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「あのときは肝を冷やしたぞ」
全く、と、思い出しながら腹を立てている様子の黄忠の髪を、参内のために結い上げながら、梨花は
「はい、私もあの時で最後と思いました」
でも、それを助けてくださったのは、漢升様でしょう。長い一つ屋根の下の暮らしで、この話のこのあたりになると、いつも黄忠は口をつぐんでしまう。
 梨花はふふ、と笑いながら、結い紐を引き縛った。

 あの後、兵からの話では、敵の真ん中にもかかわらず、黄忠はぐったりとした呉華を抱えて、その名前を呼びながら意識を取り戻させようとしていたらしい。
「黄将軍、呉華殿は私らが拠点に運びます、兵は本隊と合流し、交戦に入り
ましたので、そちらの指揮を」
副将の進言を
「馬鹿もん! 何のための副将だ、副将なれば、わしがおらずとも、何とか戦をせい!」
と怒鳴りつけたという。

 呉華が目を覚ましたのは、黄忠が駆る馬の上でのことだった。射られた矢傷が痛む。馬の揺れでそれが増して、目を覚ましたのかもしれない。
「おお、呉華、起きたか」
「こ、黄将軍! 軍は、どうなりましたか!」
「任せておる、わしがおらずで崩れるようならば、所詮それだけという話ぞ!」
「私はここでおろしてくださって、本陣と合流なさってください」
「拠点まではすぐ、しばらく黙っておれ、舌を噛んでもわしは責任持てぬ!」

 確かに、自国拠点はすぐだった、単騎入ってきた黄忠に、拠点の守備兵は驚きを隠さない。
「こ、黄将軍!?」
「わしの兵が深手を負った、手当てを頼む」
矢傷に触らぬように呉華は下ろされ、手当てをされるために運ばれてゆく。そこまでついてこようとする黄忠を見やって、呉華は
「将軍は、お戻りください」
と、それだけいった。
「いわれずとも戻るわ。
 呉華よ」
「はい」
「死ぬ傷ではない。今度こそ勝どきをここで待て。
 わしをかばって受けた傷として褒賞を弾むゆえに、傷が治るまで、孝養を尽くすのだ。
よいな」
「はい」
黄忠は、言うだけ言って、陣の中にまで乗り込んだ馬にまた乗りなおし、駆けて行った。

 呉華は、確かに、長いこと戦線に戻ることができず、傷ついた体を癒し、父母に尽くす間、褒賞を切り詰めて暮らしてはいたが、呉華が完治するころにはすっかり底をついていた。
「私と戦の縁は、なかなか切れないと、そのときは思いました」
梨花がそう言う。
「おぬしのせいじゃ、なぜ単に家が苦しいとだけしかいわなんだ」
黄忠は、朝服に替え、あとは出仕するだけという姿で、老妻の入れた茶をすすっている。

 「何だ、戻ってきたのか、呉華」
怪我を治して戻ってきたときの、黄忠の第一声だった。
「おぬしの家の中は一体どうなっておる」
小半時は問い詰められて、呉華は、
「身内にとっては恥にしかならない話で…」
と、打ち明けだす。そもそも、その頃の呉華の年頃からすれば、まだ彼女の父は立派に出仕もできる年齢のハズだ。しかし、呉華の父は、長いこと臥せって、矢傷と引き換えに受けた褒賞は、半ば以上、積もっていた薬屋への掛け代に消えていたというのだ。
「なぜその話をせぬ」
黄忠はやおら立ち上がり、将軍の、といっては簡素な部屋からあちこち探し、
出てきた袋を持つだけ持ち、
「呉華、その薬屋はどこだ」
と、片手に呉華を引きずるように、城を出て行った。

 黄忠は、何かのために蓄えていたはずの金子を、薬屋に叩きつけ、さらに、当分は困らない量の薬を買い求め、それを全部呉華にやるという。
「こ、黄将軍…」
「わしは、まわりくどいのは苦手だ」
片手に薬の袋を一杯に抱えた呉華の空いている片手を握り、また引きずるように、呉華の家に向かった。

 黄忠は薬の掛け代をすべて帳消しにしたことを報告し、牀に起き上がった呉華の父と、その傍らの母に向かい、
「加えて、この前の戦において、娘御に一生消えぬ傷を負わせてしまったこと、この黄漢升、将として一生を費やしても償いきれぬ恥となりました。
 この上は、娘御を黄漢升がお預かりして、お二人を我が父母と思い、共に孝養を尽くしたく…」
諸膝を突き、まるで君主にするような拱手で、そう一気に言い切る黄忠の姿を、三人はただ、ぽかんと見ているだけだった。

 「私は、体よく薬草と一緒に買い上げられたのですね」
梨花がそう笑うと、
「何じゃ、人を悪者のように」
黄忠はむっと、照れる表情を隠すように腕を組んだ。もちろん、彼女の父母は、城下にその弓取りの技の噂高い黄将軍が娘を娶りたいと言い出したことに、ぽかんとしたあと有頂天になった。

 呉華の父母はしきたりだけはしっかりとするほうだった。
 嫁ぐ前、吉日を選び、加笄の席を設けた。これよりは成人という、言ってみれば加冠(元服)と同じことである。
 結った髪に、真新しい髪飾りをつけて、父は
「これよりは、字として梨花と名乗りなさい」
と、呉華に言った。
「一見白にしか見えない中に、隠れて鮮やかに赤をもつこの花は、天宮の仙女の美しさにもたとえられる。
 黄将軍を内から支えなさい。苦労もあるだろう。しかし、時がすべて、あったことを思い出話にしてくれる」

 梨花はそうして黄忠に嫁ぎ、もう軍に身を置くことはなくなった。そして、梨花の両親を見送って、もう何年になるか。
「本当に、過ぎたことはすべて、思い出話になりますね」
梨花が、しみじみと言った。黄忠の出立時間が近い。家の前に馬がつれられていた。
「全くじゃ」
黄忠はそれだけ言い、馬に乗る。その身のこなしは、若い頃に比べ、いささかのソツもない。
「では行くぞ」
「はい、漢升様。お勤め、つつがなく」
梨花は、家を出てゆく、かつて将であり、今は夫である姿に、深く一礼した。

 「黄忠殿」
道中、呼びかけられ振り返ると、同じ朝服の趙雲が、白馬を早足にして後ろからきたところだった。
「おお、趙雲殿も、今日は屋敷からの出仕か」
「時には戻らなねば、何のために拝領した屋敷だといわれますから」
「さもありなん、おぬしのように普段から城内で寝起きしておるようではのぅ」
黄忠はからからと笑い、
「屋敷もあることだ、いっそこの際身を固めるというのはどうだ」
「それは」
趙雲は、藪から棒に話をふられて複雑な顔をする。
「私はまだ早い話で」
「そう思っておるとな、気がついたら一人でおるものよ。それとも、別嬪に囲まれて目が肥えたか」
「…黄忠殿…」
なんとも答えにくそうな趙雲を尻目に、また黄忠はからからと笑い、出掛けの言葉をかみ締めていた。

『行ってらっしゃいませ、漢升様。お勤め、つつがなく…』
梨花のために華燭をともし、その朝出仕する背中に掛けられた新妻の声が、今朝の声に重なって聞こえていた。

<劇終>

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