ほのぼのと、東の空が明るくなって来た。
アイオロスはそれを横目に見ながらいつ終わるともない闘争を続けて、アテネ市街地の廃墟群…アクロポリスに入った時、
「アイオロス!」
と自分の名を呼ぶ声に振り向いた。
物陰から何かが飛び出す。朝とは云え未だ東雲、輪郭だけがやっとわかる程度だ。
「遅いぞ!」
アイオロスはしばらく、その陰の主がだれかわからなかったが、声を聞いて
「…シュラ?」
と聞き返した。
「どうしてここに?」
「教皇から勅命だ、アイオロスを討てって」
彼の質問に、シュラは鋭くはあるが幾分幼さの残った口調で返す。
「アイオロス、本当に女神を殺そうとしたのか?」
「そんな」
とアイオロスは否定する。
「俺は逆に殺されそうになった所をお救いしたのだ、一体だれがそんなデマを」
「嘘だ、聖域中、お前が女神を殺そうとしたと言っている!
…その腕に抱えているのは何だ!」
するとアイオロスはにっと笑って
「よく聞いてくれたな」
と言った。そしてシュラにそれを差し出しながらいわく
「シュラ、これが女神だ」
しかし、シュラにはその女神はただの無力な赤ん坊にしか見えなかったのだろう。
「まさか、御降臨された常盤の女神であるはずのアテナが、そんな赤ん坊なはずがない!
やっぱり、お前は殺したんだ、女神を!」
途端、空気の切り裂けるような音がして、アイオロスの足元の地面を割った。
アイオロスとて、根っから売り言葉に買い言葉な性格ではない。
「シュラ!」
彼は、次々と繰り出されて来るその手刀を交わしながら
「聞いてくれ! もうじき夜が明ける。お前もいいかげんに目を覚ませ。
日が昇ればここには人も増える、ここで事を構えれば無関係の人達に厄介が降り懸かるということがわからないか!
俺はいつでもお前に倒されに来る、しかし、この方を安全な場所にお隠し申し上げるまで、しばらく待ってくれないか」
しかし、
「お前の言うことなど聞くものか!」
と叫びながらのシュラの手刀は、女神を庇うアイオロスの左腕を裂いた。
血が迸り、ほんの一瞬だが、その表情が歪む。シュラはなおも、容赦なく手刀を浴びせかけて行く。
「ウソの女神と一緒に死んでしまえっ」
日が昇る。もうシュラの姿はない。
身体中の痛みが、麻痺するように薄れてゆく。
アイオロスは、ぼやけてゆく視界に昇る朝日を見ながら、秋の空色の瞳を閉じた。
しかし、である。一度は死んだと思いながら、女神の泣きじゃくる声と、
「キ、キミッ、ドウシタノカネ」
意味なども分からない、しかし、自分に呼びかけているような男の声で、アイオロスは目を覚ました。
男は初老、さして彫りも深くない。多分、この国の者ではないだろう(といっても、アイオロスは外国人などめったに見たことがないが)。
しかし、瞬間に、この男に託せば、という思いがよぎった。
もう自分に残された命も少なかろうとも思った。
「キミハイッタイナニモノナノカネ、コンナバショデ」
「わ…私は…」
男が何か話しかけて来るが、アイオロスにはそれを聞き答える余裕などなかった。
「私は、アイオロス。
このアテネ市の奥に存在する聖域より追っ手に追われて来た…聖闘士。
聖域は、今や、なにかしら、邪悪な意志によって支配されつつある。それを妨げねばいつか、それは全世界を覆い尽くすだろう…」
言いながらアイオロスは意識が遠のいて行く。
「どうか、このお方を…」
朝の薄明かりが差し込む人馬宮。
アイオロスが出て行った後、声も立てずにポロポロ泣いていたムウは、ふと顔を上げて、壁面に彼が書き遺した遺言を思い出していた。
「君らこの場所に訪れし若者に、我アテナを託さん」
それを口にして、ムウは呟く。
「わかりました。ご安心を。たとえ地上全ての者が、貴方を逆賊と罵ろうと、私は命有る限り、貴方と師を悼みながらここを去り、貴方の言う者達の現れるのを待ちましょう」
しかし、一瞬後には、遠い遠い場所の小宇宙の変化に、何かを悟っていた。
「神は…真実をご存じなのですから」
ムウは、事件の直後、教皇から与えられた技を極めるとの名目で聖域を離れた。新「教皇」は、シオンに弟子がいたことは知ってはいたが、あの子供には何も出来まいと、それを許した。
故郷に近いジャミールに居を構えた彼の、長い隠遁生活が始まった訳だが、10才にも満たない子供の一人暮らしは、筆舌に耐え難いものがあっただろうことは容易に想像できるが、何故か彼にはそんなお涙頂戴が似合わない。
ある時彼は、聖域よりは遥かに近い中国・五老峰の老師からのテレパスを受けた。
「来い」というので、ムウは、何か言いたいことでもあるのかと思って、すぐと五老峰に飛んだ。
大滝のしぶく岩に胡座し、老師は虚空を見ながら言った。
「お前のような幼いものさえにも隠遁の心を植え付けるとは、聖域も、随分、派手に事を構えたようじゃの」
「は」
ムウは返事はしたが、何を何から話せばいいのか、考えのまとまらないまま言葉に詰まった。すると老師は
「よいよい、お前から話を聞くつもりはない。わしも事情はよく知っておるつもりじゃ」
と笑う。
「しかしなムウよ、一度こうして名を逃れたからには、いずれの言い分にも耳を貸さず、高みの見物をすることじゃ」
「はあ」
「今正しきを見失うは、これからに当たっての愚の骨頂であるぞ。
そうじゃろう?」
ムウは、老師が言いたいことが薄々わかって来た。
「そうですよね」
ムウは、あくまでも中立して、事の成り行きをじっと見つめる時勢の見届け人となるおもしろみを感じて来た。老師は、師シオンから習い得られなかった多くのことを教えてくれた。
聖域からどんな用事で出頭が命じられても、のらりくらりと擦り抜けて応じない技を身につけた。
何かにつけて格式を高めたいのだろうか、聖域は、大して重くもない儀式や祭式にも参上を命じるが、とりあえずその詔勅は封も開けずに屑篭にでもほうり込んで、二人五老峰で業界の清談にうつつを抜かすことが、少しの間続いた。
さて、老師のところには、時折、聖域からの密使があり、ムウも2、3度は会うことがあった。密使は、どうやら聖域内のあらゆる動静を調べ、詳しく老師に伝える役であったらしい。「お前から話を聞きたい訳ではない」と老師が言うのももっともだとムウは思った。
そんなある日のことである。いつものように、ムウが、五老峰で、老師と話し込んでいると、
「時にムウよ、こんなものが聖域から届かなかったか?」
と、彼の前に、傍らにあった手紙をつい、と押しやった。
「…聖域からの手紙はいつも読まずに処分してしまうのですが」
ムウは言いながらそれを手に取る。すると老師はほほほ、と老人くさい笑いをして
「何じゃ、それでは聖域の娘達は、お前におちおち恋文も送れんのう」
と言い、
「よかろう、それを読め」
<天秤座の童虎閣下・不躾ではございますが御許に>
と書き出してあって、以下、聖域の現状を嘆き、教皇の行状を憎み、例の事件以前の聖域を懐古し、
<女神が降臨されたというのに、御神を援け、邪悪を払う聖域に、自らの身に巣くった害虫の一つすら退治する気力がないのは、情けないことだとお思いになりませんか>
と、前途は闇と思い込んでいるような言い口である。
<我々は立ち上がります。
この当局の行いが、正道に許されるはずがありません。
そして、この考えに賛同なさっていただけるのなら、そちらのできる限りで結構です、お声の一つでもかけていただけないでしょうか。
牡羊座のムウ閣下も、幸いお近くにおいでのようです、あの方にも同じことを申し上げ、その御賛同を得たいと期するところではございますが、もし未着ということになれば、一言お伝えくださいませ。
お二人とも、ご迷惑かつお手数ではございましょうが、どうか、私達の気持ちを汲み取ってくださいませ。
女神の益々のお慈しみが、閣下の上にありますように。
机下、かしこ>
「Ορθεια…オルティア」
とムウは最後までを読んだ。。
「恐ろしいことを考えたものがいるものですね」
「うむ。
それよりムウよ」
「はい」
「お主、それに乗ってみる気があるか」
「難しい問題です。
今までの老師のお言葉から考えれば、中立を守るべきなのでしょうが、なまじ事情を知っていると、正しいことを教えてしまいたくなりそうで」
「それはお主の性分じゃろう」
「…そうですね」
老師はしばらく黙っていた。が、
「…ここはやはり、決めたように中立を守ろうぞ」
と言った。
「とは」
「ここで、わしらが、オルティアの一派に力を貸したとする。
自ら言うもなんじゃが、わしらが加わったことで、彼女は、聖域に等しい力を得たことになる。そこで教皇と張り合ったら、ことは千日戦争じゃ。
双方お互いに気を取られ過ぎて、そこにもし何かの邪悪が入り込んで来たら、聖域は内部から崩れ去るのは火を見るより明らかなことじゃ。
ある程度の犠牲は覚悟して、教皇の独裁でも、聖域は力を保っておかねばな、この先の一触即発の事態には立ち向かえん」
「そういうものですか」
「神は真実を知っておる。人がどんなに騒ごうと、神は高みの極みにてご覧になっておる。そして、運命は、定められたようにしか進まぬものじゃよ」
そうではないのか?と水を向けられて、ムウはもろもろのことを思い出して、なるほど、と納得した。きっと老師も知っているはずだが、口に出さないだけなのだろうと思っていた。
「それもそうです」
「わかったら、大人しくしておるが一番いい」
と、老師は言って、また、二人は清談に興じた。
このときの老師の変な入れ知恵を、十三年後、風聞に聞かされていた造反した青銅聖闘士の一人・ドラゴン紫龍に出会うまで、ムウはかたくなにそれを守る。