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なな・見えない明日に歩むものとして

「王!」
しめやかな呼び声が、昼なお夜のような暗い地下牢の通路を奥に向かって、ランプの丸い光りと共に近づいてきた。牢の鉄柵が、光りが擦れ違うにつれ、鈍く光り、傷だらけの手を浮かび上がらせる。抗うことを忘れた…雌伏の時に甘んじているだけかもしれない…瞳が、やはりランプの光に照り、その行方を眺め、消えていく。一つではなかった。一つ一つの牢に、立ち居に困るほどつまっている。
「王」
声の主は牢番のものだった。もっとも奥の牢の前でその光は進むのをやめ、置かれた灯りが、今なおたった一人だけに守られている牢のなかを照らした。ひざまずく牢番の鉄柵を越えた向こうから、まず目に入ってくるのが、それ自身が光を放っているかのような黄金の髪である。襟足や前髪が不自然に伸びて不揃いになっている。そして、ラピスラズリの瞳が動いて、牢番を見た。誰あろう、パラシオン王アレックスである。一年余り、そろそろ二年になろうとしている牢生活で、すっかりやつれ、薄汚れてはいたが、天性の王質、そして美貌はいや増すばかりに衰えてはいない。
「すっかり、にぎわしくなったな、この牢も」
感心とも、皮肉ともつかない口調だった。
「そして、私は、帰るところを失うのか」
「何をおっしゃいます。全ては今、不当な監禁を受けている王のためを思って…」
「…」
アレックスはふい、とそっぽを向いた。この牢番は、最初、昏君の勘気をあえて被った自滅の道を歩む愚か者としてアレックスを迎えた。からかい半分に牢番のほうから他愛のない話を持ち込み、アレックスがそれに時折思いついたように答えると言うことが数ヶ月続いた頃には、すっかりこの囚われの貴人に心酔してしまっていた。
「こんな立派な人を罪人にするこの世の中は少し間違っている」
牢番は兵士仲間を次々と説得し、地方ともつながりを作ってきた。オーガスタ各地に、革命の波の初めの一石を投じたのも、帰省などで地方に散ったときの彼らだった。誘う水は待たれていた。すぐに、革命分子が結社を作り動き始めた。初めはオーガスタから遠く離れて。そして、どんどん王都に迫って行く。誰もはっきりとは表現しなかったが、いつのまにか、アレックスは新しいオーガスタ盟主として担ぎ上げられていた。
「…王さえ首を縦に振っていただければ、いつでもこの牢を開けるのを厭わないといいますのに…」
「私はこのままでいい」
アレックスは呟いた。カギは、とうの昔にはずされている。だがアレックスがその鉄格子の外に出たことは、投獄以来、一度もない。
「たとえ、民がどんなに暗君と罵ろうとも、盟主は私の唯一絶対の主。その主の定めおいたこの境遇を、どうして抜け出せようか」
「王、そんなに簡単に諦めないで下さい」
「諦めてなどいない。第一諦める理由もない」
「妹姫様が、一体どんな気持ちで、兄王をお助けなさりたいとお思いになっておられると」
アレックスは再びよそを向いた。それを言われると、身を切られるように辛い。薔薇の花に雨の滴るようなモイラの涙にくれる姿は、確かに美しいが、それは彼の望むところではない。
 決して高い学を身に付けたわけではない牢番の言葉が、アレックスの胸に染みた。モイラは今、この不肖の兄を救いたくて、まったく不似合いの戦の中に身を置いているのだった。ディートリヒも、エルンストも、然りである。
「王、王はオーガスタ全ての民の希望です。王こそが正しき御方として開放されることを、皆望んでおるのです」
牢番が畳み掛けるように続けた。口こそ開かないが、他の牢の住人達…すべて、反体制活動の容疑で投獄された政治犯である…も、希望に満ちた眼差しを注いでいた。
「…それでも、私は盟主に逆らうことはできぬのだ」
アレックスの言葉は、一瞬空を漂った。だが、次の瞬間には、地にしっかりと立ち、その場にいる全てのものを揺るがした。
「だが、私は自らのなしたことを恥じはしない。そして、盟主に諌言できることを誇りにすら思う。ただ、今は術がない。私は、貴君らに、私の言葉の代弁を、行動を持って示してほしいのかも知れぬ。いや、そうなのだ。
 私から、改めて願いたい」
「王!」
地下牢中が、密やかな歓声と興奮に満ちた。

 ここで、変に知恵の回ることだけについては、グスタフを評価しておくべきだろう。彼は、ロクスヴァも属するミハイリス帝国のカイル公爵と親書を取り交わし、密約を取り付けた。もはや、膝元の動乱を押さえるのに精一杯で、どの小国も動けなくなったオーガスタに、カイル公家は軍事的な支援をすること、そして、平定の暁には、返礼として、公家に隣接する小王国を一つ新領地として委ねること。
 この頃、遅ればせながら、ミハイリス帝国は、オーガスタの動乱は、国単位での介入はしないことを公にした。公国(公爵領)も形成するロクスヴァ・カイルといった大貴族には、それぞれでの判断に任せられたが、当局が無介入の姿勢をとった以上、右へ習えが無難であった。カイルも、表ではそうした上で、「公子の友誼を尊重する」姿勢のロクスヴァに対し難色を示した。カイル公はロクスヴァ公に対しこんなことを言ったものである。
「考えてもみられよ、公。このミハイリスの中でもまだその地位の固まらぬ公子が、どうして他国の内乱に堂々と関わって、刃を持って主張することが許されよう? 公はご子息をかいかぶり過ぎてはおられまいか」
やんわりとだがえげつなく、ディートリヒを呼び戻し、それ以上オーガスタに関わらぬように促した。あとはカイルがよろしくオーガスタを料理してもらうものをもらうだけだ。だが、ロクスヴァ公の態度はあっさりとすげない。
「息子は家の名も、ましてやこの帝国の名も背負ってはおらぬ。ただの友思いの一騎士として事態収拾の手伝いをしておるだけだ」
「無関係ではいられまいに。加えて、同様にパラシオンに協力しているブランデル王太子妃は公のご息女。兄妹そろってブランデルに恩を買わせておいて、これ以上ブランデルに何を求める?
 パラシオンからは?」
「よけいな詮索だ」
ロクスヴァ公は、それまで正対していたカイル公に背を向けた。
「何の損得勘定もなしに、ディートリヒはパラシオン王女を助けているのだ。パラシオン王に対する友誼こそが、唯一無二のあれの原動力だ」
そう言い放ち、ロクスヴァ公はその場を離れた。
「友の危機を看過するような息子娘を持った覚えはない」

 モイラはすっかり気落ちしていた。帰る国がなくなる。未曾有の事態に戸惑うしかなかった。私は王女でなくなったらどうなるのだろう。そして兄は、王でなくなるとどうなるのだろう。答えなど、彼女にはわかろうはずもなかった。仮の本拠のハイランド城に戻ってから、それだけをずっと考えていた。
「見ていて気の毒になってしまうわ」
かける言葉も見つからず彼女の部屋の前を素通りしてきてしまったオルトが溜め息を吐いた。ディートリヒの机をたたき続ける音が言葉少なな部屋に虚ろに積もってゆく。
「落ち着けよ」
エルンストはそれを咎めたが、彼自身も椅子から投げ出された足を絶えず震わせる。そんな時、ロクスヴァ公から内密の親書が届いた。
…かくかくしかじかと言いがかりをカイルから付けられた。お前達のやましくないことを主張したが、納得はきっとしていまい。カイルの振舞が気にかかる。オーガスタと影で繋がっているかも知れない。オーガスタの出方から目を逸らすな…
「そういや、ネリノーも使えなくなって、丸裸同然の筈なのに、少しも慌てたそぶりがないのが気になるな。やけのやんぱちで王自らご親征、なんてのを想像していたが」
「…カイルと手を組んでいることは疑うべくもないだろう。あそこも腹黒いことにかけては天下一品だからな。大方、小王国の一つあたりで手を打ったのだろう」
ディートリヒは憮然とした声で呟きながら公の手紙を折り畳んだ。
「私たちは、これからどう動くべきなんでしょうか」
ユークリッドが口を開いた。彼は今までエルンストの脇でやりとりを聞いていた。ディートリヒは、突然彼が口をはさんできたことをさして気にもせず、友人の問いに答えるように言う。
「うむ、考えていたのだが、革命分子と手を組むというのはどうだろうか」
「え?」
エルンストとオルトがほとんど同時に声を上げた。
「兄様…正気?」
「至って正気だよ」
「待て、相手は貴族なんていらないなんて言ってる輩だぜ?」
「おっと」
戸惑う二人を見てディートリヒは笑う。
「その認識は偏ってるぞ。革命の本当の目的はこのオーガスタに新しい盟主を迎えることなんだ」
「どうしてそんなことが言えるよ」
「実際に町に出てみたのさ。ありがたいことに、アレックスを解放したいと言うところで、我々とあっちは一致している。…モイラに活躍してもらうか」
「何をさせるつもり?」
「革命分子の首魁たちと会談の席を設けよう。その席に、モイラを同席させよう。彼女は、解放されるべき真の盟主アレックスの妹…彼に直接繋がるステイタスシンボルだ。彼女にあうことは、彼らにとっても決してマイナスにはならないと思うが、どうだろう」
「…今の王女に、それが耐えられるでしょうか」
また、ユークリッドが言い差した。
「それによって、ますます、国に見放されるという感を深められるのではないかと思うのですが…」
「…」
三人が黙った。ユークリッドはその重さに、すぐさま
「申し訳ありません、…出過ぎました」
と口にした。部屋の隅で、ディートリヒの側近の騎士が見とがめの眼差しを向ける。どうもこのブランデル王太子の従者は作法を知らないと思っているようだ。
「でも、ユークリッドの言う通りだわ」
オルトがやっと口を開いて、それがユークリッドには救いだった。
「ただでさえ、弱っているモイラに、革命分子と会ってくれなんて、私言えないわ」
「そうか」
ディートリヒが唸る。
「やはり、時期尚早か」
だが、エルンストはかえって明るく
「諦める必要はないよ。オルト、彼女に事情を話してくれ。君なら人当たりもいい。
 パラシオンはなくならないという所を特に強調してな」
と言う。
「…あなたがそういうのなら…」
オルトにもやっと笑みが戻る。
「よし、今日はここまでだ。モイラが納得してくれれば次に進もう」
ディートリヒが立ち上がったのが散会の合図だった。

 「それにしても兄様、町になんの用があったのかしら」
オルトが首をかしげた声がディートリヒの耳には聞こえていたが、彼は何も言わず、左右に再び外出する旨を言い、用意をさせるようだった。

 「本当に?」
オルトから話を聞いて、モイラはまず聞き返した。
「パラシオンはなくならないの?」
「ええ」
オルトのうなずき方が、余りにも自信があるようだったので、初めは半信半疑の堅い顔をしていたモイラも、少しずつほぐれてきた。
「アレックス様を助けたいという人たちがたくさんいるのよ。その人たちと手を組んで、一緒に立ち向かっていくことになったのよ」
見る間にモイラは綻び、そして緩んでいった。
「…ありがとうございます。私のために…」
「だめだめ、泣いちゃ」
オルトはあわててくずおれるモイラを抱き止める。
「いいことなんだから」
モイラは顔を上げて、涙を拭われるままにしている。幼い子供のようで、それでいて一瞬胸をときめかせる仕種だった。
ところでオルトが向き直る。
「あなたも何か言いなさいよ」
「は」
 エルンストについて新参の団員の教練に向かうところを無理矢理に引き止められて、ユークリッドは今になって薄々、どうしてオルトがそうしたのかがわかった。直前に、エルンストと視線で語り合っていたことといい、木石ならぬ人間なのだから、彼らの意図は何となく推し量れる。
「不調法ですから、お相手にはなれません」
と答えると、
「あそう。じゃ私は失礼するわね。話題はなんとかひねり出しなさい」
オルトはくす、と小悪魔の笑みを浮かべて颯爽と退室してしまった。
 二人は残されてしまった。ユークリットは明らかに、呆れ、オルトの振舞に戸惑い、モイラも不安を覚えた。見知った仲ではあったが、隔てなく談笑できるほど親しいわけでもない。二人同時に何か言い出そうとして口をつぐむこといかほどか。ユークリッドがやっと口を開いた。
「いつかは、差し出たことをいたしまして、お詫びのしようもございません」
「いつか?」
「馬の件で」
「!」
モイラはきょとんとして
「そのことならもう気にしないでいただけますか」
「ぜひとも私の口からお詫び申し上げたいのです」
「私の我ままだったものを、あなたが謝ることは…」
モイラは眉根をひそめかぶりを振る。これ以上このことには触れてほしくなかった。
「戦場において、私は一兵卒よりも役に立ちません。戦場の判断になれたあなたの言うことには従うべきです」
「いえ」
ユークリッドはなお返す。
「馬を救う方法が、ないわけではありませんでした。ただ、より早くエルンスト様に合流するために、やむなく」
「それでよろしいのよ。あなたはエルンスト様に仕えているのだもの」
「王女」
ユークリッドは一歩進み出た。隠された主命のことも、洗いざらい話してしまいたくなった。主命に覆われたその下の劣情がせり上がる。固まりつつある決心が鼓動をあおる。
「私は…」
しかしモイラはとうとう背いた。決心はたちまち萎えた。
「一人にさせてください」
彼女の言葉は冷たかった。ユークリッドは、またも、有るまじき不敬を恥じ入って、礼もそこそこに退室した。


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