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 サガの不在をさして不審にも想わず23日過ぎたある夜のこと、聖域内の小宇宙の均衡が微妙に変わっているような心地がして、アイオロスは起き上がった。
 しかし、起き上がってみれば、それが嘘のように静まり、いつものような森閑とした夜の闇。アイオロスは肌にうっすら沸いた冷えた脂汗に違和感を覚えながら、
「どっか、調子でも悪いかな」
と呟いて、また布団の中に潜ろうとした。しかし次の瞬間、またも小宇宙がドン、と突然変化したのには眠気も吹っ飛んで驚いた。
「賊!」

 人馬宮広間の聖衣の前で、聖闘士ならば気がついてしかるべきの、肌にピリピリと凶々しさを感じながら、その他十二宮にいる筈の黄金聖闘士たちの小宇宙に何の動静がないのを不思議に思っていたところに、
「アイオロス!」
と誰か入って来た。見れば、教皇が直々に育てている未来の牡羊座の聖闘士、ムウ。
「こんな夜分どうかしたのですか? 貴方の小宇宙をあまりに激しく感じて飛んで来たのですが」
とムウが問いかけると、アイオロスは
「教皇のご様子はどうだ」
と聞き返した。それに、ムウは緑色の瞳をくるっときらめかせ、
「師は、普段なら、とっくにお寝みになられていますが」
と答えた。
「この容易ならざる気配…お気付きでしょう? 聖衣を受けていない私が、白羊宮で感じた変化を、人馬宮のあなたが気がつかないはずがない」
「他に、誰が気がついているのがいるか?」
「私と、貴方と、黄金聖闘士の若干は気付かぬふりをして、その他は全くと言って過言はないと」
二人がそう言っている間にも、凶々しい気配は一層高まって行く。
「アイオロス、行くならば私は止めません。
 ご存知のとおり、この小宇宙は教皇、そして私の師のものではありません。真実は貴方のその目で見られるべきです。…心して」

 誰かが教皇になりすましているのなら、その意図はただ一つ。
 今は御座所にまします、教皇のみが見えること適う女神アテナ!
 女神の身が!
 そう思いながら御座所に駆け込んだアイオロスが見たものは、今しも揺り篭の中に眠る幼い女神の上に、明りに鈍く光る黄金の短剣を突き立てんとかざす教皇の後ろ姿だった。
「教皇!」
アイオロスはその短剣を握り締める教皇の手を押さえた。
「…お気は確かですか、教皇!」
驚きの余りの浅い呼吸の中でアイオロスが言うと、教皇は無言でその手を振り払い、短剣を女神に突き立てた。しかし、そうなったのは空しくも揺り篭の中の布団だけ、女神の身体は間一髪、おくるみごとアイオロスに掬い上げられた。
「教皇、目をお覚ましください、御身の為さんとするところがわかっておいでか!
二百年毎に天帝ゼウスがお下しあそばするアテナ女神、それを!」
しかし、教皇はそれを最後まで聞こうともせずに
「アイオロス! 邪魔をするな!」
と怒鳴りながら彼に抱えられた女神に短剣を振り上げた。しかし、アイオロスはその手を振り払う。手刀で短剣を払い落とされ、体勢をくずした教皇の頭からマスクがずり落ち、石の床に鈍い音を立てた。
 そこでアイオロスは、彼の顔を見て出すべき言葉を失う。
「…う、嘘だ…」
 教皇は法衣のたっぷりした袖で、顔を隠そうとしたが、既に遅いと悟ったらしい、すぐに開き直って立ち上がり、愕然としたアイオロスの目を見据えた。
「サガ、お前がなぜ」
アイオロスはやっとこれだけ口に出せたが、しかし、そう呼んでいいのかとすぐに思い直した。確かに顔の部品は紛うことなくサガのものである。しかし、その表情は普段彼では考えられないような邪悪な雰囲気に歪み、瞳は不気味な赤い光を湛え、清水に照り返る日の光のような銀色の髪は、闇の黒を呈している。
 教皇…否サガはこの非道を認めたような顔をしているどころか笑みさえ浮かべて
「文句はシオンの老いぼれに言うがいい」
と言った。
「まさに愚かよ。あのような無能を今まで教皇として仰いでおったとはな。
自らの愚かしさに、煙たがられながらもあと2、3年は保ったであろう命を無駄にしたとは」
さらに、
「どうして私が、お前の下に甘んじねばならぬのだ?
幼い頃から黄金聖闘士となってしかりと望まれて、人知れず努力もし、私欲を隠して人に尽し、天使とまで讃えられたこの私が、どうして、実力にも人望にも劣るお前に従わねばならぬ!」
とアイオロスに食ってかかる。
「しかしあのシオンはぬかしたのよ、私には隠れた邪悪が潜んでおるとな!
全ての者が持ち、私が抑えるのに苦労をしてきた欲望を、私しか持たぬ邪悪と見誤ったのだ! 私は馬鹿らしくなった。私のようなできた人格を退け、煩悩にまみれたお前が栄えある位を手に入れると知って、私は何を知ったか!
報われぬ善行はしないがましということだ!
…アイオロス」
サガはさらに彼に指さし、
「お前は確か、シオンから教皇を譲られることを戸惑っておったよな?
 早すぎる、と。
 ならば、あの無能がそのまま保持しておっても宝の持ち腐れだ、私が請け負うことに異論はないな?」
と言う。その指先にはみるみる小宇宙が集まって行く。アイオロスは
「そんな馬鹿な理屈がまかり通ってたまるか!」
と言おうとしたが、その声を出すための息も継げなかった。

 サガの指先から迸った衝撃は真っ直ぐアイオロスに向けられる。彼はそれを真面に受けたかに見えたが、しかし、粉々に砕け散ったのは彼の背後にあった壁だけ、アイオロスは瓦礫に紛れて外へと飛び出した後だった。
 アイオロスは何がなんだか夢中だった。ただ気がつけば、腕にしっかりと女神を抱えて、人馬宮に帰って来ていた。
 広間には心配顔のムウと、黄金の翼を広げ、構えた矢で虚空に狙いを定める聖衣。アイオロスは、ムウの腕に女神を預けるなり、そばの壁を壊す。出て来た下地にかけらを取って何かを彫りつけながら、彼は
 「教皇、私は、貴方の後は退任に過ぎます。
 なんとなれば、今ある異変を、感じ取ることができなかった。
 しかし、苟も聖闘士、正義のためには自らの命など惜しむなとの教訓を遺すことはできます。
 後世いかに罵られようと女神は私が命を賭してお守り申し上げます。
 遺されたものに、こういう方法でしかものを言ってやれない私をお許しください…」
 と語り、そして向き直る。
「ムウ、大変なことが起こった。きっと、聖闘士の歴史が始まって未曾有のことだと思う。俺はこれから、女神を連れて聖域を出る。このお方にとって最も安全であるべき聖域が、最も危険な所だったとは…俺も信じたくはないが、それが現実なんだ。
 今の聖域は、おおよそ女神がご成長なさるにはふさわしくない。お前は、俺のこの言葉を、いつか現れる真の女神の聖闘士に伝えてほしいのだ」
壁を指され、その文面を見、ムウは
 「わかりました。必ず」
 と気丈な返答をした。そして、その壁に指をかざす。壁のかけらは、すべてがふわりと浮き上がり、何分もたたないうちに、ひびひとつ残らない壁に戻る。アイオロスはそれに安堵の表情をして、それから聖衣に
 「俺にもしものことがあるのなら、俺の持つ小宇宙は全てお前が受け取ってくれ。そしていつか、女神がご成長あそばされた暁、ご自身が、もしくはあの方を力の限り守るという者が現れたのなら、惜しむことはない、その力を貸してやってくれ。
 俺、おまえが相棒でよかったぞ」
 聖衣はこれに対して、もとより何も言わなかったが、心なくも彼の心情が感じられるのか、輝きが少し淋しそうだった。

 聖衣を収めた黄金のパンドーラ・ボックスを担ぎ、ムウの手から女神を受け取ったアイオロスは、ムウから
「宮の回りはもう追っ手で一杯のはずです。人の声が聞こえるでしょう?突破の援護をしましょうか?」
と言われたが、
「いやいい、これ以上俺に係わるな」
と言った。そして、ムウの頭にぽん、と手を置き、
「きっと、牡羊座の聖衣は、お前に従うだろう。それだけの実力は、もうあると思っている。
 いい聖闘士になれよ」
と言った。ムウは、その言葉に詰まるものがあったのだろう、一度声を詰まらせて、
「…はい」
とだけ答えた。
「俺が出れば、宮のことなど、誰も気にしないだろう。気配を殺して、静まったら、帰れ」
「はい」
ムウの返答を、しっかりと受けて、
「では、参りますよ、女神」
アイオロスは下り階段のある方向に、一直線に入っていった。


 既に宮のぐるり四方は雑兵達に囲まれていた。アイオロスは
「これが所謂四面楚歌ってやつか」
と軽口を叩いて石畳を蹴り上がった。何重もの人垣を軽々と飛び越えられて雑兵達は手の施し様もなかった様子、やっとまとめ役の
「馬鹿もの、動け、取り押さえるんだ!」
の号令一下、槍が彼の後を追って来た。アイオロスは背に腕にこれらの傷を追いながら、十二宮の石段から横道にそれた。
 十二宮と教皇の間、アテナ神殿は険しい連丘の尾根づたいに作られている。一歩階段をそれればそこは切り立った崖、雑兵達如きに追って来られるような場所ではなかった。

 しかし、そうして平坦な場所についてからは、道々雑兵達の手痛い挨拶にやや辟易してきた。岩陰に身を隠し、当座の行く先を考える。
「とりあえず、このほとぼりが冷めるまでゆっくりできる所は…」
自然と、アイオロスの足は、東へと向かっていた。ゴルゴニオの家があることを思い出したのだ。彼女なら、きっと自分の話をわかってくれる。アイオロスはそう思って、ひたすらに、聖域を駆けた。
 聖域東部、一般区と女聖闘士などが暮らす女子区の間の緩衝地帯。ここにその老ゴルゴニオの家があった。
 ゴルゴニオも、声域にあった大事変の解析のためにでも駆り出されているのだろう、家の中はは暗かった。
 しかし、折よく鍵の開いている窓があったので、アイオロスはそこから中に転がり込んだ。

 主不在の家とわかっていれば、誰もここにアイオロスがいるとは思うまい。さて一安心、でもこれからどうしよう。
 そう思っていた所に、突然ロウソクのほのかな明りと聞き慣れた声。
「だあれ?」
ふとその方を向けば、ロウソクの明かりに照らされた、踊り子の驚いた顔。
「…」
 彼女は何事かとアッケに取られて声も出ない。それはアイオロスにも言えたことで、やっと振り絞った一言は
「ここ…君の部屋…?」
 だった。


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