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ご・森の中で

 ブールを説得するには、予想より時間がかかった。なまじブール王が人間が出来たほうだったので、為政者としての正道とオーガスタへの忠義に板挟まれ、決断を下すのに時間がかかったというものだ。エルンストはそれに対して、「出兵を取り止めさえしてくれれば、当然こちらにはそれ以上ブールと敵対する理由もないし、オーガスタが、決断に対し、軍事的、政治的、いかなる手段によって糾弾しようとも、その保護の手を差し伸べることにやぶさかではない」との旨をもって説得し、成功したのだった。ひとまず、ブール・オーガスタ国境の砦を警備するために人を募ったところ、過日ユークリッドに敗北を喫したあの騎士が進んで申し出、思い立ったら吉日とパラシオンを旅立った。
 アレックスが囚われてから、実に一年に及ぶ月日がたっていた。
「一年か。思ったより長引きそうだな」
「アレックスは大丈夫だろうか…牢暮しが長い。体調を崩していなければいいが」
「早く解放させてあげたいわ…」
ディートリヒ・エルンスト・オルトの、軍議もかねたくつろぎの一時が、沈黙に覆われた。それに邪魔をしているモイラには、沈黙の果てしない重さが、自分を責めているように思えてならなかった。
「私、浅はかでしたでしょうか」
「え?」
「オーガスタから勅命が来たときに、従っていれば、兄にも、ここにいる皆様にも、こんな御心配をかけずにすんだはず…」
「おいおい、待ってくれよ」
ディートリヒはこの言葉に目を丸くした。オルトもとなりのモイラの肩を抱く。
「それでは本末転倒よ。あなたにそうしてほしくなかったから、アレックス樣は囚われることを選んだのよ」
そして、黙っているエルンストに言う。
「あなたも何か言ってよ」
「…モイラ、今君が悩んだところで、答えは出ないぞ」
「でも」
「その時のアレックスの、あの時の君の、そして今この時の我々の、決断が果たして正しいものなのか、今すぐにはその是非はわからない。はるか先…我々が書物のなかの人物になるまで」
「なにそれ」
エルンストの物言いがあまりにもよくわからなすぎたので、オルトは「それじゃ何の励ましにもならないわ」とでも言いたげに眉を潜めた。
「今の我々には、いちいち決断の是非にこだわる時間はないと言うことさ。見ずから下した判断の正当性を模索しながら進むしかない。振り返る余裕はないのだよ」
エルンストの表情は微笑んでいた。が、瞳は決して笑ってはいなかった。

 ロクスヴァ遠征軍は急速に規模を拡大していた。ロクスヴァ、パラシオン、ハイランド、そしてブランデル。各国の正規兵に民衆からの義勇兵や傭兵が加わって、パラシオンの城下町では養いきれなくなっていた。ブランデルからの物資の補給があるとはいえ、溢れる人間は騒動もおきやすい。ちょうど、ネリノー小王国に動きがあると言うことで、本格的な交戦の前に、オーガスタにより近く広いハイランドに本隊を移すことになった。
 モイラが、これをきっかけに正式に遠征軍に加入したいと申し出て、結局救護・補給部隊の将校として動いてもらうことになってしまった。例によって家臣たちは彼女を泣いて止めたが、パラシオン存亡の聞きを救ってくれた相手に対して、その償いを金品ですませるということは余りにも厚顔かつ無礼であるとの主張に根負けした。
 始め遠征軍は、ネリノーに対しても平和的に激突を回避させられないかと画策した。だが、ネリノーを偵察してきた斥候の報告は厳しいものだった。
「ネリノー王女がオーガスタ後宮に上がっていて、今の所寵愛は随一とのことです。形は多少違いますが、オーガスタに忠誠篤いのはパラシオンに劣らず、グスタフ王も頼りにして、オーガスタ王都への軍隊の通過許可も与え、そして軍備への協力も惜しんでいないそうです」
「裏での小細工は通用しないのだな。ネリノー王は軍略家だというし…土地感もあるだろう…苦しいぞ」
ディートリヒが唸った。
「しかし、ここでネリノーを打破しておかなければ、アレックスを助け出すどころかオーガスタに入ることすら出来ない」
そうエルンストが言うのを聞いているのかいないのか、斥候は地図を広げた。
「ハイランドのオーガスタとの国境は、ハイランドの全国境の三分の一以上です。この一帯には森が多く、守るには適していますが攻めるには難しいと思われます」
「森を抜けた向こう側にまでいってしまうと、退路をたたれて袋叩きに遭う可能性が大きいな」
彼等にとって余りいい思いでがない森が、地図を緑色に染めているのを苦々しく見つめていた所に、別の斥候が駆けこんできた。
「ネリノーが動き始めています。国境沿いの森に入るものと見られます」
情報によれば、部隊は三つにわかれて、ハイランド城に向かって正面と東西の三手にわかれて進軍しているという。
「よし。我々も三部隊に展開する。これまでの戦いは手ぬるく感じることだろう。強敵だ。心してかかってくれ」
ディートリヒは、解散する将校達に、そう告げた。

そしてユークリッドは、西から侵入しつつあるネリノー軍に対するために、国境に向かっていた。「新フィアナ騎士団」にとっても、一年ぶりの実戦であった。彼等は、エルンストを守護するブランデル正規軍の後ろを、馬の使えない傭兵や救護・補給の非戦闘員や物資を乗せた馬車数台を取り囲んでいる。
「また森だ」
誰にも聞こえないほどの小声で、ユークリッドはつぶやいていた。進んでいるのは森を走る街道である。普段なら旅人が行き来しているはずのこの広くはない道も、今が非常時だということを思い知らせるように全く人通りがない。しかも、ひしめきあう木の根は一部は地面を不規則に押し上げ、木の根そのものが露出している場所すらあった。主人の不安を、彼が乗っている馬も敏感に感じているようで、その機嫌はあまりよいとは言えない。まだ、今のうちはいい、実戦で馬の気が変って落馬したら一貫の終わりなのだ。ユークリッドはそれを知っている。ジェイソン卿は、退却の途中、敵におわれる恐怖とおぼつかぬ足元にパニックをおこした馬に振り落とされたのだ。彼を取り巻いていた一人のユークリッドはそれからの一部始終を見ている。馬の首を返して、彼を助けようと手綱を引いたはいいが、彼の馬も、その場を走り去ることしか考えていなかった。やっと振り返ると、二三人の異教徒の陰に、ジェイソン卿の姿が沈んでいくのが見えた。
相手が、ネリノー兵に変っただけで、あれは自分の明日の姿なのだ…
「大丈夫ですか?」
呼びかけに我に返れば、自分は隊列から少し遅れて、隣には心配そうな様子のモイラがいた。
「朝の軍議から顔色がよくないみたいで、心配してましたの…どこか痛むのでしたら、お薬…」
身をそらせて鞍袋を探ろうとするモイラを彼は押しとどめた。
「俺は平気です。王女、お気持ちだけ、ありがたく」
「それとも、ジェイソン卿のことをお考えでしたの?」
ユークリッドはそれをも否定しようとしたが、痩せ我慢は詮なしと思い直し、声なく頷いた。
「オルトリンデ様から聞きました。卿のことも、ディートリヒ様にとっては、もう一人のお父様みたいな方だったと聞いています。
貴方は、卿を見殺しにしたと御自分を苛みながら、それでもパラシオンを救ってくださいました。そして町を作り直すことに心を砕いて下さったこと…全て、卿の心通りだったと思います。
…本当に、ありがとうございました」
モイラが頭を下げた。王女らしからぬ態度に、ユークリッドは返す言葉がしばらく見つからなかった。ただ、並走する馬上の王女を見ていることしかできなかった。
 他人のことを考える暇もないほど、彼女のこの一年はめまぐるしく過ぎたはずなのだ。にもかかわらず、パラシオンの解放された朝に始めて現われた時から、その容色には一片たりとも陰りを見せていないのである。かえって、その忙しい一年の間に、美しさに深みが加わったように思える。城にいれば王女らしく結い上げている髪も、一度馬上の人となればさわやかに風に流す。兄との再会の祈りを込めて、ハサミをいれてないというが確かに、少し伸びて見えた。
 この様な妹をもてば、たとえそれが避けられぬ死出の旅路であっても赴きにくかろう。ユークリッドは、近くて遠い場所にいる、彼女の兄というパラシオン王に心から同情した。
 が、その同情の言葉も、勿論、王女の美貌を賞賛する言葉も、彼の口からは出ない。見つめたままで、自分の言葉にたいして、相手がなかなか返答しないモイラのいぶかしげな表情に、再び我に返った。今から敵と刃を交えようとしているときに、あらぬ心配をしている自分が急に情けなく恥ずかしくなった。
「…王女ともあろうお方が、一介の騎士に対してそう簡単に頭をお下げになるものではありません」
それだけ言って、もといた場所に馬を急がせた。

 そのユークリッドも、一年のあいだには、エルンストの荷物「新フィアナ騎士団」の団長であると同時に、ロクスヴァ遠征軍の名将として名を連ねられるようになっていた。後になって、トーナメントの一件に際して、ディートリヒが解説を加えてくれたことも手伝って、決して下馬せぬ勢いに満ちる彼は、「槍騎士」とだけ言っても彼のことをさすまでになっていた。
 そんな彼が、森での戦闘に及び腰になっていることが知られれば、笑い話の種ですむ話ではない。だが現に、彼の脳裏には、今にも地面の木の根が獣のように伸び上がり、彼と彼の馬とを絡めとる錯覚が、ふるってもふるっても離れない。
「逃げたい」
ぎっと目と歯を噛みしばった時、敵の矢が、ひゅ、とその頬をかすめた。

 恐れていた状況になってしまった。味方も弓を取り出したり、徒歩の傭兵が飛び出したりして応戦したが、不意を打たれたことで統率も乱れがちだ。群がってくる敵兵の包囲から抜け出そうにしても、戦いは四方木暗い森の中で、翻弄される間に方向感覚さえ狂いそうである。それでも、ユークリッドは木々の間の広い所を選び、槍を木に引っかからぬよう柄を短く持ち直し、向かってくる騎兵の胸や喉を狙って一撃のもとに倒しながら、人の切れたすきに回りを見回すと、いつの間にか、自分が戦いの中心から離されていたのに気がついた。武器の触れ合う鋭い金属音は、その時もやんではいなかったが、遠くないにしてもその距離と方向は、微妙なこだまで判然としない。そこからぼちぼちと、敵の誰かが、「ブランデルの槍騎士だな!」と言っていたことを思いだし、これが作戦であったかと悟った。
「有名税か」
苦々しくつぶやきながら、戦いの中心を探そうと、馬の首を巡らしかけたとき、
「きゃ!」
と甲高い声が響いて、やっと彼は自分の位置を悟った。後退させた非戦闘員のすぐ近く。そして、声の主は王女モイラのものに他ならない。
「王…」
女! と口にしかけたが、それは危険すぎた。彼女の正体が知れたら最悪の場合、彼女の首がグスタフの元に届くという場合もある。自分の野生のカンだけを頼りに、倒した騎兵の体を馬で越えていく。悲鳴限り、声がしないのも気にかかる。もう足元が恐いことなど忘れていた。

 果たして、モイラが追い詰められていた。モイラの馬は、大木にもたれかかるようにしている。片方の前足を気にしているようで、おそらく折ったのだろう。モイラ本人はその馬を庇うようにうずくまり、その回りを数人の騎兵が囲んでいた。正規軍も傭兵もいたが、彼等に漂う雰囲気は一様に、恩賞名誉もさることながら、目の前のこの女騎士という珍品をどう料理してやろうかとただならない。彼等はただモイラを取り囲んでいるだけだったが、それで十分彼女の恐怖はあおられた。ユークリッドは文字どおり、馬に拍車をかけた。
 そして近づきさま、彼等の背骨をまとめて真一文字に、振り掲げた槍で払い崩した。

 モイラには、面前で何が起こっていたのかわからなかった。馬車を護衛しながら後退する途中で、馬が大木の根に引っかかって足を痛めたようで、下馬して診ていたら、いつの間にか背後に敵兵が迫っていた。悲鳴はあげたが、それきりすくんでしまった。震える足を庇うように地面にくずおれ、固まる彼女に敵兵の輪が狭まる。自分がどうなろうとしているのか、いやどうされようとしているのか、数日来に親しくなった女傭兵の話からわかったような気がした。悪い夢であってほしくても、生憎現実であった。と、自分を呼ぶ声がして、息を吸い吐く間に、目の前の騎兵が急にくずおれて、馬がてんでに暴走を始める。駆けつけた騎士は槍を構え直し、お楽しみの一時を邪魔された敵の傭兵と対峙する。一合、二合、と刃の触れる音がしたが、相手が槍の石突きでしたたかに左の胸を突かれ、息をつまらせながら走り去っていく。他も、難無く利き腕をくじかれて退散した。
 木もれ日がモイラには逆光になって、その騎士が誰であるかわからなかった。思い出がよみがえった。真似して登った木から降りられなくなったとき、森についていって父の猟犬ににからかわれたとき、泣きべそをかく彼女を抱き上げてくれた手。しかし、今差し伸べられた手には懐かしい暖かさはなかった。太陽を戴いた黄金の髪ではなく、
「あ」
限りなく濃い青の光沢を持った髪が、自分の手をとったまま放心状態のモイラを心配そうに覗き込んでいた。
「お怪我はありませんか」
ユークリッドの落ちついた声が返ってくる。急速に我に返った。
「はい。私は。でも…」
馬を見やった。馬はすでに地面にへたり込んでいる。彼は下馬しその足の様子を暫ししげしげと眺めた後で、馬の装甲と鞍と鞍袋を外して、装甲と鞍を捨て置いて鞍袋を自分の鞍に取り付け始めた。そしてモイラの手をとりその馬に乗せた後で、倒された主人を不思議そうに眺める敵兵の馬に、飛び乗った。
「まだ戦闘が続いております。俺はこのままエルンスト様に合流いたします。すぐに後退させた部隊とは合流できるでしょう。伏兵にはくれぐれもご注意ください」
少し早口にそう告げて、ユークリッドは馬の首を返させてその尻をたたいた。腰が急に引っぱられて、モイラはしがみつきながら振り向く。取り残された馬は、主人が去ってゆくのを名残惜しそうに見つめている。ユークリッドの背中は振り向かず木立の間に消えてゆく。
「ごめんなさい。ごめんなさいね」
残される馬の目がつぶらに光って、寂しそうに鼻を鳴らした。モイラは溢れる涙を拭いながら離れていく。釈然とはしなかった。

 後続部隊はその後再び移動して、夕方少し前に前線と合流した。負傷兵は予想のほか多く、モイラと救護の尼僧たちは天幕の中を右往左往する。だが予定の場所に野営が張れしばらく拠点になることになっていたから、明日からの敵との接触にも余り影響はないようだ。
 ユークリッドも、あの不意打ちの傷が疼いたので、救護の天幕で治療を受けていた。と、そこにモイラが近づいてくる。彼女は礼をとって立ち上がった救護員に
「しばらくさがっていてください。後は私が」
と言う。彼等の顔を、きっと曲解しただろうなと、ユークリッドは思いながら見送った。もくもくと治療をおえたあと、モイラは
「どうしてあの時、馬をお見捨てになりましたの?」
と言った。あれは先年兄王が誕生日に送ってくれた宝物の一つだったのに、と戸板に水の説明をして、
「前にも、他の馬が足を折ったときには、ちゃんと手当して、直しましたわ。どうして…」
その間にも、モイラは見捨てられた馬に同情の涙をせきかねた。ユークリッドもすまなそうな顔をしたが、今のモイラにはただの仏頂面としか見えなかっただろう。とにかく彼は弁解した。
「非常時ゆえ、ああするより方法はありませんでした。手負いの馬は戦闘の足手まとい…命にもかかわります。あのままあの場所におとどまりになれば、最悪の事態ともなりかねませんでした。
どうか、御理解ください」
モイラにはその顔も主張も腹に据えかねた。揚げ足をとる。
「それもジェイソン卿ならそうすると?」
「…」
ユークリッドは口をつぐんだ。今の彼女ににわかにそれを理解せよとても無理だと思われた。
「わかりました。よくわかりました」
なにも言わぬユークリッドを上目づかいに一瞥して、モイラはつと立ち上がり、天幕の帳を荒々しくはねのけて出て行った。

 翌日に向けての打ち合わせのとき、いつになく身の入っていなさそうなユークリッドを見て、エルンストは
「傷が痛むのか?」
と尋ねた。ユークリッドは一瞬間を置いてから
「は、それでよいと思います」
と返した。
「そうじゃなくて… 傷のせいでだるいなら無理しなくてもいいのだぞ」
「滅相もない。こんな傷」
エルンストは、しゃっきり背筋を伸ばしたユークリッドを楽しそうに見ている。
「先刻、お前とモイラが語りこんでたと言ってるのがいてな…、邪推していいか?」
ユークリッドは茶目っ気たっぷりのエルンストの笑顔をうるさそうに見た後、かくかくしかじかと怪我した馬と天幕での会話を話した。
「お耳汚しついでに尋ねたいのですが、俺のしたことは間違っていたでしょうか」
「一武人がとった行動としてはまあ妥当だろうよ。騎士が馬を失うのは恥だからな」
ユークリッドは少し緩んだ顔で
「俺は、その場その時で最良と思われる行動をとったつもりでいます。本当に、王女の馬をその場から動かす余裕はなかったのです。俺もエルンスト様と合流しなければなりませんでしたし、王女にも非戦闘員を守る役目がございますし…」
しかし淡々と抑揚なく言う。
「きっと王女は俺を人でなしと思ってらっしゃると思います。今日のお顔はそんな感じがします」
エルンストはうんうんと頷きながら彼の話を聞いた。その後、
「しかし、モイラに武人としての機微を求めるのはどだい無理だろう。彼女の職業はあくまで王女だ」
と言う。
「それにしても」
そして笑う。
「お前も女の顔色を気にするようになったか」
「茶化さないで下さい。味方どうしで不和は士気の乱れになります」
力説するユークリッドの顔を、エルンストは値踏みするように、それこそ穴があくほどに、じっと見つめた。そして、やおら口を開いた。
「ユークリッド、お前、モイラをどう思う?」
「はい?」
ユークリッドはすぐには質問の真意をはかりかねた。わかってから耳まで赤面した。
「王子、滅多なことをおっしゃらないで下さい! 王女に失礼ではありませんか!」
「答えていないぞ。好きか? 嫌いか?」
「何でそんなことをお聞きになるのです?」
「出会って一年、フィアナの奴らにはいれあげてるのが多いからな。お前はどうなのか知りたくなっただけだ」
「美しく、しかも賢い方だとは、みな思っているように思っていることは認めます。ですが、百歩譲って、俺がそうだとしても、王女にとってはご迷惑なはなしではないですか?」
「そうか?」
「それよりは、ディートリヒ公子とお引き合わせしたほうが」
とたん、エルンストは華やいだ顔になる。
「俺は、お前に、モイラと一緒になりたいかとまで聞いた覚えなんかないぞ」
赤面のまま、自分の発言に唖然としたユークリッドの差し向かいで、彼は呵々大笑する。
「ひっかかったな。しかし、見上げた堅物ぶりだよ」
しばらくその笑いは止まらなく、ユークリッドは気を悪くした。
「王子」
「いや、すまない。こんなつもりはなかったのだが」
と言いながら、エルンストは痙攣したような声なき笑いを続ける。ユークリッドは、努めて気にせぬようにしてきたことをあげつらわれてすこしく憮然としていた。
 しかし、認めなければならない。実の所、うずくまって自分を見上げる王女の顔は舞い上がるぐらい美しかった。「美しい」という言葉以外に彼女をたたえる形容を知らないことがもどかしい。そして、こんなことを思わせる、自分を突き上げるものについても、未曾有のことだけに戸惑った。昔オルトリンデ様を初めて見たときそんなことを感じた気もしたが、今の方がもっと強烈だ。とにかく、そんな間にも、急に何かが溢れ出す様な感じが胸のうちに繰り返されて、紅潮もすぐにはおさまりそうにない。
 ようやく笑いの収まったエルンストが、書類をまとめ始めた。
「ともかく、ディートリヒに関しちゃ、無理だな。あいつはそこら辺の娘以上に幻想的だ。いつかどこかの町や森の中で運命の出会いがあると信じてる」
求めているのはあるいはイバラ姫、とつぶやきながら、エルンストは真顔になって地図を丸めた。
「ユークリッド、もういい。作戦は明日の朝にもう一度伝える。お前は賢いからすぐ理解してくれるはずだ」
「…痛み入ります」
「ご苦労だった。休んでくれ」
「はい」
立ち上がって、退室の礼をとったユークリッドに、エルンストはまた言った。
「そうだユークリッド。密命を与えよう」
「は」
密命と聞いて、反射的に彼の背筋がまた伸びる。
「…モイラを守れ。本来彼女を守るべきパラシオンの兵は少ない。俺は『新フィアナ』をその代替として、人的に増強させるつもりだ。
 それに、お前には、モイラにつり合うべき何かがある。俺にもまだ、それがなんなのかはわからん。だが、彼女と結ばれるべきは、グスタフでも、ディートリヒでもない。他の有象無象なんぞもってのほか、きっと、お前だけだ」

 その後で、エルンストは、モイラのいる救護の天幕を訪ねた。
「ユークリッドを恨まないでやってくれ。彼は彼でよかれと思ったのだ」
モイラは用具の手入れをしている。ユークリッドが語ったことをほぼそのまま話すエルンストの横で、これまで彼女は、口を挟まず、じっと聞いていた。彼の言葉が一段落してから、
「…私も反省しています。ここに来た以上、それぐらいの覚悟はしていたはずなのに…」
消え入るような声で言う。
「敵兵に囲まれて、本当に恐かった。それを助けて下さったのに、私…」
「うん」
「ここに戻って、あの人の話を聞いたずっと後で、本当にそうだったと思ったの。森のどこで戦いが起こっているのかわからないときに、怪我した馬にまで気を回さなくちゃいけないなんて… きっと、我がままなお姫様だと思ったでしょうにね」
「ユークリッドは君をわからずやだとは思っていないよ。ただ、自分の言ったことが正確に伝わらなかったことが気にかかったようだ。君も、まず自分に何の怪我もないのだから、うまく自衛したと自分を褒めるべきだよ」
モイラは「そうかしら?」と力なく答えた。そして向き直り、
「エルンスト様、私、何をするべき?」
と改まった。エルンストは目を丸くした。
「これまで通りにこの隊の救護と補給を」
「いえ、それより他に。ただがむしゃらについてきて、それだけしか出来ないなんて、もどかしい…」
モイラの青い目は灯りを反射してきらきらと金色に輝く。すなわち彼女の意欲の表われだった。そして、エルンストの言葉は以外だった。
「だが、俺は君が求めるような答えはもっていない。君はもう、重大な仕事を持っているんだ」
「え?」
「グスタフを退け、アレックスを解放して、彼の名誉を再び取り戻すために集った俺たちの盟主なんだよ。君は。ディートリヒも、俺も、オルトも、君が、アレックスが、どういう人間かわかっているからここにいる。それをわかってほしい」
「そうだったんですか」
モイラはやっと笑みをこぼした。
「わかったなら、もう辛気くさい顔はしないことだ。君が沈んでいたら士気にかかわる。フィアナのやつらは君の顔色に一喜一憂するからな」
「ま」
そして二人はほがらかに笑う。が、すぐエルンストは神妙になって
「そうだな。あえて俺が、君になすべきことを提案するというのなら、『君はいつまでもアレックスの妹ではいられない』ことをわかってほしいところかな」
「?」
モイラはきょとん、としたが、にわかに青ざめて、
「お兄様、まさか…!」
そして、つかみかからん勢いで差し迫ってくるのを、エルンストは肩をおさえなだめる。
「それを止めるのが俺達の役目だろう!?」
「ではどういうことなんです!」
「アレックスにとっては、君はいつまでも小さなモイラであるかもしれないが、君自身がその心に従う理由はどこにもないのだ。君はアレックスの人形じゃない」
「おっしゃることがわかりません」
モイラは冷や汗すら流し始める。今まで考えもしなかったことを突きつけられて、明らかにうろたえている。そんなモイラにエルンストは変なことを言った。
「身構えたら答えは見えないよ。今は忘れていてもいい」
それを聞いて、モイラにやっと血の色が戻ってくる。
「後は当直に任せて、もう休んだほうがいい。…この辺りは野犬や狼も出るらしい。馬は諦めよう」
「…はい」
モイラは素直に頷いた。それ以上彼に突っ込んでものを聞いてくることもない。彼女は用具を片付けながら、
「エルンスト様、私、明日はここにいればよろしいのね」
と聞いてくる。
「ああ。予想以上に安静の必要な怪我人が多いし、なにより君は馬を亡くしてしまったからね。ここでそういう奴等の面倒を見てくれると助かる」
「…私が言いすぎていたことを謝っていたとお伝えくださいましね、きっと」
エルンストは数瞬思案顔をして「いいよ」と返した。
「だが、いつかは必ず君がもう一度言うべきだな。俺は伝書鳩じゃないんだ」
「はい」
「アレックスはいい教育をしたな。謝れるお姫様なんてそうそういやしないぜ」
そう笑いながらエルンストは帰っていく。

 時を同じくして、ハイランドの本陣から、ちょうどエルンスト隊の野営付近にある開拓村に、近ごろ野盗が出没するようなので、物資等の保管は厳重にせよとの旨を使える早馬が向かっていた。が、それは一足遅かった。


次に