
祭礼そのものは、人々が浮かれる喧騒もにわかには届かない、荘厳な神殿の中で行われた。
王都にいる、現「国の巫女」の代理として、すべての手順を完ぺきの所作でおえたルーナは、神殿の巫女と語り合う時間もそこそこに、邸宅にもどった。巫女の衣装から私服にもどった彼女に、メレアグロス夫人が言う。
「どれ、ルーナ。少し話をしよう」
ルーナは、ジル達を下がらせようとするが、夫人は
「ああ、彼女らもそのままで良い」
と言い、
「今日の儀式はほんによくできた。神官も舌を巻いておった、わしも鼻が高い」
「ありがとうございます」
ルーナは師匠からそう手放しに褒められてほんのり赤らんだ。
「わしが持つものはほぼすべて、お前に渡せたと思っておる」
「はい」
「しかし、一つだけ、残念なことが有る」
「…何でしょうか」
一抹の後ろめたさがルーナの胸を打つ。
「お前が『国の巫女』になれぬことよ」
ルーナの顔が真っ白になった。引きつった笑いで取り繕うとする。
「そんな…師匠様お得意の占いですか?」
「いや。最初、お前がこの邸宅に来たときからわかっておったさ。侍女たちが心を砕いて手紙のやり取りをさせていること、今日面会の算段を整えておること、わしはみんなお見通しじゃぞ。亀の甲より年の功じゃ」
しかし夫人は、笑うような顔をし、いちだんと声を低くして
「わしはそれを後悔しておらぬよ。『国の巫女』には、なりたいものがなれば良い、そのために複数候補をあげておるのだから。
お前は『国の巫女』にならぬ道を自ら選んだのじゃ、後悔してはならぬ」
「…師匠様」
「さあ、わしが優しい顔をしているのも今日だけじゃぞ。明日からはまた修業じゃ、国の巫女になれずとも、得た知識はきっと役に立つのだから」
「…はい」
「さあ、準備を急げよ。そんな普段のなりではいかん」
普段は歩き慣れている、神殿への回廊も、今日は格別に違う意味を持っていた。
儀式を済ませた人々が素朴な祭りの中に入ってゆく、その旋律が、庭園の噴水の音に紛れるように、かすかに聞こえてくる。ルーナは、エオルの腕に身体を預け、その回廊をわたっていく。エオルが、ふと足を止めた。
「もどるか? もどるなら、今なんだぞ」
「もどる?」
「ああ、あの神殿の中に入ったら、俺はもう自分を止める手だてをなくすかもしれない。それだけ待ち続けた今だけど…もどって、ただ話をして帰るだけならば、まだ間に合うところに俺達はいるんだ」
「わかってます。
でもね、エオル」
「何?」
「私、後悔だけはしたくないの」
「…」
ルーナは、エオルの首に回す手に力を込める。
「…わかった」
エオルがまた歩き出す。やがて突き当たった真鍮の扉に手を当てると、扉はその重さを感じさせない滑らかさですうっと開き、二人はその中に消えていった。
夕方。ドゥカリオスに有るウィンダランドの邸宅に、明かりがともされた。明かりはきらきらと敷地内を照らし、星をちりばめたようだ。その明かりの中、エオルが帰ってくる。
「待っていましたよエオル」
屋敷の中にはいるなり、母ネフェレが待ちかねたようにたたずんでいた。
「どこにいたの、こんな時間まで。エナが早く帰るように何度も言ったというのに」
「メレアグリアの祭礼が有ると聞いたので、今日の儀式が無事終わるよう祈ってきました」
「そう、それは神妙なこと」
ネフェレは毒々しいまでの真っ赤なルージュの唇をくっとひいて笑った。
「さあ、着替えていらっしゃい」
子供を扱うような母の言葉にも、「はい」と素直な返答をして自分が、我ながらふっ切れたようで楽しかった。
母が自分を当主にしようとしている。最初はそのことに不安もあったし、母に左右される不安もあった。しかし、逆手にとればどうだろう。当主は一族に号令する身だ。根拠のないフォーチュナーとの確執を終わりにするのは、自分とルーナとでなくてはならない。儀式が終わった後の当主の第一の号令を、それに決めた。
着替えを済ませると、「エオルさま」と声がかかってくる。
「エナ」
エナも今日の晴れの日に合わせて、ひときわ際立つように装っていた。
「今日はエオル様のためにがんばりました」
と、エナは、良く見せるように一回りする。
エオルはさすがに、どう彼女を褒めていいか、複雑な顔をする。そして、彼女を妻に出来ない自分の胸のうちをどう切り出そうか、また悩む。
「あの、エナ」
それでも言い出そうとしたが、エナは聞いていないようにエオルの腕を引く。
「はやくはやくエオルさま、式がはじまってしまいます」
「あ…ああ」
婚儀の日取りもまだ決まっていない。ゆっくり説明すれば、きっとわかってくれるだろう。子供子供しい彼女を、いつか公になるだろう醜聞や政争に巻き込みたくはなかった。
引きもなしに続く宴は、部屋中をしたたかに酔わせた。エオルもずいぶん飲まされた。まともな意識の残る間に部屋にもどってしまおうと、立ち上がる。
「どうしたの」
案の定、そばのネフェレが聞いてくる。
「もうやすみます。明日は王宮にもどらなくてはいけませんから」
正気ぶっているのはいいが、存外酒が回っていたのか、すすむ足は千鳥である。
「あ」
テーブルにつまずきかけたエオルを
「エオル様」
後ろからエナが支える
「おば様、エオルさまどうしましょう」
「部屋まで付き添っておあげなさい、エナ。こっちは心配することないから」
ネフェレのそういう声が聞こえた。エナにしか見えなかった、彼女の含蓄ふかそうな表情を見ることは出来なかった。
部屋にもどり、着替えもそこそこに寝台に突っ伏し、そのまま眠ってしまったエオルは、翌朝になってみて、エオルは起き上がって驚いた…正確にはうろたえた。
夢の中でルーナとの時間を思い返していたのは覚えているのだ。肌は滑らかに、声も甘く、背に食い込む爪の痛みすらも、何もかもが愛おしく、ただがむしゃらに、壊れるほどの力で抱き締めた。
しかし、目が覚めたとき、「おはよう、エオル」と声がかけられる。
「は、母上」
母ネフェレが、寝台の側に椅子を寄せて座っていた。
「どうされたのですか、こんな時間に」
「特別なことはないもないわ。おめでとうを言いたいだけ」
そう言う母の後ろにある扉から、エナが
「エオル様、お加減はいかがですか?」
と、水さしをもって入ってくる。
「不安だったのよ。今まで兄妹のように育ってきたエナを、あなたがちゃんと妻にしてあげられるか…
エナの話を聞くかぎり、問題もないようね。
おめでとう、エオル」
そこまで言われて、エオルは飲みかけた水を盛大に吹き出した。息を詰まらせてせき込みながら、昨晩の生々しい夢の合点がいった。エナが、ネフェレに確認を求められて赤らんでいる。
「お披露目をはやめましょうね…ねえエナ」
ウィンダランドの当主問題の決着がついたらしいうわさを、ルーナは複雑な気持ちで聞いていた。
エオルが事実当主として、一族を担うことになったのは歓迎できる。しかし、同時に、かねてより決められた女性と縁組みしたことには、素直に喜びようもなかった。うわさとして語られたすべてを
「そう」
の一言で片づけて、後はいつものルーナだった。ジルは
「普段の調子を全く崩されないときが、お嬢様が本当につらいときなの」
と、切なそうにジルに言った。
「…私達の手引きは裏目だったのかしら」
というと、メディアは
「そんなことは有りません。お嬢様は前にもましてお美しくなって、今や輝くばかりではありませんか。
何より、お嬢様が決心されたこと、私達が口をつぐんでいさえすれば…」
と言う。
「そうね…私達はお嬢様の幸せを第一に考えないとね。
でもまさかエオル様がご結婚なんて…」
ジルは、深くため息をついた。複数の妻帯は禁じられたことではないとはいえ、同じ妻でも正妻か否かでその扱いは大きく違う。まして、敵対するフォーチュナーの女性を迎えるなどということとなっては、どう丸くおさめようとしても、ルーナが正妻より低い扱いを受けることには、きっと悶着もあろう。
本人にそういう損得勘定がほぼ全くないのが、この場合、より哀れなのだった。
秋は短く駈け抜け、季節は容赦なく過ぎ、あちこちから雪の便りが聞こえてくるようになる。そうなれば国の巫女の最終選考まで、あと半年もないということだ。
ルーナは、相変わらず、学問と礼拝の修業にいそしんでいた。師匠であるメレアグロス夫人が、最終選考に提出する学問の成績報告に、「過程習得不十分のため選考の対象としない」よう一筆添えれば終わる話になっていた。
エオルからの手紙は、間こそ空くようになったが、変わらないこまやかさで届いていた。自分の身の回りのことはほとんど話さない。ルーナとの時間、そして遠くない未来の話。ルーナを今の妻と同様に扱い、両家の和睦の礎になろう。そんな言葉が温かかった。
平和なメレアグリアとは裏腹に、王都には不穏なうわさが流れ始めていた。ナテレアサ王国の南部にあるシャルキーヤには、その領土にかかるアチ砂漠を渡る商人の部族が数多く有るのだが…
「土地の話によれば、砂漠の民カノリは、ナテレアサからの隊商、他国からの隊商をおそい、夏の終わりごろから我が国領土になる部分をたびたび荒らしているという話です。
その規模は例年確認できるものの数倍。聞けば首領が好戦的なものに交代したとかで、アチ砂漠の全体を掌握しようという魂胆のようです」
王に報告しているのはバルバロッサだった。彼はナテレアサの軍隊の中でも、特に精鋭をより分けて与えられ、王都の守りをゆだねられていた。そのバルバロッサからの、国土をおびやかす勢力の報告に、謁見の間はざわ、とさざ波のように揺れる。
「そのカノリ族は、毎年砂漠を脅かしているのか」
国王ネル・フランはおうようにバルバロッサに尋ねる。
「はい、陛下。例年も今の時期ほどに多少問題など起きるものですが、報告になるほどの物では有りません。しかし、今回ばかりは土地の古老も未曾有と言います。よってこうしてご報告している次第で」
「そうか。
砂漠がなくなったら困るかの?」
と話をふられて、ジャーヌスが答える。
「この国の宝石の大部分は、シャルキーヤの砂漠より出ます。この砂漠を失うことは、我が国にとって金庫を無くすようなものとお心得ください」
「それはいかん。バルバロッサ、シャルキーヤを守れ。領土にいやしいやからを近づけてはならぬ」
「勅命、確かに承りました」
バルバロッサは深々と礼をして、
「エオル」
と、ジャーヌスのそばにいたエオルに向かって改まった。
「ついては、卿に協力願いたい」
「俺に?」
「ああ、ウィンダランドの兵がいちばん訓練されている。迅速にコトをおさめたいのだ、まもなく国の巫女の改選も近い」
『国の巫女』と聞いて、エオルの顔が変わる。それを知ってか知らずか
「当主になったばかり、奥方ももらったばかり。卿にはいささかつらい時期とは思うが…」
頭まで下げられて、エオルは
「そんなことしないでください、バルバロッサ。ウィンダランド兵を出すことについて、私にはなんの反対もないのですから」
と返す。その後二人は、なんくれと今後のことを相談しあい、その時はそれで別れた。
