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ろく・嵐の前の嵐

 その時野営に残っていたのは、モイラ以下五十名にも満たなかった。そしてその三分の二が、傷病兵や救護の尼僧たちからなる非戦闘員だった。
 そして事件は突然だった。騎士・兵士を送り出して、張り詰めていたがどことなくやさしい雰囲気を、見張りの絶叫が破った。
「野盗だああっ!」
彼等は森の中を音もなく進むことに長じている。不意をつかれて、野営の見張りたちは足元をすくわれたように右往左往する。天幕の中のモイラにも、きな臭い匂いが届いた。はや天幕のいくつかは炎に包まれて、野盗たちが物資の袋を抱えて逃げようとしていた。
「王女、敵襲です!」
見張りに出ていた兵士が駆けこんできた。その後ろから、他の天幕で看護をしていた尼僧達が駆けこんでくる。
「野盗の様子はどうなの」
と聞くモイラに、兵士は回らない口で
「二十人ほどですが、こちらの戦力が低くて」
といったことを言った。
「前線に連絡は出して?」
「フィアナの騎兵が今出ました。ですが、連絡がつく前に、この野営は壊滅してしまいそうです!」
集められた人々のほとんどが、言葉を失った。
「陣は死守します。ご安心を」
兵士は言い、最敬礼をして天幕を離れた。モイラも、固唾を飲んで、剣を抜いた。戦えるものとしての義務感が沸き起こってこようとしていた。が、
「お姫様、天幕の真ん中においで、外に出ちゃいけない!」
天幕の入り口に、自分の腰丈より長い剣をかかえて外を見据えていた女傭兵が、やおら立ち上がった。
「シスターたちも同じだよ! お前たち、天幕の回りに散らばりな、あのおっさんたちを迎え撃つんだよ!」
女剣士の一団が、天幕の外に出ようとして、キャンバス地の裂ける音が気味悪く響いた。
まだ動ける軽い怪我の兵士が立ち向かおうとしたが、野盗の斧に力尽きた姿が、その裂け目の向こうから点々とみえる。
「ああ、」
とため息がして、聖印を切る尼僧の姿があった。が、そうしている間にも、野盗の土足が、裂け目からじゅうたんを汚した。女たちは、その場にいる重い傷病兵やモイラを下に折り重なるようにうずくまる。
「女だ!」
「すげえ、選り取りみどりふかみどりじゃねえか!」
遠くで雷が轟くようなしゃがれた声が彼女らの頭の上をかすめてゆく。ひいい、と細い悲鳴が上がり、手を合わせ祈りを捧げるものもいる。
「そうだ。今のうちに『お祈り』しておくんだ」
野盗の一人が値踏みするように見回して、仲間に向かって顎をしゃくった。標的になった小柄な尼僧は人山から引きずり出され、空の簡易寝台に投げ出される。腕を縛られ、猿轡を噛まされて、山賊がそばに立った。
「どれ、味見をしてやるか」
尼僧が猿轡の奥から絶叫する。ほとんどのものが、顔を覆っていた。その間にも、一仕事終えた野盗が続々と現われ、思い思いに娘達を手にして、その場で味わうなり、どこかにしけ込むなりし始めた。戦えるものは、まだ野盗を追っているのだろうか、外の剣戟はまだやまない。

 そして、「自分にだけは来てほしくない」という雰囲気は、逆に気取られるものであった。
 ぐいと、腕をひかれたような気がした。
 どんと、絨毯に投げ出された気がした。
「いたぜいたぜ、下の方に、とんでもねぇ別嬪だぁ」
「その方を、誰だと思って!」
という声が遠い方でした。
「あ? 女だろ?」
上の方で、近付き過ぎてもう黒い物体にしか見えないものが、ごろごろと言った。全身が震えているのが嫌にハッキリわかった。取り返しのつかないことが私にも起きてしまう? 顎にかけられた指が肌に擦れ、やすりで撫でられているような感じがした。立ち上がろうともがく足の間に、丸太のような野盗の足が入ってきて、太ももの当たりに未知の異物感がした。全身が総毛立つ。
 あっても意味のないようなものだが、自分の革鎧があれば、鎧下の襟元を暴かれるようなこともなかっただろう。この男はただコトをいたす能のないことはしないようで、あいたモイラの胸元を黒い指の腹で撫でた後、おもむろに顔を埋めた。
「うぃいい、たまらん匂いだぜ」
 だが、ず、と空気が動いた。自分の鎧下の上に何か落ちた気配がして、それはじわりと生暖かい。
「ばぁかたれ、おまえなんて手も握れないようなお人だっての」
女剣士の声がした。生暖かい血の気配は、鎧下をとおしてモイラの腹を暖めてくる。

 半分ほどが生き残った。命だけは助かったり、難を逃れたりした娘達と、生き残った兵士達が、抵抗できぬまま殺された怪我人や、悪夢の後自決した尼僧達の遺体を一つ天幕に集め、ささやかな鎮魂の儀式を行った。
 あの女傭兵の一団はタフなもので、外の野盗を撃退した後天幕になだれ込んで、彼等と打々発止と渡り合って、物資の大部分は取り戻したのだ。そして今も、彼女らは焼けた天幕を燃料に白湯を沸かし、一同にふるまっている。
 モイラはしばらく、何の手もつかない状態だった。気を失ったように小一時間は眠ったが、虚脱感はとれない。それでも、生き残りを労って回ると、みな一様に安堵の表情に変わっていく。モイラはため息をついて隅でへたり込んだ。
「命拾いしたね、お姫様」
そこに例の女剣士が、モイラの姿を見つけて声をかけた。
「ありがとうございます」
「礼はいいさね。あたしゃあの手の火事場泥棒が一番嫌いでね。
それに、お姫様は、いくら将校といっても戦いを知っているわけではない。野盗って言うのは、お姫様の剣の練習の相手みたいに、教科書通りに動いてなんてくれないんだよ」
「はあ」
「あそこでお姫様が剣振り回しても足手まといだったわけさ。
けなしているんだよ、わかってるのかい?」
「はい。でも本当のことですから」
モイラは微笑んで去る。
「…大体、あんたが傷物になったりしたら、あの坊やが可愛そうだし」

 前線の部隊を待つ間に、やっぱりモイラは眠ってしまったらしい。目を覚ますと朝になっていた。彼女は寝台に運ばれて、回りはほとんど、天幕の中に雑魚寝をしていた。
「みんな、柔らかいお布団で眠りたいはずなのに」
心痛く思いながら、気がつくと、ユークリッドがそばの椅子に腰掛け、うつむいて眠っていた。すぐ、モイラの頭に、例の馬の一件がよぎった。エルンストは、果たして、彼に自分の言葉を伝えてくれただろうか。寝台から抜け出して、彼をじっと見た。同い年と聞いたが、自分よりははるかに老成した風があった。胸や腕の筋肉が脈々としている。特注の槍を振り回すのだから当然かもしれない。
「お兄様は、もっと線が細かった気もするわ」
男性の体型が、アレックスをもって標準とするのか、それともユークリッドなのか、そんなことはモイラはついぞ考えたこともない。なにより、兄以外の男を至近距離から観察するのは初めてだった。
珍獣を見ている気分で、しげしげと眺め続けて見る。兄ほど美しくあるわけもないが、特別醜いわけでもない。何より疲労の色が濃かった。目の回りの色が少し陰り、頬や顎には忙殺の末の無精ヒゲらしき黒い点々が目立つ。
 政治的に問題をいろいろ抱えたこの進軍、家臣達が一度は心配したことがモイラにはやっと何となくわかりはじめてきた。第三国の勢力が加わってはディートリヒ様もエルンスト様も兄のためにあるいは手痛く不面目を被る事があるだろう。でも当の御本人達はそれを厭わない様子だ。ディートリヒ様の御家来衆の中には、自分の身に問題が降り掛かることを恐れて、パラシオンに随行しなかった騎士もいたと聞く。
「そういう方もいるのに、この人は、エルンスト様とお互いを信頼しあってここにいるみたい」
こんな戦いさえ、自分のせいで起こらなければ、彼も本国で穏やかな生活を送っていたかもしれないのに。
「せめて私は、この人の今の眠りを邪魔してはいけないのだわ」
そう考えた。と、彼の目が覚めようとしている。モイラは慌てて寝台に座り直す。すぐに濃い青の瞳が開き、モイラを捕えた。彼の瞳は、一瞬だけ、不思議な輝きを見せる。馬の件はまだきにかけているのだろうか。だが、のっけからその話題は出せなかった。ユークリッドは、すぐにいつもの仏頂面とも思える落ち付いた顔を見せる。
「お目覚めでしたか」
「ずっと私たちを見ていて下さったのですか?」
起き抜けにかけられた問にも、彼は慌てず答える。
「日が落ちてすぐ、ここに帰還しました。残っていた面々は疲れていたので、俺と仲間の有志とで仕事を代わりました。ずっと起きていたつもりだったのですが…」
モイラは立ち上がり、寝台をならし始める。
「あなたも疲れてますのよ。大して時間はありませんけど、横になったほうがよろしいわ」
「いえ、今ので私には十分です」
ユークリッドは手を振って辞退したが、さあさあと寝台に追い立てられた。が、彼自身にして見れば、ついさっきまで王女の眠っていたその温もりが残っている布団ではとてもゆっくりと出来たものではない。それでも身を沈めると、ふわりと王女の薫りが立った。
「眠るまで、少しお話を聞いてよろしいかしら?」
布団を直しながら、モイラが尋ねる。
「昨日のお話は聞きまして?」
「はい。今、仲間がディートリヒ公子のもとに報告にいってます。
 …王女にもいろいろ御苦労をかけたことでしょう」
「いえ、それはここにいれば当たり前のことですもの、覚悟があって幸いでした。
 そちらこそ、ネリノー軍とはどうでした?」
「それが…」
ユークリッドは解せぬ、というように
「遭遇しませんでした。日没近くまで待ったのですが…」
「え?」
「作戦かもしれないので油断は出来ませんが」
「ハイランドの本陣は大丈夫かしら。手勢が少なくなったところに全軍が進撃、とか、そんなことになっていなければいいけれど」
「ディートリヒ公子も、その他ロクスヴァの将軍方も、優れたお方ばかりです。
 御心配は無用、で、す」
声がとぎれて、モイラが再び覗き込んだときには、もうユークリッドは眠っていた。深呼吸をして、寝返りを打って、布団の中で胎児のように手足を縮める。モイラは、一番いいたかったことを言いそびれてしまて、ため息をついた。
 そして、話声に起きてきた救護兵らにそのままにしておくように言うと、エルンストの元に向かった。

 「今、本陣から早馬がついたところなのだ」
エルンストはもう起きていた。いや、眠っていないのかもしれない。とにかく、疲労の色もさりながら、それ以上に渋い顔をしている。それでも、モイラが入ってきたことに気がついて、
「ああ、モイラか、…大変だったな」
と言った。だがすぐに、重い顔に戻る。
「どうしましたの?」
語りかけたモイラの顔を横目で少し見上げてから、彼はため息をつくように言った。
「ネリノーで革命が起こったそうだ」
「かくめい?」
耳慣れぬ言葉を鸚鵡返しする。
「民衆が、王も貴族もいらないと言い始めたそうだ。彼らは自分達に無理を強いる。我々は操り人形ではない、と」
彼はかみ砕いて言い直す。
「ネリノーだけじゃない。他のオーガスタの小王国でも、同様の動きが広まっているそうだ」
モイラは取りすがっていた。
「エルンスト様、パラシオンは? パラシオンはどうなっていますのっ?」
「…今の所、パラシオンだけにはそんな動きはないらしい。だが、時間の問題だろう」
「そんな…」
モイラは地べたにへたり込んだ。体中から力が抜けても、頭だけが、いやにはっきり、ぐるぐると回転をしている。自分の記憶にある限り、父も兄も、民を虐げたことなど一度もない。何年かに一度、どうし様もない不作の年があったが、その時も、自分たちは、民と一緒に粗食にあえいだのである。民には食べるものすらないのだと、その時彼女はよく言い聞かされた。とにかく、民は皆、自分の一家を信頼している、そう思っていた。
「仲良しであれば、そうでないものもいる。そういうことだ」
エルンストは、半ば錯乱しながらの、モイラの上のような言葉にそう返した。
「…お兄様が、お帰りになる前に、国が…」
「受け入れてくれないということも考えられる。まさか、親父の気回しが、本当に役にたつとは思わなかった」
「…」
「モイラ、アレックスが解放されて、行くところがなくなったら、二人でブランデルに来ないか。不自由はさせないつもりだ」
モイラはエルンストの台詞は半分も聞いていなかった。
『帰る国がなくなる? あれほど愛したあの美しい国は、もう私を受け入れてくれない?』
いつまでももの知らずの王女でもいられない、そんなことを言われたことも思いだし、モイラはこの一年余り、天と地がひっくり返ったような身の様変り方に、あえぐことしかできなかった。
「私さえ、私さえ盟主のもとに行っていれば!」
エルンストの胸ぐらを両手でつかんで、ゆさゆさと揺さぶりながら、モイラは吐くように言う。エルンストはその肩に手をそえて
「自虐的になるな! モイラ、これは当然の時の流れなんだ! 避けられないんだ!」
また力が抜けてくずおれてゆくモイラを支えながら、エルンストは言う。
「俺も正気じゃいられない… この波はいつか、ロクスヴァにも、ブランデルにもやってくる… 遅いか、早いか、それだけの違いなんだ」
モイラは涙も流せなかった。ただ、パラシオンの民が、自分たちを見限ってくれることのないように祈ることしかできなかった。
「たぶん」
慰めるようなエルンストの言葉が聞こえる。
「パラシオンは大丈夫だろう。民は恩を決して忘れないのだ」

 ネリノーで、…いや、オーガスタのいたる所で、発生した突然の革命。まだそれは、金銭による税の徴集、あるいは貴族のための労働力供出などを拒否する小さな運動でしかなかったが、後ろ明るくない小国たちは最悪の事態すら考えずにはいられなかった。
「次はオーガスタだ」
各地で起きた数々の事件の報告を聞く度に、グスタフは玉座で膝をかかえ震えた。まだ、膝もとである王都オーガスタには、その手の表立った動きらしきものはないが、誰かが暗躍して、水面下ではぎりぎりまで張り詰めた楽器の弦の勢いを保っていることは調査済みだ。怪しいものは片っ端から捕えて、牢にぶち込んだ。民衆用の牢が足りず、貴族用の地下牢まで溢れるような勢いだという。それでも、まだ、グスタフの気はおさまらない。
「次こそ…」
そして彼はやけ酒をあおった。ここしばらく、自室と玉座の間との往復のみを繰り返していた。いつの間にか、囚われのアレックスのことなどは忘れていた。あの、まったくかわいげのない下僕のことなど。


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