
通された部屋は、ちょうど鎧戸を明けたばかりの陽光に溢れた、埃一つない小綺麗な部屋だった。
部屋の調度も色調も、決して華美に走ることもなく、住んでいる(あるいはいた)人の趣味が大体推し量れる、言ってしまえばあの自分の知る領主が知り合うにはもったいないほど趣味のいい人であろうとルーナは思った。
暖炉の上には肖像が飾ってある。部屋と同じようにつつましい衣装の可憐な娘が描いてあり、その額には、カスタロイの山羊角の紋章「ゴウト・ホーン」が掘り込まれている。
「この人は?」
ケティ・ダビーナは
「この館のご主人でらっしゃいます」
とだけ答えた。
「だれが描いたの?」
「領主おん自らのお手によるもので」
「あの人、絵をやるの」
「先代様の秘蔵っ子で、領主は騎士階級の男子たる教養を一通りは授かっております。
この館も、領主おん自ら設計なさりました。
ご領主が心底悪どいかたでらっしゃるならば、この方のためにどうしてここまで致しましょう」
ケティ・ダビーナは中断した話を繋ぐように言った。
「領主がいかにしてその方をお知りになり、この館をお建てになったのか、そこに至るまでは領主のご両親から話を始めねばなりません。
このアリッサの街は、以前はエニアリと呼ばれておりました。そのころ、この街を治めていらしたのは、領主の先代様となるカール様でした。バルバロッサ様はカールさまの、後にも先にもたった1人のお子様です。
ご母堂様はドルシネア様とおっしゃしまして土地のさる名士のお嬢様でおられました。…ええ、あの子のお名前はこちらから…
ご母堂様は第一夫人ではございませんでした。正夫人として、王族の血を持つ方が居られましたが、その方を差し置かれて、並々ならぬご寵愛をなさったということでございます。バルバロッサ様ははそのご寵愛の賜物でございましたが、ご母堂様は産後の病で呆気なくこの世を去っておしまいになりました。
バルバロッサ様は正夫人様に預けられましたが、あちらにとっては先代様の寵を果てもなく争うた女の産み遺した子、快く想うはずもありませなんだが、先代様の命とありますれば致し方もなく、大勢の兵士と侍女と神官を領主に宛てがい、ご自分は決して直に手を出すことはなく、バルバロッサ様ははこの私邸の中で偽善と追従に明け暮れる日々をお過ごしになりました。その中で救いになったのは、最も愛したお方の忘れ形見と、領主をそれこそ掌中の玉と慈しまれた先代様の存在でございました。あのかたはご自分の持つすべての思想と知識と技術を領主にお授けになりました。民の声を聞くことも大事な政と、常におっしゃっておりました先代様は、よく領主を伴って巷にお忍びになり、領主に民の言葉を聞かせて参りました。現在でも領主はこのお忍びをなさいます。これが、この館の立つ原因ともなり、あのドルシネアを引き取る原因ともなったのです。
バルバロッサ様が16才のころであったかと思います。あの海の向こうから、蛮賊が兵をたてて来ましたおり、先代様のお供として領主も将兵らと果敢に戦い、敵の将の首を上げたことを国王が初陣ながらといたく感じ入られ、帯刀されていた剣を下賜され、騎士を名乗ることをお許しになりました。それを機に先代様はカスタロイ家の当主の座をお譲りになり、隠居の身となられました。
そのバルバロッサ様が、最初に当主として命令を下されたのが、この館の建設だったのです。
というのも、このころのあの方は、先代様に伴われてのお忍びのほかにも、ご自分だけのお忍びをなさる機会がしばしばとなりました。それもトラム殿をひとりつれただけのお忍びです、誰にも内緒のことでしたので、先代様も正夫人様も、誰もこの奇行の理由を知る方はありませんでした。
当時、私だけがその理由を知っていたのです。バルバロッサ様は
『おまえを第一の侍女として信頼する、今から言うことは絶対に口外するな』
とおっしゃられ、この方の存在をお話しくださったのです」
ケティ・ダビーナは、暖炉の上の肖像の娘を見上げた。
「このお方の名前をアリッサ・アペローとおっしゃいます。領主館にちかいファーティマの盛り場のある酒場の下働きの娘だとおっしゃっておられました。
『正夫人に彼女を迎えたい、よろこんでくれるか』
とお尋ねになります。私はしばらく、何といっていいものか、言葉をなくしておりました。
きっと、ご身分を隠して付き合われる巷のご友人に連れられてたまたまその酒場に入ったのでしょう。愛らしい、気立ての良い、けして盛り場の空気に染まらぬアリッサ様に、お優しいと可憐であったと先代様から話を聞くだけの亡きご母堂慈媛様を写し、お忍びを重ねるうちに深く想うようになったのでしょう。思えば、不思議な巡り合わせでございます。先代様に大変慈しまれていたとは言え、所詮父と母では子の愛し方は違います。しかしバルバロッサ様は、私を含めた侍女の誰にも、母の代わりを見いだされることはなかったようでしたのに。
とまれ、バルバロッサ様からことの異存を問われ、私は
『貴方様がお選びになるお方でしたらば、どのような方でありましょうとも喜んでお仕えさせていただきます』
と答えました。領主はまるで小さな子供がはにかむように喜ばれて、アリッサ様を迎えるための用意のことなどを私に相談なさるようになりました。
そのうちこの館もできあがり、そのときバルバロッサ様は、初めてご家族や部下一同に、ご自分が奥方にされたいアリッサ様のことを打ち明けられました。もちろん、その素性も隠さず。
部下の中にも異存が有るものが若干はあったでしょう、しかし大部分は領主のお優しいご性格をよく存じ上げる者ばかり、一も二もなく承知して、先代様も
『それでお前がよいと思うなら、喜んで彼女を義娘として迎えよう』
とおっしゃって下さりました。おさまらないのは正夫人様のみと、聞き及んでおります。
『今まで育ててやった恩も忘れて、どこの馬の骨か牛の骨かも知らぬ小娘を妻にしようとは、カスタロイの血を汚すつもりか』
と、ええ…それは大したお怒りようと。家督を譲れば、先代といえども、当主より一歩ひかえねばなりません。正夫人もまたしかり。王族の枝葉という誇りにかけて、酒場の下働きを目上と崇めることは許せなかったのでしょう。
どうかこうかのうちに、領主はとうとう独断で私邸にありますこの館にアリッサ様をお迎えいたしましたが、義理のお母上に当たる正夫人様の猛反対で満足にお式もあげられず、お披露目も出来ない状態でありました。式が挙げられないのでは王に謁見することも適いません。バルバロッサ様はアリッサ様を妻と選ばれたのを一時は大変後悔なさったようでした。一部のものからよせられる揶揄と中傷は、どんなに自分が楯になっても、アリッサ様を無傷で置くことは出来ない、と。アリッサ様が私に、『自分を守ってあげられないと、バルバロッサが泣きます。私はあの方の側にいられるだけで幸せなのに』とおっしゃられていたことを、今でもおもいだされます。きっとアリッサ様を幸せにさせられぬ領主の、ご自分を呵責する涙は、アリッサ様だけがご存じなのかも知れません。
やがて、事情をお聞きになったフォーチュナーのジャーヌス様をはじめとした、若い廷臣のかたがたが事情をお察しになりました。そのかたがたの必死の説得とご尽力で、ようやく領主方二人と、そのご友人の間だけのささやかなお式が挙げられる所までこぎつけることができました。その頃にはすでにもうアリッサ様はご懐妊が確認されて、お二人が平凡な夫婦でらっしゃるならば、そのときが一番の幸せの絶頂でありましたでしょう。
しかし、アリッサ様はそのお式の朝を、お健やかにお迎えは出来ませんでした。
侍女も、神官も、バルバロッサ様がお付けした医師も、誰もが身籠られたお子様にお体が耐えられることも出来ず、結果心の臓が止まってしまわれたものと信じて疑いもしませんでした。ところが、亡くなられたアリッサ様をまず発見した侍女が申しました。
『確か、大奥様が、特別に取り寄せたお薬が先日とどけられて。大奥様付きの医師のおっしゃるには悪心がおひどいときには飲ませるようにということでした。ですから、昨夜はどうもお辛いようでしたので差し上げたのです。そのときはすぐに治まられてお休みになりましたので…』
バルバロッサ様は、侍女が罪を感じることの無いよう、優しく諭された上で、お薬を調合された医師は手ずから二目も当てられぬほどに打ちなして、あまつさえそのアリッサさまに差し上げたという薬で死に至らしめました。
お聡い貴女様ならばもうお解りかとは存じますが、アリッサ様を目上といただくことにあれほど抗いました正夫人様ならば、薬と称して毒を調達ということも難しいことではございますまい。最終的な責任を問われた正夫人様でしたが、あの方はご実家にお帰りになって、それきり、ということでございます。
この…、アリッサ様が領主のもとでお幸せに暮らされるはずだったこの館は、今はあの方の思い出をそのまま封じ込めたものとして、鍵は領主と私だけが持ち、決して他に開けさせることはありません。領主があの方らしいお優しさを見せたのは、アリッサ様追悼の意味でそのお名前をこの地に冠したのが最後だと覚えております。あのときを限りに、公にはお優しい心を隠し、もっぱら夷族征伐を王から承るようになり、今では誰もが『冷血』という名を冠して止みません。ですが、時々領主は征伐から帰られておっしゃいます。
『また罪のない子供達が、親を無くし住む家を無くし、飢え凍えて泣いている。あの子らにその運命を強いたのはこの私だ。この罪を、恐らく神は、私が死ぬまで許しはしないだろう。』
その度に私には、あのころ、ふだん誰の前でも毅然としておられた領主が、アリッサ様のことになると年端も行かぬ子供のように一喜一憂するお顔を思い出し忘れられません」
そこまで言って、ケティ・ダビーナは目頭を拭った。
「貴女様がどのようなご素性なのか、この私には知る由もありませんが、」
そして続ける。
「アリッサ様とは格段のご身分でらっしゃるはずです。どうか、領主のご心情察されてくださいまし」
深く頭を下げられて、ルーナも戸惑う。探るつもりの無かったバルバロッサの古傷は、ルーナが思っていたほど深く、そして未だ癒えていないのだ。
不自然な沈黙が流れる。しかし、その沈黙が、ドルシネアの声で破られた。
「ケティ、おにいちゃまがかえってきたわ! ここにいたらおこられるわよ!」
「まあ、お迎えをせねば」
とケティ・ダビーナは慌てて鎧戸を閉めて、
「お早くお出になってください、私といえど領主はここにこ人を入れたことをお怒りに」
と、ルーナの背をぐいぐいと押して館の外に押し出し、鍵をかけるや足早に、邸宅の中に入ってゆく。
それを一緒に見送って、ドルシネアはルーナを見上げた。
「おにいちゃまはひどいのよ」
と言った。
「こんなすてきなおうち、わたしにちょうだいっていったらだめだって…
どうしてっていったら、ここにはあとでおにいちゃまのおよめさんがすむんだって。
かしこくて、きれいで、やさしいひとだから、きっとドルシネアをきにいってくれるよっていったの。
だから、わたし、およめさんがきたらね、ほんよんでくれたりいっしょにあそんでくれたりしてくれるかもしれないから、いいこになるってやくそくしたの」
「そうですか」
ルーナは、それだけしかいえなかった。
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