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「運命共同体?」
と、その少年だったアイオロスは気に掛かる台詞を繰り返した。
「それって、どういうこと?」
すると踊り子は
「それはまだ、私にもよくわからないの。
でも、こうしてあなたが仕事をさぼってここに来てくれるということもその中にはいっているのは確かなようよ」
と笑って彼の肩ごしに後ろを指さした。つられて振り向けば、背後に、苦虫をかみつぶした顔で、部下の参謀・エウゲニウスが立っていた。
「アイオロス様」
と、彼は剣を含んだ声でいう。
「教皇様のご用事が済みましたら、すぐ視察にお戻りくださいと、勅命にはあったはずでございますが」
「!」
アイオロスは言葉もなく慌てて立ち上がる。エウゲニウスは
「それをまあ、ほったらかしになさって、こんな場所に」
と言う。
「すまん、思い出した」
「決して来るのがいけないと言っているのではありません、くれぐれも自重をなさってほどほどにと」
「わかったわかった。大声を出すな」
アイオロスはエウゲニエスの背をぐいぐいと押しながら踊り子と主人にあいさつをして、店を出た。

「聞いたぞ」
さて、女神の降誕を、まるで自分のことのように喜びながら、サガが下に降りて来たときである。彼の前に、どこからともなくカノンが現れた。
「女神が降誕したそうじゃないか。新しい時代だなぁ」
とイヤミを含んで言うが、サガは何も聞かなかったような顔をして通り過ぎようとする。カノンは、そんなサガの聖衣のマントの端をとっ捕まえて
「今のうちだぞ」
と言った。サガが、
「何のことだ」
と言いながら振り向くと、
「…まだ赤ん坊に違いないからな。ちょっと首を締め上げりゃそれで済む。俺とお前の、野望の第一歩の血祭りといこうじゃないか」
しかし、カノンがこう言い終わらないうちに、サガの鉄拳が彼の顎に食い込んだ。さしものカノンも、のけ反って地にのめる。そのカノンの上に、サガの怒号が覆い被さる。
「カノン! もう一度言ってみろ!
…女神を殺すだと!
弟と思って、今までの体たらく見過ごして来てやったが、今度ばかりは聞き捨てならない!」
カノンはゆっくりと起き上がる。
「声が高いぞ。公にするまで、一切の他言は無用のことの筈だろう?
…まあいい」
そして、ニヤリと笑う。
「今のうちといえば、教皇もだな。
お前だって、アイオロスが選ばれたことを不満に思っているはずだ」
「そんなことはない。彼は本当に適任だと思う」
「俺はお前の『半身』だ。お前の無念が俺にはひしひしと伝わってくるぞ。
…お前が嫌だと言うのなら、俺がやっても構わない。
どうせ『汚れている』手だ。何とも思わん」
「黙れカノン!」
サガは、カノンの言葉を一気に撥ね除ける。
「何度言わせれば気が済む!
私も、無論お前も、女神を守るべき聖闘士ではないのか!
お前は、私にもしものことがあったら…」
そしていつものように諭そうとする。しかしカノンは聞き流す所をこの時は真正面に受けて切り返した。
「いいかげん正直になれ。お前の内にある本当のお前を認めろ。
 本当のお前まで、そんなに綺麗なはずがない。
 お前が『邪悪』と呼ぶもの、それは『欲望』と背中合わせだ。
生まれながら俺と等しく分かち合った『欲望』は、お前のなかにもあるんだぞ?」
「黙れ」
サガはカノンの言い分を聞きもせずに
「お前は悪魔だ!」
と怒鳴りつけた。
「悪魔をこれ以上、この聖域に置くわけにはいかない! スニオンに戒めてやる!」

「出せ! 俺が何をした!」
岬のはるか崖下、波が岩礁に容赦なく当たり砕けるその場所に、その岩牢はあった。
見世物の猿のように、牢の鉄柵にしがみつき、波の音に消されるまいと声の限り叫ぶカノンに、サガは冷たく
「…神意をもってのみ、その牢は開く。
 先刻の冒涜の言葉を心から悔い、女神に新たな忠誠を誓え。それでも女神がお前を許したまわぬというなら、朽ち果てるまでここで許しを乞うがいい」
と云い、踵を返した。
「黙れ、この偽善者が!
 俺はその化けの皮を剥がさずにおくものか!」
カンは牢の中から口汚くサガを罵るが、自由にならない場所からではただの負け惜しみとしか聞こえない。
「神の与えたもうたこの力を、自らのために使って罰せられるいわれはない!
力あるものが、どうしてもつ力を隠さねばならない!
何もできない赤ん坊に土下座をするなど、俺は真っ平だ!
俺はいつかきっと、お前の悪を呼び覚ましてやる!
お前の心を俺と同じ悪で満たしてやる!
その姿こそ、本当のお前だ!
忘れるな、サガ!
それにも屈しぬという自信があるのなら勝手にしろ!
このカノンが、自らこの牢を破って地上を手に入れてみせる!
お前より早くな!
その時になって、吠え面をかくなよ!」
とうとう実力派宣言になったカノンの罵りを波の合間の切れ切れに背中で聞きながら、サガは崖を登っていった。

 カノンは、初め数日のうちこそ、岩牢からどう出たものかと試行錯誤を繰り返していたが、岩牢の中は、息苦しいほどの大きな「気」が満ちている。
 息苦しいほどの更生を促す空気にも、カノンはそれを女神のものと信じず、抵抗をし続けていたので、その数日目も暮れ、目がすっかり役立たずになる時間には、身体の傷が潮に洗われる痛みも鬱陶しくなるほど疲れ果ててしまった。
ちょうど潮は引いていた頃合だったので、頭を出していた平らな岩に彼はぐったりと上半身を預けながら、
「一体俺が何をしたんだ」
と呟いた。下弦をすぎた細い月が、海面低く現れて来ていた。
カノンは、どうやってこの岩牢を抜け出して、サガに仕返しをしてやろうかと考えていたが、彼がこんなにくたびれているにも拘らず、岩牢の鉄柵は抜けるどころか曲がる気配さえない。
「畜生」
と、真っ正面にいないサガに毒づいた所でハスキーな女の声が聞こえて来た。
『悔しくて?』
カノンはふと身体をもたげて
「だれだ?」
と、岩牢の向こうの暗闇に尋ねた。しかし、誰かがいる気配は確かにしているのに、返事はなく、潮が砕ける音だけが返って来る。
彼は膝ほどの下に溜まった潮を這うようにして鉄柵にしがみつき、
「誰だ、姿を見せろ! …出してくれるのか!」
と哀れじみて言う。すると女の声は
『私はアナタのそばにいてよ。…奥の暗がりをご覧なさいな』
と返す。彼が言う通りに振り向くと、若い女の顔と白い手とが、闇に浮き上がった。薄ら笑いで
『ご愁傷様なことね、ぼうや』
とその唇が動く。
「お前は?」
とカノンはアッケにとられている。
『人間だとお思い?』
女は言う。
『アナタが可哀想で、わざわざ地下深いハーデスからこんな眩しいところにまで出て来てやったのよ。
私はヘカテ。名前ぐらいは知っているわよね』
「ヘカテ」
昔の、アテナも及ばない、古い女神の名前だ。
『自分に正直なのに、こんなバカな目にあっているのが見ていられなくて』
カノンは、女神ヘカテと自ら名乗るこの女に
「常盤の神が、この岩牢に何の用だ」
と尋ねる。
『…もっと言葉をお勉強なさいな。
ここを出ることもできないアナタに変わってその恨み、晴らしてあげようかと思って来たのに』
ヘカテはそう言ったが、気分は害していないようだ。
『あのいい子ちゃんぶる兄弟に泣き目を味わわせたいのでしょう?』
とカノンに近寄って来る。
「できるのか?」
そのカノンも、気が彼女のほうに向く。
『人間がいなくちゃ何もできないアテナなんて小娘と一緒にしないでちょうだい。
まあその小娘にシッポ振ってるアナタ達もアナタ達だけど』
ヘカテはこうグリンして
『ごめんなさいね、アナタ聖闘士なのに』
と口で謝りつつも悪びれない。カノンはそれに
「構わない。金輪際縁が切れても未練なんてない」
と答える。
『あ、そう。
…ところでぼうや、アナタここから出たいわよね?』
「何か方法があるのか?」
ヘカテが耳寄りなことを言い、それにカノンが乗ろうと身を乗り出したその時、彼の座っていた岩にザ、と音を立てて、波が当たり、彼の膝を濡らした。
「ち、また潮が」
とカノンは舌打ちをする。
『仕方ないわよ、もうすぐ新月で干満の差が激しいんだもの。
でもね、この潮は夜明けにはまた引くわ。そしたら、あそこの…』
へカテはもともと自分のいた奥を指す。
『あの辺りをよく調べてごらんなさい。何かいいことがきっとあるわ。
兄弟のことは私に任せなさい、可愛い坊や。お礼は要らないわ』
そして、彼の頬に一つ接吻して、
『あら潮からい』
と笑いながら消えた。

 その夜のあけ切らぬ頃。
 女子区、ヘリオドーラの家。彼女は、傍らのサガのすさまじい苦悶の声で跳ね起きた。
「サガ様?」
と揺り起こす。彼は眠っているようでも起きているようでもなかったが、唸りながら白目をむいて、手で空を掻いている。
「どうなさいました、サガ様!」
ヘリオドーラはなおもサガを揺り起こそうとする。
しかし、慌てたうえに人を呼べないのだから、不安は増してある。
 どんな目的であれ、女子区に男を招き入れることは、その男がどのような存在でも、双方共に厳しく罰せられるのがしきたりだ。
 しかし、サガはそのしきたりを前にひるまなかった。自ら範をたれるべき存在が、そのしきたりすら敵にして自分のもとにやってくる。ヘリオドーラは、そんな珍しく向こう見ずなサガの振る舞いにとろけてしまったのだ。その目的は、あらためてここで述べ立てることではない。
 とにかく、彼女の手に負えなくおろおろするばかりのところに
『さあ、自分に素直におなり、可愛い子…』
とおどろしい女の声が響いた。
「誰!?」
ヘリオドーラは叫んだ。しかし
『アテナの犬の、しかもその膝元にありながら、一糸まとわぬ四肢からめあってキュプリス(筆者注・女神アフロディーテのこと)を信奉する輩に名乗るような名は持ち合わせておらぬ!』
女の声は答えて、それきり静まる。そして、時同じく、サガもその苦しみから解放されたようだった。

「サガ様」
ヘリオドーラは、奥から水の容器と布をもって来て、彼の身体中の脂汗を拭っていた。
「何が、起こったのでございます?」
と尋ねるが、サガは眠っているようだった。返事はない。
「一体あの声は誰のものかしら。人間のものかしら」
ヘリオドーラはうつむいて、そんなことを思った。サガから目を離していた、その時である。
「ヘリオドーラ」
とサガの声がして、彼女は顔を上げた。上げたはいいが、彼の有り様に言葉を失った。
 清水に照り返る日の光のような、彼の銀の髪は闇に同化して、瞳は鈍い赤い光をたたえて、顔には、それまで絶えなかった天使のような柔らかさなどかけらも失せて、不敵に歪んでいる。
 これがあのサガなのか、ヘリオドーラは総毛だち、その場から動けなくなった。
「来い」
彼女の知らないサガはヘリオドーラに手を差し伸べたが、彼女は無意識に身を引いていた。すると、彼はヘリオドーラの手をつかむや、無理やりに寝台に引き上げた。抱きすくめられ、彼の変貌に脅えるヘリオドーラの瞳を、赤い瞳のサガの視線が射抜いた。
「怖いことは、何もない。これも私だ」
瞬間ヘリオドーラは、自分は見てはいけないものを見たと思った。逃げようとするその腕を取り、身体にからめ取り、震える彼女の顎に、赤い瞳のサガは手をかけて言う。
「脅えるか」
と、彼女の身体の震えを笑って
「一興、そういうお前も楽しかろう」
と彼女を寝台の上に投げ出して、容赦なくその上に覆い被さった。

 「サガ様はこんな方ではない。私は、何か悪い夢でも見ているのだ」
ヘリオドーラは自部下に言い聞かせていた。しかし現に、寝台が二人の重さとその動きに、軋んでいる。無理やりな行為を要求され、ヘリオドーラの身体が悲鳴を上げている。
 姿形の多少の変化があっても、その人物がサガであることは、自分の体が一番知っている。その愛着には抗えなかった。刺激が背骨から脳を突き上げ、彼女は絞り上げるような細い声を上げながら、シーツを握り締めていた。

 そして目を覚ましたときには、もう彼の姿はない。それどころか、23日たっても、何の音沙汰もない。サガは、完全に行方をくらませてしまった。
 クリュメノスの家でも大々的に捜索の手がのび、部下であるヘリオドーラも、昨今のサガの様子に不審なところはなかったか、何度も問いただされた。しかし、彼女はかぶりを振ることしかできなかった。きっと黒髪のサガが失踪のカギを握っていることは思い当たったが、それを口にすることは、自分だけではない、帰ってきたときのサガを、女子区のしきたりで罰せねばなせないのだ。
「サガ様はきっと、密命をいただいて、それを処理するために、しばらくここにいないだけなのだ。
 待ってさえいれば、何もなかったように帰ってきて、あの夜のように、天使の振る舞いの裏に隠した情熱で、自分をいつくしんでくれるに違いない」
ヘリオドーラは、仮面の下の乙女心を尽くして、サガが再び現れることを祈っていた。

 そんなころ。
当のサガは、スターヒルで、心臓を彼に貫かれて息絶えたシオン教皇を見下ろしていた。
「余計な気を回しおって」
と毒づきながら、サガはシオンから法衣を剥ぎ取って、聖衣のうえにそれを纏う。
「カノンよ。
私とお前と、どちらが先に地上を手にいれるか、競争しようではないか。
私は一足先に女神の首を取ってやるぞ」
そして高笑いするそのサガの背後には、ヘカテが、朧に浮かんだ闇のなかで、妖艶な笑みを浮かべていた。

教皇に例のことの再考を訴えようとしたアイオロスだったが、サガがいなくては話にならない。数日来あったはずの彼の姿が今日に限って見えないのを不思議に思ってその部下に行方を尋ねてみたところ、
「それなのですが、」
と部下は困った顔をして、かえって、いなくて困っていたところで心辺りはないか伺うところだったという。
詳しく聞けば、昨日は、私用で実家に向かうと言ったが、そのまま留まった様子も宮に帰った様子もないという。
「何か、内々の勅命が下ったのだろうな」
とアイオロスは間抜けたことを言って、そのときはそれで済んだ。


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