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 そのころ。
 アイオリアは、小さいが激しい物音と、父や母が何か声高に言う様子で目を覚ました。
 彼には、何が起こっているのか全く分かっていなかった。寝ぼけ眼の暗闇の中、少しずつ目が覚めて行く中で、数人の荒々しい足音と、父が
「…何かの間違いだろう!…」
 と言って通り過ぎる気配がする。
そして不意に
「アイオリア!」
と母が戸を開けて駆け込んで来たなり彼を抱き締めた。
「お母さん、どうしたの?」
とアイオリアが尋ねると、母は大きい溜め息をついて
「恐ろしい… お前は何も言わないで」
と言った。
すると、ちょうど足音がこの部屋の前辺りで止まった。
「ここが最後か」
「はい。後はすべて探しましたが、隠れた形跡はありません」
と男の会話が聞こえる。それに答えるように母が
「ここはあの子には関係ありませんわ!」
 と叫んだ。すると男の声は
「それでは困ります。ここを見逃して実は隠れていたとなると我らの首の方がが危ないのでね」
と言って、続いて部屋の戸は重い音を立ててこじ開けられた。
「当局に疑われたくなくば素直にこの捜索に協力されるがよい」
と言う男の後ろから、その手下らしき男が数人、部屋の中になだれ込んで来た。そして、今までアイオリアのねていた寝台の布団を剥がしたり、収納という収納を開け、中を探っていたりしたが、一人が
「どこにもいません!」
と言う。捜索の様子を戸口で見ていた男は
「奴め、どこに隠れやがったんだ」
と舌打ちして、
「こうなったらしらみつぶしだ! 草の根別けても捜しだし、引っ立てろ!」
と部屋を出て行く男達に怒鳴った。
アイオリアを堅く抱き締めながら、男達を見据える母の肩は小刻みに震えている。そして彼は、こんな大騒ぎの中で、アイオロスが起きて来ないのが不思議だった。何げなく、
「お母さん、お兄ちゃんはどうしたの?」
と聞くが、答える変わりに母はアイオリアの口をふさいで
「今はそれを聞かないで!」
と悲痛な声を上げる。しかし、去りがけに戸口の男がそれを聞いたらしい、立ち止まって
「お前の兄アイオロスは、女神を殺さんとしたところを教皇に見咎められ逃げたのだ。その罪は重いのだ、奴の命をもってしか償えんのだよ。
見付け次第…」
自分のあごの下を一文字に指でなぞって
「これさ」
と言った。

 嵐のように一団が去り程もなく、ゴルゴニオがやって来た。
「…遅かったようじゃの」
と重く言う彼女の声を、両親は黙って聞いた。アイオリアも、今ではすっかり目も覚めて、彼等と一緒に居間にいた。
「知らせを聞いて、急いだのじゃが… 二人とも、この度は難儀じゃったのう…
それにしても、どうしてこんな騒ぎが起きたというか…起こしたのじゃろか」
とゴルゴニオの言うのに父デウカリオーンは
 「私達の方が聞きたいくらいですよ。聞いても信じ難いことですが。…あの子に限って」
 といかにも悔しそうに言う。母ネフェレも、
「おばば様、嘘に決まっておりますよね!
あの子が…アイオロスが、女神様を殺そうとしただなんて!」
と半分涙で訴える。アイオリアも、
「おばば、お兄ちゃんはどこにいったの?」
とたずねるが、これはもとよりゴルゴニオの預かり知るところではない。
「それが分かっておれば、当局も、わし達も苦労はせんわい」
と彼女は溜め息をつく。そこにアイオリアは
「おばば、僕も一緒にお兄ちゃん探しちゃだめ?」
と言う。
しかし、ゴルゴニオがそれに答えようとするより早く、母は
「バカを言わないで! 今外に出たら、お前でも、決して無事じゃ済まないのよ!」
と彼の肩を捕まえたまま離さない。ゴルゴニオも
「そうじゃ。まだ当局はアイオロスの捜索を諦めた訳ではない。
奴らは、たとえお前のような子供でもこのことに係わり有りと疑えば、責めるに容赦はせんぞ。
 おとなしく、ここに、父と母と共におるがよい。兄に会いたくば」
と諭しはするが、アイオリアはかまわず掴んだ彼女の衣の裾を放さない。
とうとう彼はゴルゴニオに
「仕方ないのう」
と言わせた。
「そこまでの覚悟ならついて来い。
デウカリオーン殿、この子はしばらく預かったぞ」
父は
「よろしくお願いします」
 とは言ったが、もとより心配は隠せず、すすり泣く母の肩をしっかりと支えていた。

 結局分かったことは、聖域内でのアイオロスの足取りは聖域の東の、ゴルゴニオの住む辺りでふっつりと絶えていたことだけ。それ以上探しようもなくて、夜はやっと夜半を過ぎた。
 アイオリアは眠い目をこすりながら
「お兄ちゃん、見つからなかったね」
とゴルゴニオに言った。
「無事に逃れておればよいがのう」
とゴルゴニオも思ったことがついて出て
「坊や、やはり、眠いのではないか? もう寝るか?」
とたずねて来る。にぎっている小さな手が暖かい。
「まだ探す…」
アイオリアは、口で言いながら、その場ででも崩れ落ちそうなほど睡魔に取り付かれていた。

 ゴルゴニオの家。
「帰ったぞ、何もなかったか」
とゴルゴニオが奥に向かって声をかけると、軽い足取りが響いて、廊下の入り口から娘が一人顔を出した。
「はい、何も」
と娘は答える。その起きぬけの瞳はつい先刻まで涙に暮れていたように潤んで、頬やほのかに見える指先や足が薄いばら色に染まった、身体の均整も見事に取れた、アイオリアの子供心にも驚くような美しい娘である。
「…おばば様、どうなさったの?」
と問う娘に
「うむ」
とゴルゴニオは難しい顔をした。そして、それまで自分の衣の裾で眠気に千鳥足になっているアイオリアを前に押し出して
「話の前に、すまんが、この坊をお前のところで休ませてやってくれぬか」
と言う。
「…どうしたのですか? この子は」
すこし驚いたふうに娘が尋ねるのに
「…アイオロスが… 女神に反逆の意を示しおった」
ゴルゴニオは悔しそうに言う。娘は、長く動きを止めた後、眉を潜め、裏返ったような声をあげた。芝居じみて。
「…あの方が?」
「わしだって信じたくはないよ、奴に限って」
 とゴルゴニオは、また外へと出て行く。
 「まだいろいろ仕事が残っている。すまんが頼むぞ」

 夜が明けて。娘の供した朝食を食べながら
「みんなすごいケンマクで兄さんを探しているのに、兄さんはどこにもいないんだ。
…お姐ちゃん、兄さんどこに行ったか知らない?」
顔を上げて娘に尋ねる。娘はふと間を置いて、「さあ」と首を傾げた後、
「本当に一体どこへ行ってしまわれたのかしら」
と言った。
「あの時おばば様がおっしゃるまで、あの大騒ぎがそんなこととは私も知らなかったの」
そして娘は、自分はゴルゴニオの養い子で、聖域に近い酒場で踊り子をしている、と名乗って、
「あなたのお兄様には大変贔屓にしていただきましたのに。
お早くお帰りになってほしいですわ」
と言った。すると
「そうか」
とアイオリアは食べる手を止めた。
「どおりで、お姐ちゃんどっかで見たことあるなって思ったんだ」
「まあ、いつかお会いしたかしら」
と踊り子が尋ねると
「この間。無理やり頼んで連れて行ってもらったんだ。
お姐ちゃん綺麗だったよ。踊りもうまいね」
とアイオリアは愛想を振り撒いて
「今度は一人で見に行きたいな」
と言うと
「ありがとうございます、どうぞ、おいで下さいな」
と踊り子も笑った。アイオリアが子供でなければ、その笑みの奥にある違った何かが見えたかもしれないが。

 その後でアイオリアは、アイオロスの部下であった参謀…例のエウゲニウス…に連れられて実家に帰って来た。その間に、アイオリアは、生まれて初めてと言っていい程の、漠然とではあるがしみ込むような恐怖を知る。
 満ち行く人々の視線が、全身に刺さるように痛い。
 何も言いこそしないが、凝視する瞳は明らかに憎悪と怨恨。
 アイオリアは図らずも、エウゲニウスに取り縋っていた。その時、
「坊ちゃん」
 とアイオリアの頭の上で、エウゲニウスが呟いた。
 「思い違いだけは、なさっちゃいけませんよ。
人にはすべて、『思うところ』というものがあるのです」

 帰って来たはいいが、玄関に入るなり、硬いものが砕ける音がして、二人は大急ぎで居間に駆け込んだ。
 居間では、昨夜から一睡もせず、一歩もこの場所を動かずにいたのであろう、父と母が、一枚として無事でないガラスの格子戸に差し向かっていた。
「デウカリオーン様」
とエウゲニウスが怖ず怖ず声をかけると、父はゆっくりその方に顔を向けて、
「…エウゲニウスか」
 と力ない声を出した。
「ひどい状態でございますね」
とエウゲニウスが言えば、デウカリオーンは
「こういう様子を、『手の平を返したよう』と言うのかな」
そう苦笑した。
「エウゲニウス」
ネフェレもしみじみ呟く。
「一体あの子は、何を思ったのかしらねぇ」
「…申し訳もございません。
デウカリオーン様からアイオロス様をお預かりしたときから、しかとこのモトを見届けて、逸りを抑えていただくべきでした」
エウゲニウスの言葉に、デウカリオーンは
「案ずるな、お前に非はない。要はそれを抑えられなかったアイオロスの不届き」
と彼をたしなめる。そして
「お前だけは、いつまでも、ここを離れずにいてくれるな」
と念を押す。
「…アイオリア様のことですね」
とエウゲニウスが言うと
「まあ、これからどんどん信用がなくなるというときに!」
とネフェレは言い立てる。
しかし、
「ネフェレ、お前はすっかり考え違いをするようになったな」
とデウカリオーンは言う。
「聖闘士の信用は、それが輩出された家の信用ではない。
 皮肉にも、アイオロスがこの騒ぎを起こしてくれたおかげて、あの家とのばかげた威勢の張り合いも終わだろう。我々が失望された分、あの家は重い扱いになる。
 それで良いのだよ、本来なら。
 ここは実力社会のはずだ。この事件がアイオリアと聖衣の間を何らかの形で隔てるのであれば、この聖域の歴史も、残り長くはないだろう」

 アイオリアには、父の話は難しすぎた。ただ、自分の名前と、聞き慣れた「聖闘士」「聖衣」という言葉は聞き取れて、当て推量に父の意志をくんだ後、
「お父さん」
口を開いた。
「ぼく、聖闘士になるよ」
すると、デウカリオーンはわずかに陽気の戻った顔で
「そうか。なるか」
と言った。





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