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にじゅう・ヘリオトロープの夢

 地下牢の管理者ウィル・ローバーンは、いわゆる「落日革命」の折、アレックスを牢から出した人物でもあった。
 ヒュバートやエルンストがやってくるまでは、と、ローバーンは、当日、カイル公爵と兵の要請を、初め頑として承諾しなかった。
「お前は職務に忠実な男だ、この牢の中のアレックス王に、決して野暮を起こさせる暇を与えぬよう、よく見ていてくれたそうではないか」
カイル公爵の言葉は、今さらに重い。たしかに、アレックスは、この牢から出ようなどというつもりはなかったのだ。
「お前の職分は、この牢に収容された人物を、よろしく監視し、申し出があれば出す、そういうものではないのかね?」
「で、ですが、用向きがしっかりとわかっている場合に限ります。ましてや、この地下牢は、ただの罪人が入るものではありません。今は非常時ゆえの特例です。いかに牢にあるとはいえ、アレックス王は滅多なことは許されないお方」
ローバーンは、カイル公爵達に向かって両膝をついた。
「どうか」
「うむ、グスタフ陛下がアレックス王を御所望なのだ」
「どうか」
「ローバーン」
彼の背中の向こうで、アレックスの声がした。
「陛下がお呼びなら、私としては出ぬわけにはいかない」
「王」
「私の事は気にするな。君は君の職分を過不足なく果たすだけだ、そうだろう?」
「…はい」
ただ閂がかけられただけの檻の扉をあけると、アレックスは一部の隙もない優雅さで、カイル公爵達の前に立った。カイル公爵にあごにされて、兵士がアレックスにナワをかけ、引いていく。
 去りしなに、アレックスは振り向いて、ローバーンに向かって笑った。何ごとか言った気がしたが、それは、足音にかき消されて聞こえなかった。ローバーンは、地上に向かう螺旋階段からアレックスの姿が見えなくなるまで、それを見送っていた。
 直後、エルンストたちがやってきたのだった。

 ローバーンは、一切の罪を問われなかった。当局の目からは、職分にもとることはなにもしていないとしか見えなかったのである。新しく牢がたてられることになり、より広くなったその方に優先して人が収容されることになったため、地下牢はこの一年、全く静かだった。その間ローバーンは、自分がこのように、罪を逃れてしまったことにおおいに落胆した。アレックスを守りおおせなかったのに、自分になぜ首が繋がっている? パラシオンに戻ったヒュバートとも、一切の連絡を断っていた。
 「ローバーン、自分を責めるのはもういい加減になさい」
そういう声がして、かれははっと我に返った
「またアレックス様のことを考えていたのね」
「はい」
「自分を責めたくなるのはわたくしも同様です。あるいは、アレックス様を牢の外にお出しして差し上げることが出来たかも知れないのに」
「王は、真面目すぎたのです」
「それはわたくしも思います。でもローバーン、それを責めることが出来て? グスタフ様に対して、もっと強くなるように、あの方に言うことが、あなたにできて?」
「…」
「先日、モイラ様をお見かけしました。かわいそうに、アレックス様がいないことを始めて告げられたようね。お人形のようになってしまって」
「俺は、あの姫様に対して嘘をつくことが辛かったです。あんな、きれいで優しそうな方を、残して」
ローバーンは涙をせきかねた。
 宮殿の奥庭は、中庭に勝るとも劣らない豪奢な花園に仕上がっている。中庭は、幾何学模様の植え込みが高貴さを演出しているが、奥庭は、四季折々のの花を存分に楽しめるように、ある程度無造作に仕上げられている。地下牢への通路もここにある。もちろん、宮殿から直接は見えない場所に。地下牢は、牢獄の増築により、本来の任務…高貴な罪人を収容する…に戻っていた。ローバーンは、花園の隅になるこの通路の入り口で、ひっそりと畏まり対話をしていた。
「それで、パラシオンからの騎士を、『アレックス様に冤罪をかぶせた』容疑で地下牢に移すって本当?」
「そのようです。三日後に」
「その時にね、わざとわたくし達に見えるように連行してくれなくて?」
「は?」
「お願い。興味があるの」
「は。わかりました。できるだけ思し召し通りに」

 グスタフは、その後も何度か、モイラと「正常な交渉」を持とうと、様々に趣向を盛り込んでモイラに臨んだ。彼なりに「そそられる」あらゆることをモイラ相手にやってみたりもした。だが、それまでは正常な反応をするものの、肝心要の行為に及ぼうとするあたりで自慢の一本は沈黙してしまう。だから今は諦めて、また後宮に出入りするようになっていた。
 後宮に入れば、少なくともグスタフの臍の下を満足させるには十分な女性達が困る程いる。グスタフ本人が、その女性達の一人をあるいは一人一人を格別に思っているということはないようだった。ピンからキリまで、貴族が預けてくるのだから仕方なく預かってやっているのだと考えている節も見受けられる。
 モイラは、後宮の中でも、王妃、あるいは最高の寵愛を得ている女性が使用する部屋に依然としてとどまっている。すなわち、グスタフの部屋に最も近い。だが今は、「日ざしが厳しい」と言ってより奥庭寄りの小さな部屋にいた。その窓からは、一切の世俗もなく、ただ花だけが見えている。
「夏の花もいよいよ盛りのようですわね」
「!」
とつぜん話し掛けられて、モイラは一瞬身体を震わせた。振り向くと、何度か顔を見た女性が立っている。
「モイラ様ですね。グスタフさまはまったく貴女を紹介して下さらないのですもの」
そう言って笑む女性に、モイラは首をかしげ見上げながら、尋ねた。
「どなたなの? 何度かお顔を見たことはあるけれど…」
「…まずは、初めまして、と申し上げるべきでしょうね。
 ネリノー小王国王女、クローディア・アイリス・ネローニ・ナイルと申します」
「よろしく」
モイラは、つと立ち上がって、王女クローディアに礼をした。クローディアが言う。
「…兄王様の事は、お気の毒でした」
「…」
モイラはふたたび表情を落とした。
「お兄様が、私が悲しんではいけないと、一年たつまで何も知らせてはいけないとお言い残しになったそうです」
「誰がそれを?」
「クラウンが」
クローディアは、モイラの隣に椅子を引き寄せて、腰掛ける。
「それを信じてしまいますの?
 おかしいですわ。
 アレックス様がお亡くなりになった日、貴女もこの宮殿のあのバルコニーにおいでだったのを、お忘れですの?
 話に聞けば、アレックス様のお友達と、ずっとあの方の無実無根を信じて、戦ってきていらっしゃる、それも忘れて、わけのわからない男の言うことを信じてしまいますの?」
モイラは、はた、として、クローディアから顔を背け、己を見つめる姿勢に入った。
 ふたたび告げられたアレックスの死という事実は、初期化されていたはずのモイラの記憶にも、やはり余りに衝撃的で、その前後の記憶を吹き飛ばしていた。いや、本当は人間、真の忘却は瞬間的にできるものではないらしいから、先送り的に記憶がせき止められたのかも知れない。
 とにかく、モイラの中では、兄との楽しかった思い出の後は、クラウンのかおと、植え付けられた、兄を憂慮する日々の事、そして、クラウンに連れられて宮殿に入ったあたりの事が、断片的に転がっているだけだ。その間隙を、夢に見た、青ざめたアレックスの顔が埋めているのだ。
 飾りのこぼれ落ちた古い螺鈿の宝石箱、と言った塩梅である。その中には、思い出すべき物事、思い出すべき人々がたくさん入っているはずなのに、無理にこじ開けようとするたびに、めまいのようなものが襲ってくる。
「わたくし、あの場所にいましたの。
 バルコニーの陰から、じっと、あの方を見ておりましたの。だって、最期になるのですもの」
クローディアはモイラの手を取りながら呟いた。
「その頃はまだ、わたくしグスタフ様のお側を許されておりましたわ。せめて、わたくしがひとこと申し上げれば、アレックス様はせめて、牢から出ることをお許しされると思うのに、なにもできなかった」
「クローディアさま」
「ふふ」
モイラが、うなだれた顔を覗き込んで来たので、クローディアは自棄的に短く笑った。
「あなたはパラシオンのお城から出ることはなかったでしょうから、おそらくご存知じゃないでしょうけれど、オーガスタ宮殿にお仕えしている娘は、みなと言ってもいい程アレックス様をお慕いしていましたのよ。
 嘘と陰謀のまかり通るこの宮殿の中で、アレックス様だけが、鳩の群れに鷲が降り立ったように、ひときわ輝いておりましたわ」
モイラはクローディアの話にじっと耳を傾けていた。宮殿や王都の動向を知らせてくるアレックスの手紙には絶対書かれない範疇の事で、彼の親友やパラシオンの内部以外からはほとんど始めて聞くアレックスの人物評だったのだ。
「夢みたいなことでしょうけれど、あの方にお声をかけていただけるようなことを、わたくし達待ちわびておりましたの。
 でも、あなたのようにお可愛い方がおそばにいるのですもの、わたくし達など何人集まっても、あの方には霞んで写っていたでしょうにね」
「そんなこと。…クローディア様も美しいわ」
モイラは腹のそこからそう思っていた。彫刻されたような精悍な美貌がしとやかにモイラを見つめている。
「こんな綺麗な方がいらっしゃると思ったこともなかったもの」
「そうおっしゃってくれるのは嬉しいわ」
クローディアは目を細めた。だが、すぐに表情をなくし、モイラに向いて改まった。
「ねえモイラ様、王女って、何のためにいると思えて?」
モイラは一瞬きょとん、として、父王の言っていたことを思い出した。王も民も、裸になってしまえば同じ人間、王や貴族は求めてなるものではない。求められてさせてもらうものだ。ちなみに、かの『オーガスタ宮殿作法典範』では、王位の継承の男女差は求めていない。
「わかりません。どのお家にも、男の子も女の子もいるわ」
と言うと、クローディアは語り始めた。
「オーガスタに限らず、貴族のような家や大商人になると、より高位の為政者や権力者との間につながりを求めますの。
 オーガスタで簡単にいうならば、小さい領主は大きい領主に、大きい領主は小国王に、小王国は王都の盟主に。
 そういう方達とつながりが持てて、しかも将来もその関係が崩れにくい方法と言うのが、わたくしたちのような、家に生まれた娘を嫁がせることですのよ。
 伺候して、寵愛を受けて、よろしき印象があれば、それは、名声と富に形を変えて一族に跳ね返ってくる」
「では、王女は、盟主様にお仕えして、寵愛を受けるために、あると言うの?」
「すくなくとも、私の父、ネリノー王は」
クローディアはまた面を伏せた。
「わたくしがオーガスタ宮殿に来たのは、アレックス様がお父様の後を継がれる少し前の事でしたわ。今思えば、私がよく父のお供をして宮殿に伺ったのは、このためだったのかも知れませんわね。
 アレックス様はまだ立太子もされていなくて、ときどきグスタフ様のお相手をするために宮殿にいらしていたの。
 ある日宮殿でグスタフ様にお目にかかった時、父が私に縁談があると言いましたの。一瞬の間だけ、わたくし夢を見ましたわ。だって、その場所には、グスタフ様も、…アレックス様もいらっしゃったのだもの。少し前に、乳母やにアレックス様の事を話していたから、父はそれをお聞き届けになったのだわ、と。
 でも、それは、グスタフ様が私をお望みだった、と言うことなの」
「…」
モイラは、ぽとりと涙を落としたクローディアを声なく見つめた。
「モイラ様は、兄上様の御配慮もあって、わたくしと同じ目にあわずにすみましたのね。
 宮殿の寵愛なんて、所詮水物ですわよ。同じことは諸候の大勢が考えていることですもの、新しい女性が来るたびに私は気を揉んで、もう一度、グスタフ様がお召しになるように心をくだいて、少しでも御不興をかうことがあれば、父にも意見され…
 あの頃は毎日のように、今でも時々、アレックスさまのお側で眠る夢を見ますのよ。あの方は、私を振り向いても下さらなかったのに…」
クローディアはつ、と涙を拭った。
「モイラ様、わたくしは貴女がうらやましいですわ」
「私が?」
モイラは首をかしげた。いままでのクローディアの話からすれば、グスタフに仕えなくていいことが羨ましいともとらえられる。だが、アレックスにかけられていた冤罪を信じてしまったことを悔いて、自分をそれなりに扱ってくれたグスタフを、なぜクローディアがあのように厭うのか、その心づもりははかりかねた。
 グスタフは悪い人ではなさそうだ、そんなことをモイラが言うと、
「それは、モイラ様を少しでも長く御自分のもとにおとどめ置きになりたいグスタフ様のお芝居です。誰にでもするのです」
クローディアはそうぴしゃりと断言した。
「あの方はお脳が、もうひとつ、おみ足の間におありのようだから」
でもこの言葉の内容はよくわからなかった。
「アレックス様が、どうして地下牢に捕らわれてしまわれたのか、その理由をご存知? グスタフ様の御勘気と民衆の怒りがぶつかって、アレックス様がお亡くなりにならなくてはならなかった、その理由をご存知?」
冤罪でも何でも、そもそもアレックスには罪をかぶせられるような後ろ暗いところがあるはずがない、クローディアはそんなことを言った。
「…でもそんなこと、モイラ様にはすぐにはわからないことですわね。モイラ様が悪いわけではないのですもの。
 でも、真実を御覧になってしかるべきモイラ様が、目と耳を塞がれているのを見るのは、わたくしとても忍びありませんの」
その時、窓の向こうから、花園には不似合いな金属音がした。
「御覧になって」
モイラは窓に導かれる。
「先日、モイラ様のお披露目に馳せ参じて来たパラシオン騎士団の方達ですわ」
「え?」
モイラはぴく、と身体をこわばらせた。それはおそらくしてはいけない反応なのだろうが、クラウンやグスタフに吹き込まれた先入観が、無理矢理にもそうさせた。
「真実を」
クローディアは、さらによく見るよう促した。一つの鎖に繋がれて、十人程の男の群れと、鎧姿の護衛の戦士が数人。すぐにはわからない場所に、地下牢の入り口があるのだが、モイラには彼らの行く先はわからなかった。
 先頭の男…ウィル・ローバーン…が足をとめて、まるでモイラ達がいるのをわかっているように宮殿を仰いだ。連れられる鎖の男達も、つられて見上げてくる。
 視線に刺されて、モイラの頭の先から足の先まで、原因不明の震えが駆け抜けた。最初に見上げて来た男以外には、面識がないように思えた。植えられた先入観が先に立って、長くは見たくなかった。
 モイラはすぐ窓から離れた。己の身体を抱き締めて記憶の箱の隅をつつくような眼差しをしながら、窓に背を向けて立ち尽くしているのを、クローディアは見つめている。

 「モイラ王女?」
と。誰かが言った。
「え?」
どよ、と一行が顔を見合わせる。
「あの人陰、モイラ王女だったのかな」
「御息災であればよいが」
しんみりする声がして、一同は黙った。誰もが、貞操の事まで考えたが、口にはしない。
「それにしても解せん」
と、全員を代弁するように、パラシオン騎士団長だけが炎をはく。
「冤罪を焚き付けた容疑だと? 我々がそんなことをするはずがなかろう、いかに盟主陛下と言えどもこのようなばかげたいたず」
「だまれ!」
「ら」
連行して来た鎧の兵士が、さやにしたままの剣で後ろ頭を小突く。ローバーンはそれをさえたしなめて、鎧の兵士達を帰す。
「しずかにして下さい。今、さるお方が動いて下さっています。しばらく辛抱して下さい」
そう言って、また列を先導していゆく、ゆっくりと彼らは動き始めたが、ユークリッドだけが動かず、みなつまずいたりのけ反ったりした。
「あれは、王女だった」
ユークリッドの誰に言うでもない呟きに、フィアナ団員が「え?」と聞き返す。
「本当に?」
「説明はできない、だが、」
窓の佳人の視線がはっきりとわかったのだ。震えが来た。言葉でなど説明できない。身体が覚えているのだ。
 うまく言葉にしようとぱくぱく口を開閉するユークリッドを、ローバーンが助ける。
「そうです、モイラ王女はあの場所にいらっしゃいました」
「え」
一同ははっとローバーンを見る。
「さるお方が、あなたの姿を見たいという王女様の思し召しを叶えて差し上げたのです」
ローバーンは、全く事務的に抑揚なく説明してから、一行を地下牢に連れてゆく。

 ローバーンは、最後の一人が牢に入ったことを確認してから、閂だけをおろした。
「特に鍵をかけるつもりはありません。今ここで逃亡されても、よいことはありませんが」
「わかっている、我らの無実をはらし、王女にパラシオンにお戻りいただくまで、諦めたりせんぞお!」
パラシオン騎士団長は檻越しにまた炎を吐く。
「そうでしょう、マクーバル卿!」
「…」
ユークリッドはランプの光を逆光に浴びて、声なく床に腰を下ろしている。目だけに宿る光がいつになく鈍い。
「こうなることも一応覚悟はして来ましたが、正夢になるとは、あまりいい心持ちではないですな」
炎を吹くのをやめて、騎士団長はぐるぐるとあたりを見回してみる。
「本当にわれわれは、我々の本分を全うできるのだろうか」
「しなければなりません」
他の言い分など聞かぬと言うように、ユークリッドは口を開けた。
「一見遠回りに見えるかも知れませんが、確実に王女に近付いている、そんな気がしてなりません。いまは、あの牢番どのの言うさるお方を信じましょう」
「…ありがとうございます。あなたならそう言って下さると思いました」
いつのまにかローバーンが牢の中を覗き込んでいた。男十人あまりの目が一斉に注目する。彼の様子が、どうもユークリッドを知っているようだったので、みなキツネに摘まれたような顔でユークリッドとローバーンを見比べる。
「はい。アレックス王が亡くなる前の晩、お友達の御訪問があって、その時に一緒に来ていた人です」
「ほお」
改めて、一同がユークリッドを見た。だがユークリッドはすげない。
「私は、主人の供をしていただけです」
「…そうですよね」
ローバーンはユークリッドの顔を見ていたが、そう厳しい調子で言われて素直に引き下がった。
「私も、去るお方のご協力を仰いで、私にできることをしたいと思います」

 ローバーンが、所用、と去ったところで、フィアナ団員が言った。
「ユークリッド団長、ちょっとひどかったんじゃないですか、今のは?」
と、ややとがめる物言いで言ったが、ユークリッドは何も返さず、外野に背を向けて丸くなってしまった。

 初夏に差し掛かったオーガスタの空気は、湿度が低く、気温もそう高くない。降雨量こそ少ないけれども、その日ざしは明るく、空も澄み切って青い。
 だが、それは地上での話である。オーガスタ宮殿の地下牢には清々しい空気どころか夜も昼もない。
 今日も、細いランプの明かりが、鉄格子の向こう側のむさ苦しい面々をぼんやりと写し出す。外見こそ、この劣悪な空間に順応しつつあるが、ひとりひとりの瞳ははまだ、プライドと希望に澄んでいた。ちょうどこの時期の晴天のように。
 そもそも、檻の中のパラシオン騎士団たちにかけられた、アレックスに冤罪をかぶせた嫌疑というものが冤罪なのである。こういう人間を巻き込んだすべての不条理が、ただ、宮殿の中にモイラを拘束するためだけにまかり通っているというのも、不条理といえば不条理である。とはいえ、騎士団の存在は、モイラの意識を、グスタフ以外に向けるのを阻む存在であるらしいので、正直なところ、牢の面々は牢の中で、生きようが死のうが、その事実が洩れさえしなければどうでもいい存在であるらしかった。もちろん、檻の中には聞こえないことであるが、表向き、事情の聴取は続けられていることになっている。
「太陽が眩しかった、か」
いつか、グスタフの印象について「アレックスの引き立て役にしかなれなかった」とのナヴィユの語った言葉を語ると、パラシオン騎士団長はそういって床に背中からへたり落ちた。
「それで人一人殺せてしまうのだから」
「何気ない一言が、国を動かしてしまうのです」
ローバーンが言った。
「いかに、盟主あるいは小国王が、深い思慮を必要とされているか、それはわかっていると思います」
「…それはよしとして、ローバーン殿、我々はいつまでこうしておれば良いのですか。貴殿の言うさるお方は本当に我々のためになっておられるのか?」
「モイラ王女が感知しなければ、あなた達の動向は問われないというのは、あくまで王女のごく周辺のことです。宮殿の多くの貴族には、先の嫌疑の首謀者とその一派ということになっていますので、それを弁護して尊厳を確保するのは、難しいことのようです」
ローバーンの声は、場に相応しい、暗いものである。ひとかけらのこされた希望までも、絶望の淵に飲み込まれるような気がして、面々はせめて景気のいいため息をついた。
「お役にたてず、申し訳ありません」
ローバーンは頭を下げる。
「気にせずに。そういうことなら、われわれも腹を据えて事態の発展を待つだけです」
ユークリッドが静かに言った。
「待つより楽はなかりけり、か」
奥の方でだれかの声がした。

 腹時計の促すままに、一同は眠っていた。こそりとも音がしない。だが、
「あの」
という控えめな呼び掛けが、自分に向けられたものだということが、ユークリッドにはすぐわかって、跳ね起きた。
「お静かに」
何か言おうとするユークリッドを、檻の向こうから身ぶりで制して、ローバーンは座り込んだ。彼はまず手短に名乗る。それから、
「手際が悪く、すみません」
と頭を下げた。
「私のことなら、気にしないで」
と、ユークリッドは、神妙なローバーンに対して仏頂面をするわけにもいかず、引き攣った笑いで答えた。ローバーンは、しばらく黙っていたが、顔を挙げて改まった。
「正直、私には、あなたがなぜこんな場所に甘んじておられるのか、わかりません」
「?」
ユークリッドは眉をひそめる。
「あの日の前の晩、あなたは、アレックス王からあとを託された人でしょう」
ローバーンはいっそう悲壮な顔をした。ユークリッドもそのできごとを思い出す。
「では、あのとき、あなたはここにいたのですか?」
「意識的に聞くつもりはありませんでしたが。…だいたいのことは聞きました」
その言葉には、暗に、アレックスの公にされるべきでない例のことも知っている、というニュアンスも混じっていた。
「このことは誰にも言ってません。あの方にも」
「そうですか」
安堵した顔つきのユークリッドを、ローバーンもうなずいて見た。
「死ぬことはないと、私も思いました。死ぬのなら、多くに必要とされるあの方より、自分の方がなにより損にならないと。むしろ、国を動かす一大事を起こして、だれかが歴史の隅に名前を残してくれればと、そんなことを考えていました」
アレックスに死ぬ必要があったのか。ユークリッドはその言葉が妙に心に引っ掛かった。あのアレックス本人ががそう判断したのだから、と、その時のユークリッドには、強硬に撤回させる勇気がなかった。個人的な事情で死ぬことができるような、アレックスはただの市井の一人物ではないのに。
「やっぱり、私は王を見殺しにしたのだろうか」
「え?」
「王を見殺しにすれば、王女が私のもとに転がり込んでくると考えてしまったのだろうか」
「ユークリッドさん」
ローバーンが言う。
「そんなこと言うのはやめて下さい。私はそんなことは思いません。現に、モイラ王女の危機にあなたはこうして来ているじゃありませんか!」
宮殿の中にも、ちゃんと味方はいます。ローバーンはそういうようなことを言って、消えかかったランプの芯を少し引き上げた。
「今すぐに、というわけにはいきませんが、もう一度、モイラ王女と会える機会を作れるようにすると、あの方は言っておりました」
それを伝えたかったのです、と、ローバーンはやっとランプのようなごく弱くおぼつかない笑みをもらした。
「ひとつ教えて下さい」
ユークリッドがやっと口を開いた。
「あなたの言うさるお方とは、いったい」
「先様のたっての御希望で、お名前は明かせません。アレックス王がここにいらしている間、せめて不自由のないようにして下さった方です。モイラ王女もあの方が保護しておられます。先日あなた方を御覧になってから、モイラ王女は何かを思い出しかけているらしい、と、そういうことでした」
「思い出す?」
ユークリッドが眉をしかめたのを見て、ローバーンは、またぞろモイラが言い包められたことを語った。ところどころは、記憶すら抜けているらしい、とも。
「では王女は、我々が、アレックス陛下を陥れたと、そうお思い込みになられていると?」
「そういうことです。あのクラウンとか言う男、そうとう頭が回ると言うか、口がうまいと言うか」
「…」
ユークリッドは頭を抱えた。ローバーンはまた例の辛気くさい顔になる。
「私ももう一度立ち上がります。モイラ王女をあなた達の手にお渡しするために」


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