<あらまし>
サガ不在中におきた、聖域の大事変。教皇が、あろうことか、女神アテナに刃を立てようとしていた!
異様な気配を感じ取り、駆けつけたアイオロスは、女神を助け上げるが、同時に、教皇の変貌の実態を見てしまう。
聖域は女神にとって安寧の地ではない! 女神を腕に聖域からの脱出を試みるアイオロスに、「教皇」の指揮下、包囲網が着々と張られてゆく。
アイオロスは、老参謀ゴルゴニオの元を頼り、その家に入り込む。
しかし、主不在ではあったが、その家には住人がいた。
ロドリオ村の酒場で、要請のように美しく踊る、その少女が。
うきよ
アイオロスは、自分がどう走って来たのかとりあえず考えてみた。それからあわてて
「すまない… 起こしちまったね」
と言った。
「…い、一体、どうしたの?」
踊り子がやっとの調子で尋ねると、アイオロスはそれまでのいきさつを思い出して顔が険しくなってしまう。
「…じきにわかるよ」
「じきにわかるって…何が?」
「今の俺には、詳しく説明なんて、できない。
…それより、少し休ませてくれないか?」
アイオロスはそう言って、肩から金のパンドーラボックスをおろし、腕の中の女神を踊り子に預けると自分はどっかりと床に座り込んだ。
「…椅子に座ってもいいのよ」
踊り子が言うと、アイオロスは
「いい、汚れる」
と彼女を見上げた。女神はうとうととおくるみの中で微睡んでいる。
「…」
踊り子の目が、アイオロスを上から下まで見ている。その顔には状況が飲み込めてない様子がありありだったが、ふと、女神が目を覚まし、身じろぎ、「あ…」と泣き顔になった。
「あ」
彼女はそれに気を取られ、赤ん坊をあやし始めた。すると、すぐに女神は泣き止んで、今度は笑い始めた。
「よしよし」
踊り子も目を細める。その様子を見て、アイオロスは
「はは、」
と笑った。
「偶然だったけど、やっぱりここに来てよかった。 …ところで、おばばは?」
踊り子は赤ん坊を腕に部屋の中をゆっくりと巡りつつ
「おばば様なら、何か大変なことが起こったって、だいぶ前にあわててどこかに行ったわ。…なにがあったの? あなたが聖衣と一緒にこんな赤ちゃんまで連れているなんて」
しかし、彼女が台詞を言いおわるや否やのうちにアイオロスは立ち上がって
「しっ」
と踊り子の口を人差し指で塞いで、彼はというと、そばのクロスのかかっているテーブルの下に隠れた。
「ど、どうしたの?」
踊り子は彼の行動を訝しく思ったが、間もなく入り口ドアが不意に叩かれる。彼女は一瞬そこに出て行くのをためらった。アイオロスはクロスの下から顔だけを出して人差し指を自分の口元に当てた。踊り子はさらに何事かと思っても平静を保ち応対に出た。
以下、踊り子と来訪者の対話。
「どなたですか?」
「外に怪しい男を見かけなかったか?」
「あ、怪しい男? 何のことです?」
「射手座の黄金聖闘士が謀反を起し、ご降臨なされた女神を殺害しようとした。現在奴は逃走中で行方が知れん。何か、見聞きしていないか?」
踊り子は素知らぬ風に
「さあ、ずっと家の中におりましたからわかりませんが…あちらのほうに…何か足音がしたような気が」
数人が、駆けて行く音がする。
「夜分、大変失礼した」
だがそこで雑兵は彼女の腕の中に赤ん坊がいるのを認めたらしい。
似つかわしからぬ場所に、女の赤ん坊。雑兵はどこか思い当たるものがあったのだろう。しばしの沈黙の後、来訪者の声。
「つかぬ事を伺うが…この子供は…?」
踊り子もそれに気づいたろうが、さして動じもせず、少しも慌てず、
「あ」
と言った。
「ここはゴルゴニオおばばさまのおうちですよ。
この子はおばば様の新しい養い子で、夜泣きがひどくて、あやしてたところなんですけど…何か?」
「あ、ゴルゴニオ殿のお宅で…」
雑兵はやっぱり自分の思い過ごしだったかという感じで「失礼」と走って行った。
雑兵達がいなくなるとアイオロスはテーブルの下から出てくる。足音の去って行ったと思われる方向を確かめるように眺めながら、
「ありがとう、助かったよ。…しかし、もうこんなところにまで追手が…」
アイオロスを、彼女は憐れむように哀しげに、真っ黒な瞳をいよいよ潤ませて、
「ねえ… どうして、こんなことをするの…」
とたしなめ声に彼に尋ねた。
「どうして?」
アイオロスが聞き返すと、踊り子は女神の顔を見て言った。
「…この赤ちゃん、…アテナ様なんでしょ…? どうしてこんなところにまで連れて来たの?」
アイオロスは小さく頷いて、言い切る。
「教皇から守るために」
「教皇様から守るために?」
踊り子はオウム返しにアイオロスの言葉を云う。
「教皇様がどうかなさったの?」
「ああ。今夜、十二宮の方で小宇宙の様子が変わったようで気になって、そしたら出所が教皇の間らしいんで行ってみたら」
「…行ってみたら?」
アイオロスは、一息おいて
「…教皇が、黄金の短剣で女神を殺そうとしていた…!」
と吐くように言った。踊り子は目を見開く。
「教皇様が… 」
「…しかもその教皇も、シオン殿ではなく…」
「誰だったの?」
「…本当は、俺の見まちがいであってほしい」
アイオロスは床につんねんと座って、記憶を振り払いたいかのように頭を振る。
「とにかくこの方をかばって飛び出してきたはいいのだけれど、追っ手に追われてこのとおりさ」
アイオロスは体中の傷を指した。踊り子がその傷に手を伸ばすとアイオロスは眉をしかめた。
「イテ」
「ごめんなさい」
と踊り子はその手を引っ込めて
「でも早く手当しなくちゃ…」
と棚の薬箱に手を伸ばすが、アイオロスは「いや、いいよ」と断った。
「どうして」
「手当したって、聖域の結界を越えようとすれば同じことさ。…さて」
彼は荷物を抱える。
「もういいかげんここを出ないと…。夜が明けないうちに」
アイオロスは踊り子の手から女神を受け取り、またうとうとと眠り始めた彼女に話しかける。
「女神…ゆくとしますか」
彼女はその姿を見ていたが、やがて口を開きアイオロスに尋ねる。彼は答える。
「これからどうするの?」
「このお方を、信頼のおけるかたに託す。自分の身体はそれから考える」
「それからって…聖域には、聖闘士がたくさんいるじゃない、殺されるわ」
「…俺を直接殺せるのは、黄金聖闘士しかいない。
雑兵の追っ手ぐらいじゃ、死なないよ」
彼女は黙ってアイオロスの様子を見ていた。そして
「このまま、ここからいなくなってしまうの?」
と言った。」
「え」
アイオロスはどきっとした。
「どの道私には、貴方達のことはわからないわ。でも、普段と目の色が違うもの。
嘘はつかないで。帰ってくるって、約束して。」
踊り子はアイオロスの手を取った。
「おばば様は、こういう時のあなた達って、止めたところでどうなりもしないっておっしゃったわ。
だから私、貴方が後に何の心配も残さないようにこれ以上止めない。
…だけど」
そこで彼女は一息おいて
「ちゃんと帰ってきてくれると、約束してくれないといや」
踊り子の頬は鮮やかに染まりながら、何か、別な感情にひくひくと震えている。
「こんなこと、もっと…後で言おうと思ったわ。だって私はまだ、聖闘士になったあなたと違って、ただのコドモだもの。
でも、それじゃ、遅い。そんな気がするの」
「何?」
踊り子は、長く言い淀んだ。時間にしては、長いとあえて言う程ではない。だが、ある覚悟を、自分全身に言い聞かせるまでの、長い長い時間だった。
「抱いて、ほしいの」
アイオロスは、少し驚いたような顔をしたが、この言葉を彼なりに飲み下し、腕で踊り子の肩を強く抱き締め、黒髪の中に頬と指をうずめた。しかし彼女は
「ちがうの。そういうのじゃないの」
と言う。そう言われるなり彼は手を離す。
「…オトナにして。あなたで、私を」
と踊り子が小さく言うのを
「え、でも」
アイオロスは当惑した顔で返した。そういう意味で言えば、彼もまだコドモなのである。聖闘士の世界では成人と同じ権力と執行力を持つが、聖域を離れれば、彼もまだ、成人というにはまだ中途半端に早い十四歳の少年だ。
「…」
不自然な沈黙が流れる。アイオロスは、彼女の申し出が冗談であることを期待し、踊り子は、アイオロスが自分の望みを聞き取ってくれると信じている。
その二人の上に、こんな言葉が聞こえ、二人は思わず天井を見上げた。
『その契りをば、妾が嘉そうぞ』
途端、彼が抱えていた女神はふわりと浮き上がった。
『パラスが下僕よ、慕わしき愛神は既にお前らに金の矢を放った。妾の神意はこの家を包み、何人もこの内に入ることを許さぬ。パラスにも、泣いて邪魔をするような無粋なことはさせぬ。惑う事はない。それがお前たち二人にあてられた「運命」なれば』
女神はテーブルの上におり、それきり眠り出した。アイオロスは反射的に
「誰だ?」
と声に尋ねた。声は
『妾はオリンポスのヘラである』
と云い、もう聞こえなかった。
目を覚ましても、まだ夜は明けていなかったが、空は心なしか明るくなって見える。踊り子はアイオロスの胸板の上にくったりと寄り掛かって、寝息も立てずに眠っている。
外は静かだった。
「『賊狩り』は…一段落したのかな…」
天井を見上げて、彼はふと呟いた。しかし、
「こんなゆっくりしてる場合じゃない」
と踊り子の腕をつかみ、急ぎかつゆっくり彼女の身体を自分の上からのけた。
服を着ながら、ポケットからかちん、と何かが落ちた。
「何だこれ…指輪?」
こんなものを、ポケットに入れていた記憶などなかった。しかし、指輪の内側には自分の名前が刻印されている。
「この子にあげろって、ことなのかな」
どの指に入るだろうか、しばらく試しているうちに、するっと吸うように収まった指があった。
「これでいいのかな」
わからないことだらけで、アイオロスは首をかしげた。立ち上がって、振り向いた。踊り子はまだ、頬をほんのりと染めて、数時間前の記憶を反芻しているのか、微笑さえ浮かべながら、それでもすぐにはおきそうにない気配だ。
「さよならは…いえないな」
まだあらわになっている彼女の肩を覆うように、布団を直し
「まだ、肝心のことを言ってなかった」
そう思い直してみる。
「ずっと君が好きだ。これからも」
その言葉が、物音に目を覚ましても、邪魔をしてはいけないと眠っているふりをしていた踊り子の耳にとどいた。
やがて気配がなくなってから、うっすらと踊り子は目を開く。将来を誓う指にはめられた指輪に一度唇を押し当てて、あとは、枕に顔をふせて、声を殺して泣いた。