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  梨花一枝  

 朝まだき。町はまだ眠っている時間だが、日の出る兆しが、東の空をほのかに染めている。
「ふがぁ〜あ」
そんな、ものの輪郭のやっとわかるような暗さの中、
「やれやれ、これがトシというものかのう」
目覚めた黄忠が、牀の中で肩をぐるぐると回している。
「まだ暗いではないか…」
しかし、一度目がさめてしまったら、もう眠れないのが彼の性格と言うものか、せめて日が上がるまではともう一度横になろうとして
「おはようございます、漢升様」
と声がした。
「何じゃ、梨花か。眠っておればよいものを」
「あのような大あくびを隣の部屋でされては、私の目もさめてしまいます」
妙齢であったころは百媚、とはいかなくても、五十媚ぐらいは生じただろう、そんな面影を思わせる老妻は、
「それに、今日は朝議のおありの日、お支度に時間を掛けて掛けすぎと言うことはございません」
そう言って、日が昇りきるまでの間はと、明かりをつけた。

「もう、何年になるかのぅ」
黄忠が、思い出すように言った。
「何が、でございますか?」
「決まっておるわ、お前がこの家に着てからよ」
ああ、そのことですか。黄忠のいささか照れの入った言葉に、
「あの頃生まれた親族の子が、何年か前に不惑に手が届くと手紙をよこしてまいりましたから、もうそれほどの時間はたっておりましょうね」
老妻・梨花はそう言った。
「あっという間に思えてしかたないわい」
「はい」
日が昇ってきた。黄忠は牀を飛び出し、梨花に
「弓を持て、あまりに早く目を覚ましてしもうては、時間が余って仕方ないわ」
と言った。梨花はその言葉が来るのを予測していたかのように、
「はい、漢升様」
と、着替えもそこそこに外に出る黄忠を見送り、部屋に掛けてある弓を取った。
 それが、何十年も前からの、自分の仕事であったから。

 梨花の姓は呉といい、呉華という名で軍にたち混じっていた時代があった。今呼ばれている「梨花」は、いわば彼女の字である。
 道術に心得があることで推挙され、護衛武将となり、何回目かの戦いで彼女が将と仰ぐことになったのが、黄忠であった。
「いいか、一兵たりとも、遅れずわしの後をついてくるのだ、はぐれれば最後、命は敵にわたったと思え」
黄忠はまずそう言って、所属の兵を鼓舞する。その頃の彼は、まだ若く、はつらつとした将だった。
 主君に仕える年季も浅かった黄忠は、すぐ、最前線に送られる。しかし、彼の腰には弓と矢筒が必ずあり、乱戦の中、至近距離から、弩弓のような鋭い矢を浴びせ、残った兵を盤刀で薙いで往くのが、彼の戦い方だった。
 当然のこと、弓を射るには隙ができる。その傷を癒すのが、呉華の仕事であった。
「黄将軍」
あるとき、たまりかねて、呉華が進言したことがある。
「弓とは、後方で使うものではないのでしょうか?
 黄将軍が弓の上手とは、軍で知らぬものはおりませんが、ご自重をされてください」
「なんだ」
すると、黄忠は、にわかに眉を吊り上げる。
「お前はわしから得意を取り上げるつもりか、弓一本でここまで来たのがこの黄漢升だ、お前にその戦い方を云々されるいわれはないわ」
「は、はい…申し訳ありません」
呉華は、あまりの剣幕に反射的に頭を下げていた。
「手当ては終わったのか、ならば去ね」
そうともいわれては、呉華も下がらざるを得ない。
「はい…」
呉華にできることといえば、その後、黄忠の天幕で、弓を射る間に切りつけられ、ぼろぼろになった彼の戦袍をつくろうことだけだった。

 「漢升様は本当に頑固で、どなたが申し上げても、その戦い方をおやめに
なりませんでしたね」
梨花がそう言うと、黄忠は
「わしゃ、弓には誰にも負けぬつもりで今まで来たのじゃ、これからも、同じじゃよ」
そう言いながら、庭に用意させた的に弓を射ってゆく。的の端はまったくの無傷なのに、中心はもう模様もなく、束のように矢が刺さっている。
 使用人たちが目を覚まし、朝の仕事に取り掛かり始めたらしい、そんな物音が聞こえてきた。

 呉華の家は、いわゆる士大夫の家であったが、その中身はふたを開けて見ぬとわからないもの、呉家の台所は火の車、呉華が戦でいただく報酬がほとんど唯一の頼みの綱だった。

 「またお主か」
と、護衛武将として顔を出しに行くと、黄忠はそう言った。
「やはり皆様、心配しておられるのです。その弓の腕を、下らぬ戦で失ってはいけないと、なおさら、敵に渡してはいけないと」
「なるほど、この黄漢升もなかなかかわれたものだ」
黄忠は満足そうに笑っていた。
「…呉華といったな、おぬしこそ、戦が続いて家も心配しておろうに」
そのあと、そういわれる。呉華は
「確かに、家は心配です。ですが、私がこうして戦に出ないと、食べていけません」
「ほかに兄弟などおらぬのか」
「いえ、私一人で…」
「一人娘が戦に出て、その禄で二親を養う、なかなかできぬ孝行よ」
黄忠はひとしきり唸って、
「よいか呉華よ、わしのことはよい、自分の身を守れ、必ず生きて帰り、孝養を尽くせよ」
そう言い、
「出陣の時間だな」
と立ち上がった。

 黄忠の生まれは荊州の北部、南陽という場所である。その一帯といえば、平定すれば都への一番の近道と、大小諸侯が入り乱れ、帰趨なかなか定まらぬ場所であった。
「ヒマだのぅ」
陣中で黄忠はあくびをひとつした。そのとき対立していた勢力との戦いに備え、伏兵を命じられたのだった。
「わしには、こんな場所で敵を待ち伏せるより、敵の真ん中に踊り入って戦うほうがよほど性にあっているというに」
その様子は、本当に、掛け値なしで退屈しているように見えた。呉華はつい笑いを漏らしそうになるが、いつどんな形で伏兵が来るかはわからない。緊張は常に必要だった。
「将軍、あまりお声を立てられずに。敵が伏兵を張っている可能性も」
と言う後ろの副将を、
「だからこそ、前後左右を見渡せるように兵をおいておるのだろう」
「そうですが」
「ならば黙って見張っておれ」

 自分は飄々と口を開きながら部下に黙れとはずいぶんな言い草ではある。呉華は、そう思いながら、いささかに心得た道術で、敵が近いか、心を澄まそうとする。
 しかし、敵のほうが伏兵に関しては上手だった。
 背後でがさっと部隊の動く音。
「ほうら、おいでなすった、やはり戦はこうではなくてはな!」
黄忠が立ち上がって、
「全軍、後退しつつ応戦!」
と指示を出す。木立の中よりは、開けた場所のほうが、戦うには有利だ。しかし、それは敵にとっても同じことで、木に阻まれて弓の思うままに操れぬ黄忠の後ろを、呉華は張り付くように走った。
「呉華、何のつもりだ」
「お守りいたします」
「馬鹿をいえ、おぬしは生きるのだ、この木立を抜けたらすぐ、近くにある拠点に入り、勝どきを待て」
「できません」
「…頑固ものよ」
「黄将軍に従うようになれば、嫌でもそうなってしまいますわ!」
呉華は羽扇を翻した。しかし。

 風を斬る音がして、呉華がもんどり打つ。
「呉華!」
…腕に一本、足に一本…わき腹に…
木を失うまで、呉華は、自分が受けた矢の数を、冷静に数えていた。


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