
不幸は、それだけでは終わらない。母シアトリスは、帰って来るなり誰にも会わず、食事も取らず、無言のまま反狂乱になったような有様であるという。
家も名誉も何もかも捨てて、ただ一人の女として生きる。物語のものとしてしか考えられなかった、かつて家という柵にかかって多くの愛に生きる女が飲んだ涙の苦い味は、ルーナにもうんざりするほどよくわかっていた。しかし、自分で選んだ道といっても、その身勝手で、母をここまで苦しませているのは、やはり心痛であった。
もっと悪いことにならなければいい、そう祈っていた、その時。
「お嬢様ぁ! 奥様が!」
ジルが涙ながらに駆け込んで来て、半ば叫びのようにこう告げた。
「お母様がどうしたの?」
「先日…お部屋で…お亡くなりになったところが見つかったと…」
「!」
ルーナはへたりと その場所にすわりこんだ。ジルもそのわきで泣き崩れている。
「そんな…私のせいで?」
ぷつぷつとつぶやいた後、たっと駆け出す。
ルーナの姿が屋敷から消えた。寒い日だったから、誰も外に出たとは考えなかった。
しかし、もしやと外に出た侍女が
「お嬢様、いらっしゃいました!」
と声をあげると、主だったものが飛び出してくる。ルーナは次女達に助け出されたが、全身がびっしょりと濡れていた。
「噴水池の中におられたのです。もうどうされたのか」
そううろたえる侍女らに暖める用意を言いつけて、ジル達はルーナを部屋に運んだ。
ルーナの意識は失われていなかった。しかし、ぼんやりと見開いた目は空を呆然ととらえ、青くなった唇でかたかたと震えていた。
「一体どうしたのじゃ」
呼ばれたメレアグロス夫人が、ジルから話を聞き、しばし言葉を失う。
「…ああ…そうか…」
メディアに、濡れた髪を部屋の暖かい空気に通してもらいながら、ルーナは側によった夫人を視線だけで見た。
「母御が亡うなったか」
「…はい」
「それで自分も後を追おうと思ったか。向こうには、エオルもおるしの」
「…はい」
「命があってよかったの。もう少し遅ければ、お前も危なかった」
「…」
ルーナの瞳から、ふうっと涙があふれてきた。夫人は、しわがちの手で、ルーナの手を握った。
「フォーチュナーのルーナは死んだことにしよう。産まれてくる子の母であるお前は、生きねばならない」
「…はい」
「少し眠ろう。暖かくなるまで眠ろう」
夫人が何事かつぶやきながら、ルーナの額に手を当てる。ルーナは目をゆっくりと閉じて、そのまま動かなくなった。
ルーナが『国の巫女』を辞退することが決定されてから、メレアグリアの邸宅もだんだん、人が離れ、静けさをましていた。温泉街の住人も、病気ならば仕方ないと、ルーナをいたわりこそすれ、誰も責めなかった。
うわさを気にしてのことだろう。そのままメレアグリアにとどまり、養生をすることについては、フォーチュナーは不思議なほど簡単に了承してきた。ジルとメディアは邸宅にとどまり、ルーナを世話し続けた。
一年も、すぎたろうか。ルーナの前に、「導師」の免許状と、守り刀が置かれた。免許状の身分こそ、メレアグロス夫人の縁者とされていたが、紛れもなく、新しい自分の出発を示すものだ。
「わしが懇意にしていた辺りから、若いものをひとり、弟子につけよう。
よいかルーナ、導師は諸国を見聞し、経験と知識をもってあまねく人の手助けとなる存在。
良き旅を。そして、たまにはここに帰ってこい」
「はい」
長い髪を、道行きに合うようさっぱりと下ろしたルーナは、夫人の言葉をいとも嬉しそうに聞いた。
「お前には、帰ってこなければならないわけが有る。わかるな」
「はい」
夫人に目配せされて、ジルが赤ん坊をひとり抱きかかえてくる。ジルの腕の中で、小さな娘は、母の旅立ちが近いことも知らないように、ぐっすりと眠っていた。
「お嬢様、どうか道中お気を付けて…」
言いながらジルは涙声になってしまう。それをルーナは頬をよせねぎらいながら
「あなたも、元気でね」
と言った。
ルーナが見えなくなった後、
「そう言えばメディア、お前は『国の巫女』のルーナにつくべく雇われた巫女じゃ、どうする?」
「はい」
メディアは、薄い表情を崩さず
「ここに上がる前にお仕えしていた家がございます。またもどろうかと」
と言った。そしてジルに
「よければ、ジル様もご一緒に…」
「私も? では、この小さいお嬢様は」
ジルが戸惑った顔をするのを
「なに、この子はわしが世話しよう。赤ん坊の1人ぐらい、育てられないわけではないし、つてはいくらでも有る」
といい、
「ジル、メディア。お疲れさまじゃったの」
と、ジルの手から赤ん坊を受け取った。
ジルが前に使えていた家というのが、バルバロッサのカスタロイ家だった。
カスタロイの治める一帯は、王都のすぐ南になる。華やかな街アリッサの屋敷で、二人はバルバロッサに面会した。
「メディア、もどってきて何よりだ」
まずバルバロッサはメディアに言い、
「フェライア姫を推していた、言わば敵手であった私にこうして仕えるようになるというのも皮肉な話であるが、」
とジルに切り出す。
「だいたい聞いた。
お前の主人であるルーナ嬢は、導師として国中を渡り歩くお積もりらしいな」
「はい。今はなにものにもとらわれぬ主人なれば、きっとあの方には意義多い旅になりましょう。思えば、お父上譲りの血、というものかと」
ジルがそう答えると、
「さもありなん」
バルバロッサは低く笑った。
「ルーナ嬢はまず美しく、そして才たけていると伺っている。しかし、深窓の令嬢に長旅は無理。
いずれ見いだして、私がその世話を引き受けたいのだが…」
「…とおっしゃられましても」
ジルが前に組んだ手をもじもじとする。
「今が主人のもっとも充実しているときだと思われます。すぐにお引き戻しをされるということには…にわかには賛同いたしかねます」
「そうだろう。しかし、ルーナ嬢を心憎からず思うひとりの男としては、いかに寄る辺無い生活に困られるかと思うと、いても立ってもいられないのだ。
メディアはその私の命を受けて、ルーナ嬢のもとに上がり、彼女のことについて調べさせていたのだ。いつか、こういう日が来るのではないかと思ってね」
「なかなかの策士でいらっしゃるのですね」
とジルがお世辞とも皮肉ともつかず言うと、バルバロッサは
「全ての男が思ってせずにいたことを、わたしは臆せずにしただけだ」
と返した。ジルがつづける。
「ご幼少のみぎりよりお仕えし、姉妹同然に育ち、主人から親友といえる過分のご配慮をかたじけなくしている身には、やはり、自由を手にされたあの方には、しばらく自由を楽しませて差し上げたく。
どうか、探索を急がれませんように」
「もちろんだ。私は彼女の不利益になるようなことはしない。ジル、お前も私の元で働き、嬢の帰りを待つがいいだろう」
古来、導師とは男性のみがなることが出来たと言われている。女性の導師が出現したのはこの数十年のこと、しかし女性の導師はその他教養人よりも一段低く見られていた。諸国を放浪する過酷な旅には対応しきれないし、女性の導師は結婚を機会にすぐその道を諦めてしまうから、といわれている。神殿の身元保証も無かったものだから、田舎では女導師といえば行きずりを楽しむ商売の女と同じようにみられさえもしていた。
当時「国の巫女」だったメレアグロス夫人がその待遇の改善を推し進めたため、言われていたような差別はほぼ無くなり、女性の導師も増えていた。商人や小貴族の家庭教師には、うってつけとまで言われるようになっていたのである。
閑話休題、導師になったルーナの捜索は、街道に似顔が配られるところから始まった。
しかし。
二、三年という時間が経っても、ルーナは行方すらつかめない日々が続く。あるときバルバロッサは、ジルを呼び出して
「聞きたいのは、ほかでも無い」
と言った。
「お前にならわかると思う。
ルーナには、余人とはっきり区別される、何か特別な印を持っていまいか。体に有るほくろひとつでもいい。覚えていたら」
しかし、ジルは、
「ございますが。教えることは出来ません」
「なぜだ」
「神殿から免許状をいただいた導師は、その扱いが巫女に準じます。それまでの来歴がどうであれ、一度導師となった方は、導師の免許を返上しないと、どなたかに縁付くことはできないのです」
「わかっている。しかし、探し出してから返上させることは、別段難しいことでは有るまい」
「導師の免許状には、いただいてから五年はそれを返上しないことを誓うよう、文言が明記されています。
導師のままのルーナお嬢様とのご結婚は、神殿をないがしろにする罪となります。
どうか、後しばらく、お待ちくださいませ」
ジルは最後は床に手をつくような格好になっていた。それを見下ろしてバルバロッサは
「いいだろう。ではしばらく、今のままでの捜索を続けることにする」
と言い、ジルをさがらせた。
バルバロッサがいくら不敵に笑ってみたとて、現在手元にあるルーナの情報と言えば、「今は導師として諸国を巡っている」というジルの言葉だけであった。
彼はできるだけ詳しくルーナの似顔絵を描いて国の至る所で探させてはいたが、彼女の素性は隠してあるので事の次第がどうも把握しきれない役人達は、連日関所を出入りする女性導師を何やかやと理由をつけてアリッサに送ってきた。そのほとんどは違うとして返されたが、いずれ優れた容色のものばかり、直に詮議に当たるバルバロッサが食指を動かさないのは、無理な相談であったのかもしれない。
照会に時間がかかるといって、屋敷の中にとどめたことがたびたびにおよぶ。その間にどうなるかは部下達にもかなり容易に推測できた。そうなると双方罰せられると誰もが知っていたが、家長には誰も口を出せなかったというところか。
街を治める領主にの元にたびたび女性が出入りする。このことを伝え聞いた領民は「やっと領主が身をお固めなさるか」と思ったようなのであるが、ジルだけは女性導師がただ理由もはっきりせず清らであった身を辱められてアリッサをたっていくことには、これも自分が主人の秘密を明かさないからだといたたまれなく思っていたのであった。何度言ってしまおうかと思ったことか。しかし、主人の幸福のためにと思い直し、しかし他の導師たちのことを考えると黙っている自分に自責の念を感じる。
決心のつかぬままの、とある日。ジルは、バルバロッサの抱き乳母で彼付きの侍女を取り締まっているケティ・ダビーナから
「バルバロッサ様の夜のお世話をするように」
と告げられた。それは彼の就寝準備をした後、不寝番をする事であり、ジルも何度か経験していた。しかし加えてケティ・ダビーナは言う。
「…消灯の前に、離れにおります導師の方を案内することを忘れないように」
その夜。バルバロッサが旅の話を聞きたいということにして、ジルは導師の女性を彼の部屋に誘導した。
私室で、バルバロサは寝台の上に脚を投げ足している。
「遅かったな、すっかり夜が更けてしまったぞ」
と彼がいうが、ジルはただ逃げたい一心で
「…で、では私はこれで失礼致します。御用の折りは、私は続きにおります…」
とへどもどと型通りのあいさつをした。寝台からおりたバルバロッサは導師嬢を片腕をつかんで引き寄せた。導師嬢のきょとん、とした顔に罪悪感を覚え、ジルは足早にその場を去ろうとする。
「お前が一言話してくれれば、これ以上肩身を狭くせずともすむのだぞ」
そうバルバロッサが、寝室で半分笑うような声で言うのが遠く聞こえた。しかしジルは耳を押さえ、バルバロッサ達が寝台の天幕の中に消えたところで寝室に入りそこの明かりを消して回った。
その夜の寝室の様子は手に取るようにわかった。ジルは続きの部屋でじっと身じろぎもせずに、金糸銀糸の豪華な刺繍の入った椅子の上に座っていた。
ただ、今夜の彼女を始めとする導師嬢達に済まないことをしているという自責の念だけがジルの脳裏を占めていた。
夜明けも近くなり、寝もやらず導師嬢のむせび泣く声に紛れて打って変わって安らかなバルバロッサの罪のない寝息が聞こえる。
つまり彼は、国中の女が自分を卑怯者と、利己主義者と罵ろうと、我が主人を得るためならば、それらをも主人を迎えるために身に飾る勲章にするつもりだろう。
決してそんな領主に同情したからでもない、ましてこれほど主人を求めている彼なら主人をきっと掌中の玉と慈しんでくれるだろうと、眠らない仕事の間に、ジルはそう思うようになっていた。
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