
出発までそう間もないある日。エオルは再びメレアグリアの邸宅にいた。
隠れるような逢瀬の時間を経て、エオルはルーナに今回の次第を伝える。
「砂漠の少数民族といっても、油断は出来ない。辺境部隊が全滅になったという話も聞いている」
ルーナはおそるおそる
「お帰りになりますよね?」
と聞いた。
「きっと、無事にお帰りになりますよね。来年、暖かくなれば、私はフォーチュナーの家に帰ります。
エオルが私を迎えに来てくださるのをきっと待ちます」
「ありがとう…君にこれを」
そして、ルーナの手にペンダントが握られる。
「こんなものしかあげられなくて、すまない。でも、俺が父上からもらった物で、ずっとつけていたものだ。
俺と思って」
「はい」
「神殿で、俺の無事を祈ってくれ」
「はい」
気分の高まるままに、二人はまた寝台に折り重なる。ルーナは、消えない心の震えを振るい払うように、エオルとの一時に没頭していった。
そして。休暇をもらい受けたメディアは、意外なところに招かれていた。
「そうか、あのふたりが」
メディアが控えるその向こう側で、婉然と椅子に座しているのは、『国の巫女』候補生のフェライア姫。
「バルバロッサが手を回して侍女を潜入させたと聞いたときは何になるのかと思ったが、まさかウィンダランドの男と通じさせて巫女の資格をなくすようにするとは、のぉ」
妾にはかんがえられなんだ。ほほほ、という軽やかな笑いをする。
「これで妾の『国の巫女』への道に障害は無うなった。バルバロッサに見事な働きであったこと、伝えおくぞ」
「ありがとうございます」
もちろん、メディアが今までルーナに見せた心尽くしは、決して嘘ではない。ルーナがよろこべば自分も嬉しかったし、その逆も然りであった。国の巫女を諦めたのはルーナ本人の思い立ちになること。メディアはそう自分に言い聞かせるようにして、道を急いだ。
そしてフェライア姫は、さらにルーナと自分の間を広げようとしたのか、自分の聞いた話に少し色を添えて、うわさとして流させた。
今をときめく若騎士と、将来は国の心の支えともなるべき乙女の許されぬ恋。それが相いれぬ二つの家の間であればなおのこと。この浪漫的なスキャンダルは戸の立てられぬ人の口に、それこそ流行病のように、尾をひきつつヒレをつけつつ広まっていった。
「またこんなにお手紙が…」
ジルが困り果てた顔をする。ルーナには、親族中の女から、噂の真偽の程の質問から勘当は免れないという脅迫までが、大量の紙に乗ってやって来た。
「ああ、ジャーヌス様の奥様からまでいただいてしまいました。
これにはお返事をお書きくださいましなお嬢様」
ジルは呆れたような声を出してルーナの目の前に紙とペンを取り出した。しかし、ルーナはつん、とそっぽを向いた。
「そのつもりはないわ」
「お嬢様」
「人に何か示唆されるような、そんなやましいことはしていないわ。噂はただの噂じゃないの」
「ですが」
「わかってるわ。流れているうわさは、全く本当のこと。でも、一人にでも、一言でも、弁解をしたら、それはその噂を肯定したってことになるのよ」
「…はぁ」
「うわさの大本は、フェライア姫様の関係者だというようですが」
「それならば、私を陥れようとして、嘘をうわさに流したのだと思えばいいのだわ」
「そうじゃな、そういうことにしておくべきじゃろう」
メレアグロス夫人もうなった。
「改選が間近になれば、そういううわさの一つは必ず有るものじゃ。年中行事と思って諦めい」
ウィンダランドもフォーチュナーも、このうわさのあまりの無根さに戸惑うばかりだった。幸いだったのは、エオルが宮廷にいなかったということである。事の真偽を面と問われたのなら、ただ一言「真実だ」と答え、後悔はしていないというように凛とした眼差しを返すだろう。それが、どんな結果をもたらすか、すべて考えた上で、で有る。
大神殿の祭壇に、ルーナの姿があった。みぞれのように湿った雪が、メレアグリアには降っていて、残照の照りつける乾いたあの日とは違って、床は、裸足の足の皮が切れるかと思えるほど、冷たかった。
自分を見つめる大地母神の彫像は、変わらず荘厳で、穏やかである。それだけに、ルーナは、自分のしたことを、この彫像の前では素直に懺悔できた。
「おねがいです。母なる神様。どうかエオルを…砂漠の民からお守りださいませ」
国の民すべての幸せを祈るはずの口からは、ただ1人の名前しか出てこない。それでもルーナは、ヒマさえあれば祈っていた。祈りの手を組む中に、ペンダントをぎゅっと握っていた。
そのルーナのささやかな希望を砕くものがあった。
隙間からのかすかな風と一緒に巫女たちの会話が聞こえて来る。
『その話、本当?』
『噂だけど、首都から流れて来た導師の話だって云うし、ね』
『うん』
『どうして殺されたりなんかしたのよぉ?』
『んー、何でもね、カノリの長と手ぇ組んで、謀反を起こそうとしたらしいわよ』
『だからそれを知った「剣の騎士」様は「風の騎士」様を殺したというの?
まだ17なんて、若いのに考えたものね』
ルーナは目を見開く。指のすき間からペンダントが落ち、床に跳ね返って乾いた音を立てた。巫女たちの会話は続く。
『そうね。
それで「風の騎士」様は騎士の称号を剥奪されて、「国辱」といわれるようになったんだって』
『ウィンダランドのご当主なのに、家のお墓にもはいれないんですって』
『当たり前でしょ、死体が砂漠の中じゃ』
『ドゥカリオスの方は、大騒ぎでしょうね』
『ご当主が亡くなったんじゃ。あの方にはお世継ぎもまだだったのに』
『それがね、この間、奥様のご懐妊がわかったって。皮肉な話よね』
『奥様も母上様もやりきれないわねー』
ルーナは力抜けた両手を胸元に捧げたまま、しばらくは何も考えられず、動けもしなかった。
再び彼女が我に返ったとき、彼女は錯乱に満ちた憤りに、祭壇に伏し、辺りも憚らず慟哭した。その声が聞こえたのか、話の主であろう神殿の巫女達が駆け寄ってくる。
「ルーナ様、どうかなさったのですか?」
ルーナはよっぽど泣き続けたいのを飲み込んで、顔を上げて巫女たちを一瞥した。
いつになく(と言っても彼女らはそんな頻繁にルーナを見ている訳ではない)鋭い眼光に巫女たちがすくんでいる間に、ルーナはペンダントを拾い、涙を拭いもせず立ち上がった。そして、ゆっくり、邸宅に続く扉に進んでいこうとして…昏倒した。
「ルーナ様、本当にお悪そうで…」
「改選までにはお元気になられるかしら…」
「お食事もなさらないのですって…」
「お熱が続いているそうよ…」
ルーナの突然の病に、巫女達は心配げに寄ると触るとこの話、ジルはあのときより、まともな睡眠をとっていなかった。
ルーナは、すぐに意識を取り戻しはしたものの、寝台の上であられもなく取り乱した。まともな言葉等出る状態でもなく、泣き伏して、しゃくり上げ、落涙し、号泣した。エオルの死、エオルの妻という女、そしてその彼女に宿った子に対する嫉妬、そう言った負の感情がルーナをもみくちゃにする。公に彼を悼むことも出来ない自分、それがたまらなく情けなかった。
しかし。
ルーナから少し離れたところでは、こんな話がされていた。メレアグロス夫人が招いた彼女の知り合いであるところの医師は、ルーナの部屋から出て来るなり
「あの方の御身には一体何事が起こったのだ」
と言った。夫人はさして動じたそぶりも無く
「どういうことだね?」
と聞き返す。
「どういうことも何も、この環境でご懐妊とは、神業としか言いようがないではないか」
医師は首を傾げながら言う。
「神業とな」
夫人は、理屈に合わないことを繕うには万能な言葉の登場にふふ、と笑った。
「成程」
「知っていたのか… で、原因は」
「少なくとも、ここの大神殿のリンズ・アーヤではあるまい」
そして動揺しまくる医師とは逆に、落ち着き払った様子で
「あれの状態についてはわしと、侍女のジル、メディアの他には、一切の他言は許さぬぞ。だからお前をわざわざ呼び立てた」
「ああ…患者の秘密を漏らして墓穴を掘るようなことはしたことはない」
「ならばよし」
納得した風の夫人を前に、医師はさらに聞く。
「…ご本人にどう説明されますか」
「あれとて、いつまでもネンネであるはずがない。そのうち、いやでも気がつくだろうさ」
ルーナの急病は、すぐに王宮に伝えられ、原因は巫女修行の過酷さ故の過労に加えて醜聞の心労が重なったものと伝えられ、追ってメレアグリアより、『国の巫女』候補を辞退する旨の声明がだされた。
「残念なことをした。去年謁見したおりには血色もよい明るい顔をしていたのに」
「聡明なお顔をしていた。あれが巫女司になるのなら王宮ももっと明るくなろうものを」
王妃も沈んだ声で懐中を述べる。『国の巫女』には、フェライア姫がなるだろう。誰もがそう思い、一大醜聞には終止符が打たれ、誰も、そのことにはふれなくなった。
そのメレアグリアのルナの元を、母シアトリスが訪れていた。噂にあった病状は影を潜めたという報告を受けたが、シアトリスの様子はにわかに落ち着く様子を見せない。
「それはどうでもいいことです。『国の巫女』となることを断念したとは、一体どんなことがあったのか。ルーナにあって直に聞いてみないかぎり、私は納得でせきません」
やがて、現れたルーナに、まくし立てるようにコトの審議を問いただすシアトリス。ルーナはその母の言い分を一通り聞くだけ聞いて、
「それでも私、『国の巫女』にならないことを決めたのです」
と言った。
「師匠様のおはなしに、この国には旅回りの「導師」というものがあり、国の至る所で人々に知識を与える尊い仕事に従事しているときききました。
ルーナも一度、世界を見て回りたいのです」
「何を言いますか、お前は、私が、幸せな縁組みあるいは『国の巫女』とさせるために手塩にかけた娘です。お前は、養ってくれたフォーチュナーのために、その栄華が長く続くように砕身しなければならないのですよ、それを忘れたとは言わせませんよ」
「はい、忘れていません。でも」
「辞退の届けはすでに受け入れられた。
母御、フォーチュナーの力で取り消しをねじ込むのかね?」
メレアグロス夫人が、シアトリスの激高した態度を混ぜ返すように言う。
「ええ、帰ったらすぐにでも、そうしたいぐらいですわ」
「ルーナは『国の巫女』にはなりたくないというのだが…それでもコトをすすめられるか?
『国の巫女』たるもの、自己のすべてを犠牲として、国の安定と繁栄を祈るもの。身もふたもなく言えば、なりたくないものを無理やりさせたような人間に、つとまるものではない」
「ルーナは病の影響で心が少し弱っただけなのです。ルーナがいかに『国の巫女』にふさわしいか、それは私が良く知っています。
そうでしょう、ルーナ?」
「…」
肩をつかみ、かくかくと揺さぶられるが、ルーナはついと母から視線を背けた。
「母御よ、うわさはご存じか?」
「うわさは聞いています。でも、『国の巫女』が新しく選ばれるときには、一度は立つうわさと聞きます。ルーナはそんなことでくじけたりするような、弱い子に育てた覚えはありませんわ」
シアトリスは、激高する我に陶酔したように、大げさな嘆きのポーズで椅子にもたれた。その母に、ルーナは静かに言う。
「お母様、ごめんなさい。
でも、ルーナはもう、『国の巫女』になる資格はないのです」
「弱音を吐くものでは有りませんルーナ」
「もっとはっきり言わぬとわからぬかの」
メレアグロス夫人がやれやれというそぶりで言う。
「過労と心労による辞退と、ルーナの行く末を傷つけぬように計らったというに…
ルーナはとある事情をもって懐妊した。ルーナは神殿の巫女にもなれぬ体じゃ」
「何ですって」
もたれていた椅子から、シアトリスががばりと立ち上がる。そしてルーナを抱き締めて
「どこの狼藉者が、お前から『国の巫女』の夢を奪ったのでしょう。ちゃんと詮議はされたのでしょうね、
なんてこと」
ルーナは、メレアグリア夫人と顔を見合わせた。そしてルーナは言う。
「お母様、聞いてくださいまし、ルーナは自らこの道を選んだのです。何よりも、その方とともに有りたいのです」
「え?」
シアトリスははたとして、
「ではルーナ、うわさは…」
と、探るように言う。
「はい」
ルーナの返答は短かったが、その短さに有無を言わさないものがあった。するとシアトリスは、ルーナから離れるなり、彼女の顔を張った。
「なんてこと、だからお前は、フォーチュナーの名前に泥を塗って平気でいられるのだね!
ふしだらな! 金輪際、家に帰れないとお思いなさい!」
それ以上は、あまり怒りに声にならなかったのだろう。唇を震わせたまま、足音を高くして、帰っていった。
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