気づかい残っていたエウゲニウスが、アイオリアの抱えてきたみやげ者に泡を食う。
夜が開けてきてからやってきた事務員風の娘は、エウゲニウスの指示に嫌そうな雰囲気一つ見せずに、甲斐甲斐しくシャイナの世話を焼く。
夜半、あの事態にぶち当たるまで、彼女なりにいろいろ苦しみながらいたのだろう。傷の程度のわりには昏睡の続く彼女を、エウゲニウスは過労もその原因かと診断した。
その傷の都合で上半身は裸のままうつぶせにされて、それでもほう帯の隙間から除く肩の生々しい色合いに、アイオリアはかねてよりのもう一つの気掛かりを思い浮かばせずに入られなかったのだが、それよりもまず、彼にはさしあたって考えることがあった。
アイオリアは、事務所の椅子に、逆向きに腰掛けたまま、コンクリートジャングルを見下ろしている。はためには、彼の思惑など覗くすべもない。
あの娘がアテナであることは信じなくてはならない。聖闘士たるもの、あの神性のほとばしりを感じないとはモグリであろう。星矢たちが感化されたのも、頷ける話ではある。
だが、問題は、どうしてそこに彼女がいたのか、ということ。
「どういうことで」
エウゲニウスは、アイオリアから意見を求められても、アテナが日本にいるという事実さえ、飲み込めずにいた。アイオリアはさっさと自分の考えの先を急ぐ。
「いや、どうして、ではない。ここであるからこそ、女神は生き延びておられた。そう考えるべきなのかもしれない。
何ものかが、なるべく聖域の影響遠い場所に、女神においでいただくようにおぜん立てしたのだ」
「何ものか?」
「かなりの高い確率で、兄貴だ」
「ええ? バシレウスのお家が日本に縁があるとは聞いたことはありませんが」
「兄貴の思惑を実行に移したのは、兄貴から女神を託された人物だがな。
なにより、女神が拉致されたのではないという証がある。これと見込んだ相手でなくては、聖衣まで共に預けるということはしないだろう」
「はあ、凡人なもので、今まで気がつきませんでした」
エウゲニエウスはひとしきり頷いた後、鷹揚に言う。
「でもよろしゅうございましたね、これでアイオロスさまのお心向きがわずかなりとお分かりになって」
だが、さしあたって一番の問題に、彼なりの結論を出した後のアイオリアの返事は、まるで生だった。
「うむ」
エウゲニウスは、何かこの方にも思うところがあるのだろうと、自分からは何も言い出さない。ややあって、やっとアイオリアが口を開く。
「エウゲニウス、面倒だが、もう一人人探しを頼む」
「私にできる範囲なら」
エウゲニウスは応じて張り切る。だが、それに気押されて、アイオリアは一瞬言い淀んだ。
「そんなに張り切るな。…鷲星座のことだ」
「副官様の?」
「うむ。彼女は星矢の師匠なのだ。今はその造反に肩をかした嫌疑がかかっている。東洋人への圧力がまだ完全に消滅していない今、そういう汚名が着せられるのは彼女の将来にもよくない。女子区でも独自に捜索を続けているらしいが、それでも見つからないとなると、いよいよ上役の俺の責任にもなってきそうだ」
「確か、いつかここにやってこられましたね」
「ああ。星矢達を討つよう勅命を拝したはいいが、日本に渡ってからの足取りがつかめん」
「はあ」
エウゲニウスは首を捻る。
「白銀の方々は、ここに一晩いらっしゃった後、フジに行くと言ってそれきりですので」
「そうか」
半分期待していたことでもあった。アイオリアはあまり感謝していなさそうな礼を返す。
「お役に立ちませんで」
「気にするな」
彼は椅子から立ち、伸びをする。
「これで俺の用事は全部済んだ。明日にも帰る。シャイナもこのままにはしておけんしな。聖域で待っている弟子に預けて、完治までバシレウスが面倒見ることになるだろう」
「わかりました」
エウゲニウスはしばらく黙って事務作業をしていたが、
「はて、鷲星座といえば、アリアドネが手塩にかけていたお弟子が目ざしていた星でしたねぇ。無事聖闘士になれたのですね」
とやおら顔を上げた。
「そう言えばゴルゴニオどのからの書簡に、あなた様にはこのごろ御執心の人がいる、とか。
その方でしたか。アリアドネには振られどおしでしたからね」
アイオリアはどうにも照れる方法が思いつかず
「それがどうした」
と開き直るしかなかった。
出立まぎわ、アイオリアは言う。
「すまないな、エウゲニウス、不本意だろう。
俺が星矢達を糾弾するのは」
「は、内心を恐れながら申し上げればそのとおりでございます。
ですが、今の我々には、オルティア様の仰せにしたがうよりありません。
『控え、堪えよ』
それでも、夜明けの必ず来ること、信じております」
「…」
アイオリアは何も言わなかった。何を言っても、エウゲニウスは自分の考えを変えることはないだろう。
それが非であるが、利でもある。
そのアイオリアが聖域に復命し、「教皇」から幻朧魔王拳を食らった頃、女子区。
女子区のある意味治外法権を具現するような、外界と独自に通じる出入り口がある。それをつかって、ごく密かに魔鈴が聖域に帰還していた。
言うまでもなく、聖域の「表」に出れば、彼女は師匠としての情に絆されて逆徒の肩を持ち、聖域をないがしろにした大罪人である。女子区にあっても基本的にそれは変わらないのだが。
まず、ゴルゴニオがいる彼女のオフィスに顔を出す。
聖域女子区のスタンスの最終決定者・ゴルゴニオを初めとして、老若数人の女達が、それぞれ悠然としたいでたちで魔鈴を見下ろしている。ゴルゴニオの傍らにはアリアドネの姿もあった。
ゴルゴニオは、魔鈴には何も聞かず、事務的に述べた。
「『黄金の雨』は、お前を罪にはとわぬ。そもそもの聖域の了見に照らし合わせれば、真の女神アテナに与して、現在聖域に巣食う邪悪に敢然と立ち向かう姿勢を見せたお前は、賞賛されるべきであろう」
「ですが、今聖域の邪悪は、いま再び強大な木偶を得て勢い強く、あの子達でなければ雪ぎ得ぬことも事実、『表』には出られませぬように。あなたがジャミールで授かった方策は、極秘の内に実行されるべきかと」
別の女が言った。魔鈴は、ジャミールでいろいろ吹き込まれたことをすでに知られていることできょとんとする。そしてそれだけで、魔鈴はアリアドネに預けられる。アリアドネは先ず、やっと帰ってきた弟子をこれでもかと言うように抱き締めた。
「お帰りなさい」
「はい、先生」
「今までどこでどうしていたの」
魔鈴が日本に行ってからのことを大雑把に話すと、
「そう、クレアの言っていたジャミールで授かった方策ってそういうことね」
と頷く。
「で、スターヒルに登る前に、先生が心配しているだろうから、顔だけは見せようって思って」
柄になく目尻を染めながら、幼く早口に言う魔鈴に、アリアドネは
「そう、十三年前のあの事件について、スターヒルに登ることが解決の何か手がかりになると言うのなら、そうしなさい」
ことさら強調するように言う。
「先生、何かあったんですか?」
「何かも何も」
アリアドネは、先日の教皇との一件を打ち明ける。
「いいこと魔鈴、私があなたに教えたことは、そしてあなたが星矢に教えたことは、間違っていないって言う絶対な自信が私にはあるの。
死んじゃダメ。でも、怖がらないでね」
しかし、聖域北端の森の中、さながら「未知との遭遇」のようにそびえるスターヒルは、ふもとにたたずむ者全てに、それ以上を拒むようで、なまじな敵と闘うより手強そうだった。
魔鈴はふと腕を抱え、「ひょっとして自分は、動けないとするやんごと無い方々にうまく踊らされているのではないか」と言う疑心暗鬼を持ち上げる。
だがすぐに、考えている暇がないのだと言うことも思い出した。聖域の命運も去りながら、ムウに対して切ってしまった恥ずかしい大見得の手前、この使命は果たさなければならない。
岩壁に手をかけた。長い戦いになりそうだ。
その時に合わせて、いくつもの流れが集まろうとしている。
すこし時間を戻す。
「教皇様、ヘリオドーラ参上しました」
彼女が私室に入ると、教皇…サガは椅子にかけて何かを読んでいるところだった。それでもヘリオドーラには気がついているのか、無言で差向いになる椅子を指差した。
「何をお読みになっていらっしゃいますの?」
とたずねながらそれを覗き込むとサガはヘリオドーラの前にその紙を突き付けた。読めと言うことらしい。
しかし、ヘリオドーラには、その中身を何度も読み返してみたところで、
「…にわかに信じてよいものなのでしょうか」
としか言えなかった。だがサガは、しきりに目頭を抑えている。
「君にはその手紙から何も感じないのかい?
何の偽りもあるものか、女神は聖域を逃れられて生きていらっしゃるのだ。私にはわかる」
「え」
ヘリオドーラは手紙を取り落としそうになる。
「逃れられたって、それって」
「今まで君にも隠してきたが、この十三年、私は、あたかもこの奥の神殿に女神がましますかのようにふるまってきた。
そう、アイオロスが、あの時、私の手から女神を遠ざけてくれたのだ。
そのお方がお戻りになるという! 遠く日本で御成長遊ばされて」
ヘリオドーラは、今まで自分が信じていたもののいくつかが、音を立てて崩れてゆくのを感じた。絶対に信じたくないことだ。だが、この彼の言うことが全て真実なら…いや、この男がうそ偽りなど言うはずかない…、その手に女神をかけようとしたこの男は、「神殺し」の罪にも値して、逆にアイオロスは…
「今まで生き長らえてきたこの身が恨めしい。もっと早く、命を持ってこの罪を贖うべきだった!
だが、まとめるものなき聖域の乱れを考えると、偽りを覚悟でこの座に、執着せざるを得なかった。
そんな私の苦悩が、報われる」
「サガさま?」
「全世界の同志にふれを出すのだ。女神をここにお迎えして、一切の事情を打ち明け、私は」
「私はイヤです」
それまでサガの肩にからめていた指でついと彼を突き放し、ヘリオドーラはきっぱりと言った。
「何を言う」
サガも珍しく言葉を荒げる。
「私は自分の引き際を見極めたのだ、誰にも邪魔はさせない」
「その時は私もお供いたします」
「それはだめだ!」
涙の引いた顔で渋い顔をするサガに、ヘリオドーラは淡々と言った。
「いえ、そういたします。お許しいただけないなら、この場で引導をお渡し下さいまし」
「ヘリオドーラ」
サガはにわかに、天使のように穏やかな顔になり、ヘリオドーラを抱き締める。
「わかって下さい、サガ様、私は、あなたがいらっしゃらないところで生きる価値などないのです」
「聞き分けてくれ、ヘリオドーラ、こうでもしなければ、『私』はいつか君も邪魔にする」
サガは、ヘリオドーラの体に表現できぬまま渦を巻く興奮を吸い取るようにその唇をあわせる。
「下に降りてくれ。今私がしてあげられるのは、それだけなのだ」