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 「そうか、言う気になったか」
バルバロッサはジルを前にして得たり、という顔をした。ジルはこっくりうなずいた。
「はい。
たとえお嬢様があの麗しい髪をお切りになろうとも、あらゆる術を用いてその顔の作りを変えましても、あの方のお胸に写ります翡翆だけは、お嬢様があの方と結ばれたということに誇りを持っていらっしゃる限り、自ら消すことはありますまい」
 ジルが説明したのは、ざっとこういうことである。
 ルーナの左胸、つまり心臓の上には一寸平方の四角い青がかった緑の印がある。それは術のかかった烙印で、その四角に縁取りされた中の翡翆は嵐の波の上に羽根を広げて風を滑り行く「見返り翡翆」というウィンダランドの紋章である。ルーナに限らず、左胸におされる結ばれる運命にある男の家の紋章の烙印はフォーチュナーの一族中に生まれた女児には必ず施される、いわばその女児の幸せな結婚を願うしきたりなのだと。
 幼い頃に押されたらく印は、すぐに消え、普通浮かぶことはめったにない。運命は存在しても縁が無いからだ。しかし、ルーナの胸には「見返り翡翠」がうかびあがった。それはルーナの運命の男との逢瀬が果たされた証しなのだ。
 幸運なルーナは運命と縁とを手にしたことになる。
「何故もっと早く言ってくれなんだ」
バルバロッサは複雑な声の表情で言った。それにジルは答える。
「折角主人が家の名誉と引き換えに手にいれた一導師という自由な身、楽しませずしてなんとしましょう」
「しかしそれも今限りだ! ルーナへの道がひらけたぞ」
バルバロッサが、そうして舞い上がっていた頃。ルーナは、アリッサの街に近づこうとしていた。

 ルーナの一行は二人と馬が二頭。一頭にはルーナが乗り、もう一頭には、弟子とした少年イェリコが乗る。町にはいると、もう夕方になろうとしていた。ルーナが
「今日はこの辺で休みましょう」
と言う。イェリコが
「先生、もう一つ先の町の方が、メレアグリアへの分岐点もあるし、いいとおもうのですが」
「ええ、そうしたいのだけど、この数日急ぎすぎて、馬がだいぶ参っていると思うの。
 今夜はここにしましょう」
「はいはい」
ちょうどそばに差しかかった宿の客引きに誘われて、今夜の宿を決めた二人、宿の者に馬と荷物を任せ、着替えも待たないイェリコの急かすままに夕食となった。
一番安い食事を二人分頼んだ所で、カウンターに座っていた赤い顔した商人風の中年男が言う。
「どうしたどうした、こんな若いお嬢さんが導師かい、世の中変わったねぇ」
「なに言ってんだい、この飲んだくれが、あんたよりもよっぽど頭ぁいいんだよ」
するとカウンターの女将が顔見知りらしいその男に言った。
「あんたの爺様が若い時とは違うんだよ。昔は女の導師といえば夜鷹の代名詞っぽく言われたけどね、今はたいしたもんなんだよ。あんただってわかってるじゃないか。
…お待ちどう、二人分だね、坊やのは大盛りにしといたよ」
宿場らしい垢抜け様の二人のやり取りに思わず引き込まれていたルーナらの目の前にいつの間にか食事が並んでいた。
 さくさくと食事がすすむ。ルーナは興味深そうに宿屋の食堂を見回している。と、すこしすすけた張り紙に目が留まった。
『アリッサ領主バルバロッサ・シーグフリード・カスタロイはこの絵にあるような女性を探している。
現在は導師として全国を回っているものと思われる。この絵によく似ている女性がいるならば、その身柄を領主の館まで』
そういう言葉書きがついた上には、自分によく似た女の顔があった。
ルーナは思わず立ち上がってその張り紙を引きはがし、カウンターまで小走りに走った。
「すいません!」
そうして談笑していた女将と中年男に言った。
「この張り紙」
「ああ、それはねぇ」
女将はあっさりと説明する。
「2、3年・・・もう少し前かな、お役人が来てね、見かけたら速やかに連絡しろって。
 でもこんな上玉、ちょっとお目にはかかれないよ、だからあたしら、領主の嫁さん探しかと思ったもの」
そう言って、女将はやっと、張り紙とルーナの顔を見比べる。
「あらまあ」
そして二つの顔立ちが実に似通っていることに驚きの声を上げた。しかし、女将と話していた男が
「気をつけなさいよ導師様よ、行く先に何が待っているのか、俺の話をよくよく聞いた方がいいぜ」
と、ややろれつの回らない声で言う。
「あんた、滅相なことをお言いじゃないよ、いくら娘がそれで首釣ったからって」
ルーナの顔が怪訝にな風になる。
「どういうことですか、それは?」
と男に尋ね返したが、男は答えるつもりがあるのかないのか、ずる、と酒をすすっている。女将がそれにため息をつきつつ、
「この人の娘さんねぇ、やっぱり導師だったのだけれど、」
哀れみの表情を浮かばせた。
「この張り紙にある通りに娘を領主のところに遣ったら、違うとか文句をつけたお役人と喧嘩になって、領主様直々に成敗をお預かりになったら、娘をさんざ慰みものにして帰したっていうんだよ」
「そんな話は二度と聞きたかねぇ」
と男は見る見る内にボトルを一本空けて言った。
「なに言ってんだよ、あんたの娘の二の舞いを踏ませないように話して聞かせてんじゃないか!
 あと一年もしたら結婚できる年期になるからと、お嫁の行きても決まっていた娘だったんだよ?
 可哀想だよねぇ…これからってときに」
いろいろと思い出すことがあり過ぎるのだろう。男は女将の話の間に肩を震わせ始めた。
「だからさ、自分がかわいいと思うのなら、行くのはよしたほうがいいってことなのよ」
女将がルーナをカウンターまで招き、耳打ちをするように言う。
「導師様にもいい人がお有りのようですからねぇ」
彼女の視線の先が、無心に食事を続けるイェリコにあったものだから、ルーナはついぷっ、っと吹き出していた。
「彼は私の弟子です」
「おや、それは…勘違いをしたね」
「恋人はいましたが…もうなくなりました。数年前、砂漠のカノリ族平定の時に」
「へえ」
女将が声をあげたが、どうもルーナの話を信じていないようなそぶりだった。
「だとしたら、導師様のいい人も大した貧乏くじを引かされたってものだ」
「?」
「有名な話だよ。なんとかいったねぇ、お若いお貴族様を謀反を企てたとかいうカドで暗殺するために、カノリの反乱のでっち上げをつくったという話なんだよ」
「でっちあげ?」
ルーナの顎は、それ以上の何かを言いたそうだったが、全く言葉にならなかった。
 国のどこに行っても、カノリ遠征の話になれば、エオルはそのカノリ族と手を結び、ばく大な資本力と兵力を用いて謀反を企てようとしたと、平定作戦の途中、それに気がついたバルバロッサがエオルを処断したと、そう聞かされていた。
 反乱自体がでっち上げとは、ルーナも初めて聞いた。
「その…ごめんなさいねぇ、導師様の恋人を悪く言うつもりは無いんだけれど…その…」
「いえ、貴重なお話しをありがとうございました。カノリ遠征に向かってそれきり行方不明ですから、私は死んだと思っているだけなのです」
ルーナは席にもどる。
「先生、夕飯、さめちゃいましたよ」
「もういらないわ。イェリコ食べなさい。もったいないから」
「待ってました」
イェリコは師匠の分のプレートを引き寄せ、また無心に食べ始める。ルーナははがした張り紙をじっと見ていた。

 どうしても、カノリ遠征の当事者で平定の指導者であったバルバロッサに会う必要があった。
 事情はどうであれ、処断の手を下したその男に、どうしても会わなければならなかった。
 その日もそこそこに暑かったが、まだ、アリッサの街の領主の館までは馬で何日もかかる。彼女らの馬は、走るために鍛えられたものではないからだ。それでも馬を急がせる。往来の旅人がすれ違いざまに振り向くような気迫がみなぎっていた。
「先生、先生」
イェリコが声をあげる。
「急に急ぎ出して、どうしたんですか。しかもアリッサはずっとよけてた町なのに」
「ごめんなさいイェリコ、事情は話せないの。でも、いかなくてはならなくなったのはたしかよ」
「アルキュオーネちゃんの誕生日に間に合わなくなっちまいますよ」
「…」
ルーナは切なそうな顔をした。メレアグリアに残してきた娘アルキュオーネを、どこでも忘れたことは無かった。誕生日前後には必ずもどって、数日を過ごすのが、何より楽しみだったのだが…今年は無理かもしれない。
「アルキュオーネちゃんより大切なことっすか」
「そう、ね。そういうことにしておくわ」
ルーナはしばらく得な抱けてから、イェリコに、
「少しもどったところに、泉があったわね」
と言う。
「はあ。あったようなきがします。木が茂っててよくみえませんでしたが」
「あったのよ。少し頭を冷やしたいわ。もどりましょ」

 もどってきて良かったと、ルーナは思う。水は冷たく、水際は涼しく、休憩には最適であった。イェリコを見張りに立てて、水浴びとしゃれ込む。
 服を脱いでふと、胸のしるしが目に入った。
 エオルと結ばれ、その後沐浴をしたら、胸にこの「見返り翡翠」が浮かんでいたのだ。ジルはその印をみて涙ぐんでいた。運命は自分に微笑んでいる。この印が、その後の自分を励まし律してきたといっても、過言ではない。
 イェリコは、師匠に背を向けて、木陰に座り込んでいたが、やがて見張りを忘れて舟を漕ぎ始める。その彼の目を覚まさせたのは師匠の悲鳴だった。
「先生!」
イェリコが泉に向かって飛び出す。水際では、水際に投げ出された師匠の肢体に、むくつけき暴漢の手が伸びていた。手近にあった棒をつかみ、泉の中に踏み込んだ。師匠の必死の抵抗に、数倍の腕力を持っている筈であろう暴漢も未だ初志貫徹をなし得てはいないようだ。イェリコは師匠に覆い被さるその暴漢の背に棒の一撃を見舞った。暴漢が背の突然の痛みにのけ反り、その下からルーナが這い出す。
 暴漢が完全に逃げたのを確認してから、
「大丈夫ですか」
と、イェリコが師匠のほうに向き直ると、師匠は彼女は濡れ髪を濡れた身体にまとわりつかせてうずくまり、恐怖の余韻に震えていた。
「先生…大丈夫ですか」
とその艶然とした肢体を正視もできずにイェリコが安否を問うと、ルーナは彼を見上げ、やがて
「イェリコ… ありがとう…」
とやっと言って、近づき跪く彼にすがった。イェリコの心臓は願ってもない幸運に一瞬跳ね上がる。どさくさに紛れて彼女の背に手を回したが、滑らかで柔らかい感触に浸る間もなく彼の理性が二人を引きはがした。
「先生、早くここを離れましょう、いつああ言うのが襲って来るとも限りません」

しかし、イェリコは見ていた。
師匠の豊かな左の胸、心臓の上に、刺青のような翡翆色があるのを。
それが何かはここではルーナだけが知っているのだが、彼女が向かっているアリッサ領主館では、バルバロッサがこの翡翆色の紋章…ルーナの運命を指し示してきたウィンダランドの「見返り翡翆」…を知って、その運命違えんと黒髪の麗しい導師を待ち受けていようとは、イェリコは勿論、ルーナ本人にも知る由はなかったのである。


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