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 「領主のご帰還!」
と衛兵が告げるのもじれったい様子で、バルバロッサはルーナを抱えて館の中に入って来た。ジルがその後を走るようについてくる。
「メディア! とうとう『見返り翡翆』を手にいれたぞ」
と子供のような歓声を上げて、彼は勝手知った館の中を闊歩してゆく。やがて飛び出してきたメディアに
「仮眠室の周りに人払いをかけろ。メディアもジルも、俺が呼ぶまで入ってくるな、いいな」
 寝台だけある部屋に入れられ、その上にぽいと投げ出されて、やっとルーナは体の自由を取り戻した。バルバロッサが地下ずくと、ルーナは彼と一定距離を保つように後ずさりする。しかし気丈に顔は上げたままで、きっとバルバロッサを見上げていた。
「そんな顔をするものじゃない」
声だけは穏やかに、しかし表情には不敵なものを込めて、バルバロッサはそう言った。
「少なくとも、これから男に抱かれようとしている女なら、そんな仏頂面はしないものだ…まぁ、お前の場合どんな顔も可愛い」
「私は、あなたに自由にされるためだけに、ここに来たわけではありません」
「しかし、余計な話は今は必要ない、そうじゃないか?」
バルバロッサは、すぐにはルーナに手を出さない。投げ出したルーナの肢体を、上から下まで、なめるように眺めていた。
「ジルから…話を聞いているのです」
「話?」
「これまでもこうして、禁を犯してなにも知らない導師達が…その手にかけられて…私がこうして貴方の目の前にやって来るまで、何人もの娘たちが貴方のために傷を負いました。
 領主館に詰めておられるトラム様を始めとした官吏の皆さま、神殿の神官様、誰もが、あなたが知って罪を重ねていることに、心を痛めているのです。
 その原因となったのが私です。満足ですか、大勢の女性達の怨嗟の声に包まれながら、やっと見つけた私を抱くことが」
「ああ、この上も無く満足だな」
バルバロッサがにやり、と笑う。寝台の、ルーナの傍らにゆったりと身を預け、次の瞬間、ルーナは振り払う隙も無く抱きすくめられていた。ルーナの体がぐっと緊張する。
「…おや、覚悟はもうすんだのか」
バルバロッサがその耳元で独り言のように呟いた。彼の手の平の内には、導師の質素な服の下の柔らかい乳房がルーナの身体の動くままに弾んでいる。ルーナはそれにも気がついていたが、何も言わなかった。
 服をすべてとかれる。バルバロッサの目が、ぎらぎらと、服の下から出てくるルーナの肌を、なめるように見ていた。均整の取れた肢体。気丈な気性を包む肌には一点の淀みもなく、ただ象牙色の中に浮かぶ「見返り翡翆」が鮮やかにうつる。最初見たときにくらべてずいぶん短くなったが、それでも背をおおうほどに長い黒髪が肌の白さを引き立てる。バルバロッサはごくん、と唾を飲み込んだ。食指が動く。本能はもっと正直だ。
「これだ…」
とバルバロッサは嘆息するように呟いた。
「探し続けた甲斐があったぞ! お前に比べたら、今までの女などは屑だ」
 バルバロッサががむしゃらに絡みついてくる。ルーナはそれをされるままに受け入れ、心を閉ざすように目を瞑った。

 それからざっと二昼夜、領主の部屋からは誰も出て来なかった。ジルは食べもせず眠りもせずルーナの身を案じて扉の前に立っていた。
ルーナが連れられて来たのは夜更けのことであったから、三日目に入ってすぐの夜明けに、やっとジルの背後の扉が開いた。
「お嬢様」
そう言いかけて、扉を開けた主がバルバロッサだということに気がつくと、ジルはまた不安げな顔をした。バルバロッサはジルの顔を流すように見て
「ルーナは弟子を連れていたそうだな。師匠の代わりにトラムの家に仕えるように言っておく。ルーナはこのまま俺が預かる」
とだけ言った。メディアに湯の用意を言いつけながら、廊下を歩いてゆくバルバロッサとすれ違うようにして、ジルは部屋の中に駆け込む。ルーナは寝台の乱れたシーツの上に仰向けに横たわっていた。死んだように動かなかったが、死んだ訳ではなかった。
「お嬢様」
ルーナは、ぐったりと、意識を失っていた。おそらくバルバロッサは、このために外に出るつもりになったのだろう。分析している場合ではない。ジルはルーナの頬を軽くたたく。
「お嬢様」
ルーナはすぐには目を覚まさなかった。ジルが改めて、主人の様子を見る。
 黒髪は所々絡んでいた。肌は汗ばんで充血の箇所が目立ち、虚ろな瞳に涙がたまって、それは目尻からこぼれ落ち乾いて頬に跡を残していた。
この両日、主人が領主にどう遇されたかがよくわかりそうな、哀れな姿だ、とジルは思った。知らず涙を落とす。
「やはり領主にお嬢様のことをお教えするべきではなかった」
ジルは自責の念にかられた。ついでここまで主人をボロ雑巾のようになるまで無体を強要しておきながら、労いの言葉一つすらかけなかったであろう領主が恨めしかった。主人が見つかったら是非もなくこうなるだろうとわかっていながら恨めしかった。
ルーナの頬に涙が落ちた。ジルはルーナが目覚めようとしているのはわからなかったから、
「ジル…どうしたの?」
のルーナの声に我に返った。

 汗と体液で汚れた髪と体を、ジルは、ルーナが痛いというまで磨き上げた。それでも、湯に浸かるルーナの脇に控えながら、
「お嬢様…おいたわしい…」
と涙を落とす。ルーナがたしなめ顔に、
「何を泣いているの?」
と尋ねた。
「これが…お嬢様の運命だとしたら、なんてひどいのでしょう」
しゃくり上げながらやっと言うジルの手を、ルーナの濡れた手がそっと握る。
「ひどいなんてことないわ。私の運命はもう決まったの。決まった運命に、逆らうことは出来ない…心はもう誰かのものなのだもの」

 深夜突然の領主の奇行。領主が、どこからかつれてきた女性とすべてを投げ出した一時を過ごしたこと。そんなことがあまりにあからさまに行われたものだから、深く詮索するまでもなく、ルーナこそが領主が長らく求めていた女性だと周囲には納得されていた。邸内やその庭を歩く時、庭園を守る兵士も廊下を行く侍女も、立ち止まって会釈してくるのである。
 領主館から、バルバロッサの邸宅にその居場所を移され、その待遇は、ルーナがフォーチュナーでかしずかれていた以上の物かと思われた。この町の中においては、ルーナの身辺は自由きわまりないものだったといっていい。邸内は勿論、町の中も、今ではイェリコの仕えているトラムの邸にも、その気になれば逃げることさえ可能だったかもしれない。
 しかし、ルーナは逃げなかった。ただ囲われものになるためにここにきたわけではないのだ。エオルの処断の真相。彼女が知る限り、それについて話せるのは、バルバロッサしかいないのだから。今は、その話を切り出すための様子を伺う時間だと、ルーナは自分に言い聞かせていた。
 バルバロッサの屋敷は、じつに広かった。街から少し離れた場所の小高い丘一つが、まるまる彼の屋敷の庭になっていた。真ん中にバルバロッサの屋敷があり、周りを囲む庭の中にちいさな屋敷がいくつか点在し、その一つ一つを、それぞれに風情あるように、草花が飾っていた。ルーナは、その庭を歩くことは制限されていなかったが、一つだけ、バルバロッサの屋敷にいちばん近い建物にだけは、近づかないようにされていた。
 庭に出るときは、必ずその屋敷の前を通った。重厚で荘厳な他の建物とは打って変わって、繊細な雰囲気をもついわくありげな館だった。庭を探検し尽くしたルーナは、だんだんと、この屋敷に興味を移している。その日に限って、玄関を守る衛士はいなかった。禁じられることに限って食指が動くのが人情、いぜんこの人情に負けて口さがない人間たちの口の端に上ったことなど棚に上げて、ルーナはこの館に近づいてみた。窓という窓には鎧戸まで降ろされて、この館には人の生息する気配がない。ドアもまるで何かを閉じ込めるように、一分の隙すらありはしなかった。そこにたまたま通り掛かった兵士がいたので、ルーナは彼にこの館のことを尋ねた。
 今から数年ほど前に、領主の命令でここに建てられたものだというが、生憎その兵士はついこの間ここに来たものだからその子細までは分からないというようなことを言い、それからルーナに貴婦人への最敬礼を取っていずこかへと去っていく。
 確かなのはこの館と自分との間にはどうも何の因果も無さそうだということで、あの人にも人間らしく、知られたくない古傷の1つや2つあるだろう、と思った。トラムの娘にああまで穏やかな視線を投げられるのだ。あれが彼の本物だとしたら、冷酷にならざるを得ない、何か事情があるのだろう。しかし、教えてくれない限りは聞かないほうがいいのかもしれない。彼の機嫌を損ねれば、命さえ自分の自由にならない自分なのだから…
 そう思って、館の中にもどろうときびすをかえすと、いつの間にか女の子がいる。ルーナは一瞬肝を冷やした。
 年のころは五六歳とったところ、トラムの娘とあまりわからない。真っ青な瞳に明るい黄金の巻毛の愛らしいその子も、ルーナの反応に驚いた顔をした。しばらくの沈黙の後、女の子が尋ねてくる。
「おねぇちゃま、だあれ?」
まさか領主に囲われているものだとは言えなかったもので、ルーナは
「このお邸に新しく参りましたものです」
と答えた。まぁ、外れてもいないなと思った。
「わたしはドルシネアよ」
と女児は言って
「どうしてこんなところにいるの?」
と聞いた。
「はい。物珍しさに立ち歩いておりましたらばここに…」
「そう」
手に持っていた鞠をつきながらドルシネアは言った。ルーナはふと疑問に思って
「あの…貴女はひょっとして…ご領主の?」
と尋ねた。大凡似つかない風貌だったが、完全な“母系”だと言えなくもなかろう。バルバロッサは奥方を早くに無くしたことは聞いている。もし娘なら、こんなかわいい娘を放っている場合ではなかろう、とも思った。しかし、ドルシネアの返答は
「おにいちゃまはわたしのおとうちゃまでなくてよ」
と、あっさりしたものである。
「おにいちゃまはおにいちゃまよ。そうよびなさいっておっしゃったもの」
とはいえ、妹と解釈するにも不似合いな年に見えた。それにこんな年の離れた妹がいたなどついぞ聞いたこともない。ルーナは話の先が見えずに眉をひそめ小首を傾げた。そこに、ドルシネアの発言を補うような言葉がかけられる。
「その子は、このアリッサの巷に親も兄弟もなく捨てられた所を、領主おん自ら引き取られておりますものです」
侍女の筆頭、ケティ・ダビーナだった。
「ケティ」
とドルシネアは彼女に甘えつく。ケティ・ダビーナは突然現れた自分に言葉と表情を失っているルーナに
「差し出がましく言葉を挟みまして失礼極まりないことをお許しください」
と言った。ルーナは慌ててその言葉を否定して、
「ところで、子供を引き取っているって…一体どういうことですか?」
と尋ねた。ケティ・ダビーナは「はい」と言って
「貴女様のことはジルから話を聞いております。
 貴女様は領主をお恨みかとは存じますが、ですが、このドルシネアにとってはそんな領主もただ一人の肉親も同じ。可哀想にこの子は、身内をなくすときによほど怖い目にあったのでしょう、領主に引き取られる以前のことは何一つとして思い出そうとはいたしません。このドルシネアという名前も、領主がご自分のご母堂様のお名前をお与えになられたもので、あの方は、行く行くはこの子に良縁をも授けてやろうとおっしゃっております。
 領主は、お庭のお屋敷の一つを、そう言う身寄りない子のために解放されておりますし、いつかは、このようにかわいそうな子供を亡くすのが夢だと、おっしゃっております。
 私はあの方がまだ揺り籠のうちにおりますころからあのかたにお仕えしております。世間では、領主は異民族の征伐を進んで請け負い、戦上手と、冷血と言われますが…欲目と言われればそれまでですが、私には到底そうには思えないのです。
さればどうして…」
ケティ・ダビーナはその先を良いためらった。しかし、何か決心したように、ドルシネアを庭を守る兵士に預け、この姿が去るのを見届けてから、彼女はと言えば、服の隠しから鍵を取り出した。
「中にお入り遊ばしませ」


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