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にじゅういち・月が追い駆けてくる

 モイラは、あの奥庭を望む部屋にいた。
 考えれば考える程わからなくなってくる。
 いったい、誰の言うことが本当のことなのか。
 かぶせられた冤罪一つ、はらすことができないような手際の悪い人間では兄はなかったはずだ。城での内政を処理する姿を覚えているが、いつも毅然と、相応の態度と分別を持っていたではないか。冤罪であるならば、それをちゃんと周囲に説明し、自らそれを払うためにたち動くだろうに、どうして兄はその冤罪を着たまま死んでいった?
「落ち着かれまして?」
声に振り向くと、クローディアが立っている。
「わたくしったら、一時にいろいろお話してしまって、まだ全部をちゃんとお分かりにはなれないと思いますわ」
「お気遣いくださってありがとうございます、クローディア様」
「いいえ、アレックス様を見殺しにしてしまったのですもの、せめて貴女に対して償わせて下さいまし」
クローディアは、自分で茶を注ぎ、モイラに差し出した。
「家から取り寄せました。落ち着く薬草が入っておりますの」
「いただきます」
不思議な香りの茶を含んだのを見届けてから、クローディアが改まる。
「ウィル・ローバーンという男を御存じのはずですの」
「え?」
「地下牢の番人ですわ」
「ああ、」
おぼろげに思い出した。一瞬、その地下牢の亡霊のようにも見えた、沈んだ表情の男だった。
「彼が、例の地下牢で、気になる人物を見つけたと言うことですの」
クローディアの口振りが、急に、探るようになってくる。
「ユークリッド・デア・マクーバル・イダ・バスク。ブランデルの方のようですわ」
「?」
始め、モイラの表情は、その名前を聞いても何の反応も示さなかった。そのあとくるっと瞳が動いて、額を掴んだ。
「どうしまして?」
「頭が、眩んで」
「でも、もう少しわたくしの話を聞いて。
 その方、ブランデル王太子殿下の特命隊長で、アレックス様の御受難にさいしては、あの方と一緒に拘束されていたパラシオン騎士団にかわって、パラシオンのお城と街を救ったということよ?
 モイラ様、本当なら、もう縁もゆかりもないはずのブランデルのお方が、どうして、パラシオン騎士団と一緒に、牢に入っておりますの?」
「そんなこと、私にはわかりません」
モイラの声は悲痛だった。アレックスの冤罪を聞かされて数日の間に、全くちがうことを言われた。それのいったいどちらが本当のことなのか、どっちを信じればいいのか、まだモイラには判断がつきかねた。
「私、お兄様に会いたかっただけなのに…」
テーブルに突っ伏す。流れ落ちた髪が茶器の中に入らないように、そっとクローディアは押さえる。
「御本人はあまり話したくないようですけれど、ローバーンの話によれば、アレックス様から、モイラ様を託された方ですのよ」
わたくし、その方に会うつもりでいますの。クローディアが言っても、モイラは突っ伏したままで動こうともしない。頭痛を堪えているのか、泣いているのか、それはわからない。クローディアは侍女を呼んで、モイラの世話を任せた。

 オーガスタ宮殿をはるかに望む、そこそこの宿のそこそこの部屋。ナヴィユたちが投宿して何日もなるが、突然、ヒュバート・アクター(革命分子首魁)が、王都の革命分子を伴って訪ねてきた。
「驚きましたよ、一体誰から連絡があったと思います?」
と言って彼は、ぺろりと書状をだしてきた。
「ウィル・ローバーンですよ!」
「えっ?」
ナヴィユ達はついがたりと立ち上がり、ふたりして書状にかぶりついた。
「やっぱり、ユークリッドは宮殿に潜入できたんだ」
「しかしモイラ王女に接触できてない」
「ちらりと見えただけか。これじゃ目の前にニンジンぶら下げた馬だよ。気持ちばっかり焦ってしまう」
「宮殿の中のことは、外部にはほとんどもれないのでしょう?」
ライナルトが顔をあげると、ヒュバートはうなずいた。
「積極的にもらすのは慶事ばかりですよ、それはどこでも同じでしょう」
「そうですね、信頼を失わせるもとになることはあまり公にはしたくないものだ」
ライナルトは、「ロクスヴァはそんなことはありませんが」とけん制する。
「ただ、姫様が宮殿に入った事情と言うのは、ハッキリ言って不当だ」
ナヴィユが書状をたたいた。
「おそらくあの坊や(ユークリッド)は、一度公になったものは覆せないとでも思っているのだろうけれども、そんなことはないさ。
 それをするのが私達。
 ねえ?」
ナヴィユはヒュバートたちに意味ありげに微笑んだ。
「…ネリノー王女クローディアか、宮殿に味方がいるのも心強いね」
「ネリノーといえば、先日小国王がかわられたようですよ」
「へえ」
「新しい王は王女の弟君で、これがアレックス王に傾倒しているとかで」
「金魚の何やらか。ということは、逆転でネリノーそのものが味方に?」
「もちろん、それだけじゃ足りませんが」
にやりとヒュバートは笑う。
「ディートリヒ公子は、まだまだご自重頂きたいところです」
「エルンスト殿下に、ねぇ」
「やっぱりそこに帰るのか」
「もちろん、我々とそちらの事実を回覧して、同志に騒いでもらいましょう。それぐらいはできる」
「グスタフの非道に抗議しに来た『全く関係のない』ブランデル騎士…しかも王太子の懐刀…まで、そんな嫌疑で投獄されたとあっちゃ、波風たてないではいられないだろ」
ナヴィユは悪戯を思い付いた子供の笑顔をして、最後にはヒュバート達も巻き込んで大笑いした。

 聞いたか、あの宮殿の姫様のことを! 王都の民衆は動転した。
「ブランデルに保護してもらっていたのを無理矢理連れ出したそうじゃないか!」
「抗議に来た向こうの騎士様も投獄されてしまったそうだ!」
何か腹に一物持っていそうな盟主だが、まさかそんな人非人なことをしていたとは! 王都の中にまた、撓められた弦の張り詰める音が聞こえ始める。その中心に、ヒュバートの姿があった。
 宮殿の中にも、一抹の呆れにも似た不信感がしんしんとつもる。兄の安否を気づかう心を手玉にとられたモイラを同情する視線はいよいよ高い。
 だがモイラは、奥庭を望む部屋の寝室で、ぽつりと寝転がっている日が多かった。
モイラを守りにここまでやってきたというユークリッド・マクーバルという男。あのとき感じた身を震わせる視線。思い出すたびに体にたまっていくけだるさ。
 その人物はきっと、思い出すべき人なのだろう。そして、思い出してほしいのだろう。目を閉じると、寂しそうな濃い青の瞳の男が、夢の中のモイラを抱き締めてくる。彼は何かを知っているのだ。隙間だらけの自分の記憶を埋めるものを持っているのだ。
 会って確かめたい。忘れてしまったことを思い出させてほしい。
「私が総てを…あの人自身のことも…思い出したら、あの寂しそうな瞳はどう笑ってくれる?」

 その頃。
「私に?」
ユークリッドは鉄格子を握り締めてきょとん、とした。
「やっと一人なんです、連れ出しても大目に見てもらえるのが」
ローバーンは神妙な顔をして、牢の奥を除いた。パラシオン騎士団長はさして気にするふうでもなしに、
「報告を忘れないで下さい」
とだけ言った。

 宮殿敷地内の兵舎で身支度を整えられてから、ユークリッドはそれでも、浮かない顔をしていた。
「やっぱり、私ではまずいのでは。ロクサーナ卿(パラシオン騎士団長)がおられるのに」
「モイラ王女はぜひあなたに会いたいのだそうです。…いや、あなたと名指しはしなかったそうですが、間違いなく」
ひょっとすると、あなたのことを思い出したのかも知れません。ローバーンは淡々と言って、兵舎から外に出るよう促した。

 まるで、自分がいかに悩んでいるのかも全く知らぬ顔に見える月光が、奥庭を白く浮き上がらせていた。
「なにごとか、よからぬ空気の淀むここには全く似つかわしくない風景だとは思いませんか」
ローバーンは、その風景を自分のものであるかのように言った。
「モイラ王女がここに来てからです。この風景が美しく思えるようになったのは。あの方は不思議な力をお持ちだ」
ずい、と背中をおされて、ユークリッドは二三歩のめった。足下を確認して、視線をあげる。
「…」
 白から緑、あるいは青という淡いコントラストの中、風景に浮き上がるようにはっきりと色彩をもってモイラが立っていた。あらわれた自分を怪訝そうに眺めている。文字どおり夢にまで見た言葉に尽くせぬ麗しの顔ばせが、触れられる世界にある。
 自分でもわかっていなかったが、彼女のもとには駆け足で寄っていた。
「…」
モイラは、片膝をついたユークリッドを物言わず見た。見つめながら、モイラの瞳に色が戻ってくる。
「あなただわ」
と言った。
「私の思い出さなくてはならない人、私に思い出してほしい人」
モイラのいうことはすぐにはわからなかった。それでも、ローバーンがいつか、モイラの記憶が一部抜けているらしい、という言葉を思い出して、
「さようですか」
と威儀正しく…他人行儀に…言った。
「名前だけでも思い出せれば、あなたに呼び掛けられるのに」
モイラは、腰を落としてユークリッドに視線を合わせた。
「毎晩私を悩ませる人」
「え?」
「寂しそうな、青い瞳の人」
「え?」
「私を抱き締める幻」
二人はごく自然に腕を絡めた。それ以上の言葉はなかった。
 月の光はいよいよ白く、凝った雫が二人の上に落ちてゆくようだった。

 「モイラ様?」
遠くから自分の名前を呼ばれたような気がして、閉じていた目を開いた。男が戸惑いがちに、声のする方を気にした視線を返した。だがモイラは小さくかぶりを振って、あえて自分に向かせた。体にはまだ熱い名残りが残る。腰から下が痺れたようで、凭れ掛かっていなければ崩れ落ちてしまいそうだった。彼のしたことはグスタフとそう変わることではない。だがこの男は、いっそ突き落とされたくなる気持ちを察してくれる。
 男の膝の上にかかえられたままで、
『お願い、なんとかして!』
とつい口にしてしまった。その後遠慮がちに、だがためらいなく打ち込まれた「楔」の鼓動が、まだ男の腰を挟んだ太ももの間で聞こえる気がする。でも体の奥で火のともったような、この感覚にならばいつまでも縛られてもいいと思う。
 そのさ中に心に浮かんだ言葉。
「あなたの名前を思い出したの」
男の体温を確認するように身を動かしながら言う。
「…」
だが、その名前を呼べなかった。目の当たりが急に熱くなって、男の肩に擦り付けてしまう。
「おかしいわ。今までずっと一緒にいたはずなのに、あなたの名前を呼ぶのが恥ずかしい」
「そのお気持ちだけで、私は十分です」
男の声は深く暖かい。

 「王女、今の私は、ごく矮小な存在です」
月が消え、太陽が再び現れるまでの、わずかな間の暗闇の中で、ユークリッドは、モイラを腕の中で暖めながら言った。担うものが余りに不釣り合いで、涙が出る程肩が細かった。
「私一人だけでは、王女をこの宮殿から出して差し上げることもできません。
 そんな私を見兼ねて、多くの人々が、内外から私に力をかしてくれます。
 王女、どうか、心安らかにおいでください」
「ここを出れば、私のなくしてしまったものがあるの?」
「…はい」
モイラはわけもなく滲んでくる涙を、ユークリッドの肩で拭い、求められるままに口付けられた。
「どうか、真実を」
「ええ」
信じます。モイラは男の耳に囁いた。何ごとか囁きかえされて、モイラは笑みながら、今度は花園に背を埋めた。

 「そうか、モイラ王女はお元気でいらしたか」
パラシオン騎士団長は満足そうにうなずいた。
「いや、卿の帰りが余りにも遅くて、当局に捕まったのかと思いましたよ」
「どうも御心配をお掛けしたようで。これまでこれからを話し込んでしまいました」
「我々のことは申し上げてくれましたね」
「はい」
「うーん、武者震いがするなあ」
そんな声がした。
「いよいよ動くぞお」
そういう面々を、ローバーンは目を細めて見ていた。

 ヒュバート達によって暴露されたモイラの事情、すなわち「モイラ王女はこの宮殿に拉致されてやってこられた」こと、は、ようよう宮殿の内部に届いた。そして、ディアドリーからモイラを連れ出したのがクラウンだということもつたわり、説明を求められて
「そんなうわさになってしまったのですか?
 それは解せませんね、モイラ王女御本人がここにいらっしゃりたいとおおせになったのです。やむを得なかったのですよ、さもなければ、城から身を投げられかねん勢いでしたからね」
クラウンはそう悪怯れず言った。彼はグスタフが内々にディアドリーに潜ませていた密偵だということになっている。
「ブランデルに落ち度があったとは言いませんがね、…抜け出すのは簡単でしたよ」
彼はそうにやりと笑い、面々を唸らせた。
「そういうときに、盟主陛下からオーガスタ宮殿に伴えと御命令があったことが救いでした。何しろ、王女様はお世話がたいへんですからね」
クラウンは張り付いた笑みで自分を取り巻く周囲を一べつした。
「とにかく、この宮殿にも『デ・ラ・マンチャ』が大勢いるようですから、盟主陛下としてはその噂の収拾は苦労なさるでしょうね。
 噂は噂です。私の口からは、すべては王女のご意志としか申し上げる事はできません。アレックス王の冤罪の事は御存じのとおりです。まあ宮殿の諸卿は、モイラ王女が盟主妃の宝冠を授かるおふれのみをば、てぐすねひいてお待ちいただければようございましょう」

 モイラがオーガスタ盟主の配偶と目されている「ようなこと」も、革命分子達は敏感に、その内側にあるかも知れないものを嗅ぎとっていた。
 モイラがグスタフの名前の下に宮殿から披露された事と同様に、パラシオンと革命分子に内部から切り込む糸口をつけようとしているのは、革命分子みなが感じていた。
「それだけじゃありませんね」
と、ふたたびロクスヴァを訪れ、中途報告をしたナヴィユはもっともそうに頷いた。
「グスタフが姫様の、そこまでして体裁を整えたい理由は他にあるでしょう。パラシオンに食い込みたいのなら、姫様の首筋に刃物を当てるような扱いでも効果は同じでしょうし」
するとディートリヒは、珍しくナヴィユの台詞に先回りした。
「…グスタフは、正当な后としてモイラを望んでいる、のか?」
「そうです」
ナヴィユは頷く。
「あれだけ拒否反応を起こしていたアレックスの妹なのにか?」
「そうです」
ディートリヒは目を丸くしたあと、あからさまに嫌な顔をした。
「われらが団長、朴念仁との噂だかいユークリッド・デア・マクーバルがあの骨抜かれようですから、姫様を前にしてグスタフはおして知るべしというところです。
 …それはそれとして、アレックス王は、王子なり王女なり、あるいは王妃なり、王位について全く継承の途を遺されなかったのですから、王妹である姫様が、実際即位されていなくともパラシオン王に等しいと言う事でしょう」
相手にとって不足はありません。ナヴィユはにっこりと笑った。
「当の姫様は、先日団長が接触に成功して、夜明けまで『懇ろにお話を承った』そうですが」
思わせぶりな台詞だが、もともとそういう機微にはとんと疎いディートリヒは字面通りにしか理解しなかった。夫人とライナルトは機微に触れて納得している。
「まあ、アレックス王にしろ、団長にしろ、グスタフは勝てない戦いにこそ熱をあげる意気に満ちた人物である事は認めましょう」
「因果な男だ」
ディートリヒはあきれ顔で呟いた。そしてライナルトに手を差し出す。
「で、ライナルト、オーガスタのさる筋がエルンストにまわしてほしい書簡と言うのはそれか?」
「は、ブランデルに行く前に、公子にも御覧いただければ幸いと、先様は仰せだそうです」
ライナルトが、赤い蝋に封じられた書状を差出した。差出しこそ、ネリノー小国王になっているが、それはこの書状に箔を添えるだけのもの、短い時候の挨拶だけで、別紙には、その姉クローディアの親書がつらつらとしたためてある。
「自分達の力だけではグスタフの所行を糾弾できないから、助力を頼む、か」
「やっと暗かった灯台の下が重い腰をあげたというべきでしょう、団長やら革命分子やらがいままで動いてきたのは何だったのやら」
「で、ロクスヴァは何をすればいいと思う?」
「公子、もしかして、パラシオンにいかれるおつもりですか?」
「悪いか」
「駄目ですよ」
ライナルトは天をあおいだ。
「確かに、カイルの事を皇帝陛下(ミハイリス帝国皇帝アンセルム二三世)は重く見られて、内々にご詮議をされてはいるでしょう。でもそれが、公子が再びパラシオンに介入される理由にはなりません」
「介入だなんて、いかにも迷惑そうに言うな。父上やロクスヴァに迷惑をかけるつもりはないよ」
「いえ、公子にそのおつもりはないでしょうが、公爵閣下が近々あとを譲られるお考えでいるところで、万が一の事があったら」
「…」
ディートリヒはぶすっと、明後日の方向を向いた。
「ライナルト、何か変化があったらすぐ、逐一、絶対に報告しろよ」
「それはもう」
ライナルトは襟をただした。そして、
「では公子、船の時間がありますので」
と、退席しようとする。そこに、後を追いかけるように夫人が声をかけた。
「それでナヴィユ、モイラ様とマクーバル卿は何をお話ししていらしたの?」
「はあ」
夫人の言葉に、一瞬間をおいてから、機微を悟ってナヴィユは答えた。
「それはのちほど、姫様御本人からお聞き下さい。それだけは私にも推測のしようがありません」

 外出の許可を申し出たクローディアの行き先、それがパラシオンであり、その目的がグスタフの手からモイラを取り戻すため(モイラをグスタフの手に落とさないため)の工作だということは、クラウンにもわかっていないことではなかった。
 物語のため、それをグスタフに説明しなかったと言えば、一応職務怠慢であるからいかにクラウンでも手足の一本は覚悟するべきことだ。だが、よけいな入れ知恵なしに、クローディアの外出許可を出したグスタフは、
「父親(前ネリノー王)を偲んで、弟とも語りたいことがあるのだろうよ」
と、いつになく機嫌よさそうに彼女に同情するようなことを言った。
「余にも親しい肉親がない。幼い頃母を失ったときには、世界が終わったようにも思ったものだ」
「…そういうお気持ちを外に向ければ、少なくともモイラ王女に対してつつがなくておいでになれるとは思われませんか」
クラウンが思ったことをそのまま口にすると、グスタフは明らかに気分を害された顔をして明後日の方を向いた。
「まあ、よろしく陛下の機能が回復されても、王女はじつは美味でいらっしゃらなかったらいかがなさいます?」
「どういうことだ」
グスタフはやおらクラウンに向き直った。寝耳に水の状態で自分の思惑を否定されたようだ。クラウンの鼻に自分の鼻を捩じ込むような勢いで詰め寄ってくる。
「誰だ、そいつは」
「そいつ?」
グスタフが、モイラの寝台に初めて入ることを許された男(と穏便に表現しておく)の正体を知りたがっていることは、クラウンでなくても見え見えの態度だった。だがクラウンは首をひねる。
「さあ。ディアドリーでそういうことがあったらしいと、人づての人づてで耳にしたものですから、そういう光栄がだれにあったかは」
実のところ、クラウンがそれを知っていないはずがない。その上でしらばっくれた。

 ディアドリーでの遅めの春のある朝は、寒の戻りとも言うべき寒い朝だった。
 モイラから召されて彼女の部屋に入ったクラウンは、時候の挨拶にそのことを口にした。
「御機嫌はいかがでした。昨晩はたいそう冷えましたが、お風邪など召しませんでしたか」
「ええ、ユークリッドがいてくれたから大丈夫だったわよ」
「団長どのが? 宿直ですか」
「違うわよ」
モイラはそう返したが、その後は言うつもりがないようだ。正直クラウンは目を点にした。やっとというかとうとうというか「あの朴念仁が?」頭の中で聞き返していたが、言葉にはならなかったからモイラはにっこりしたままだ。クラウンは思わず、モイラの全身を、服を透かすように見回した。
「そのことをいっぱい話してあげたいけれど、ナヴィユが『心意気が悪い』って言うから、教えてあげない」
ねえ、何かお話してよ。モイラは催促してくるが、吟遊詩人の血が変な方向に騒いだ。
「まあ、人がどう申し上げたかはそれとして、そのことを私に少しお聞かせ下さいよ」
「え、でも」
逆に催促されて、モイラは珍しくはにかむ。
「姫様のお話でさらに私の歌が磨かれるのですよ。
 この雪がすべてとければいよいよ私も旅立ちます。行く先々の馴染みが新しい歌を待っております。私はこの城であったことを美しい物語にして歌い継ぎたいと思っております」
言い出したうちは出任せだったが、そのうちだんだんそれでもいいと思い出していた。モイラは少し考えていたようだったが、
「じゃ、教えてあげる」
と言った。

 じつはディアドリーの中とて、情報の気密と言う点で絶対に安心なわけはなかった。クラウンはそういう密偵を何人も見た。城のやんごとない筋はそういうことには拘泥はしない(というかあけすけな)態度ではあったが、さすがにモイラの身辺の事まで知り得たのはおそらくクラウンだけだっただろう。モイラは城の表になる、式典やその他大勢の出入りするような場所にはあらわれなかったし、フィアナの徽章をつけたあの女傭兵は姫様と一緒にふざけていながらめざといものだ。しかも剣の腕は超一流と見えて、噂にもならないが雪に埋められるようにしてすてられた刺客もいたっけ。モイラに近付けない、物腰でそれとわかってしまう彼等は、クラウンのことを胡散臭そうに眺めていたものだ。
 そしてカイルからクラウンのもとに連絡の受け渡しをしてくれる密偵は、自分より遥かによくできた人間で、雪だろうがなんだろうが、自分にあてがわれた部屋の窓にまでやってきている。
「私はどうも密偵には向かないようですねぇ」
と暢気そうに言ってみても、先方はぎらりとしたまなざしを向けただけで何も言わず去っていく。
「…」
それにしても、あの朴念仁との情事を、なんとあの姫様は無邪気に艶に語るのだろうか。その中身は、過去に自分が味わうなり他の人間から聞いたなりの情事の印象と大してちがうところもなく、その甘さやとげさえ十分にわかっていないだろうに。
 一通り聞き終わってから、クラウンは言った。
「なるほど、そのようにお幸せな夜をお過ごしなら、このごろ一層お綺麗になった理由もわかろうと言うものです」
「どうして?」
「…いや、世の中にはおせっかいな男も多いですからね、男の味を覚えて間もない肌が、一番美しい、と」
「どうして?」
「御自分のお胸にお手を当てて御覧なさい」
クラウンは楽器の調律をしながら言った。モイラは言葉通りにして首をかしげる。
 そういうことを回想している間に、クラウンはグラリと足下が揺らいだ気がした。
「…いかんな」
 クラウンは己を嘲ってグリンした。
 彼女のすべてを歌い継ぎたい。惚れたわけではない。自分の芸術の対象として、彼女以上の材料はない。
 何をしてでも最高の舞台を、脇役を用意して、百年たってもそのままで生きるような目の前のあでやかなモイラを歌いおおせてみせようではないか。
 次の時やってきた例の密偵を、クラウンは謀ってその頚動脈を切って窓から投げ捨てた。そしてモイラに、オーガスタに行ってもらうように口を出した。

 それにしても、残酷な妖精とは我ながらよく形容したものよ。貴族となれ合うのを始め拒んでいたパラシオンの革命分子も、モイラに出会ったことで変わっていった。
 己のやましさを照らし、あまっさえいやしてくれるような存在なのか。きっとグスタフのいつにないきれいな言葉も、それに当てられた結果なのだろう。
 だがモイラ本人は、その誰に対しても微笑まない。
 いまのうちはあの朴念仁が視線の先にあるべきなのだろうが、結局それでも、きっとモイラ本人にも、本当は自分は何を見つめていたいのかわからないのであろう。いや、そうであると信じたい。
 閑話休題。グスタフの計画に水をさすようなことを投げかけておきながら
「あくまでも噂です」
とは、一応断わってみたものの、ありそうな取り繕いだとも思えた。
「誰か侍女の事がモイラ王女の事として流布してしまったのでしょう」
「それならばいいのだがな」
「それよりも、早くそれを御確認いただくためにも、モイラ王女を配偶にたてることを公になさいまし。宮殿の中はその噂で持ち切りです」
「いずれお前が言い出したことであろうに」
グスタフは苦虫を噛んだ。だが芯から腹立てたわけではないようだ。彼は今、いかに機能を回復させてモイラを何やらすることしか頭にない有り様だ。もはやグスタフのオーガスタ再統一というのはモイラに附随してくるものでしかない。今はまだ、なんとも形容しがたいものがただよっているが、落日革命以前のモイラは、それこそ女神でもひれふすようなものがあるだろう。この小人物など地を這う虫のように額突く事しかできないような。


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