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「雷姫!」
「維参軍!」
光景が見えていたのだろう、二将軍が走ってくる。凌統が上を見上げ、
「あんな大仰に舵とらないと、うちの水軍はこんな川も回れないほどヘボだったかねぇ」
と腕を組んだ。
「仕方ねえ、舵取りが見習いでよ」
声はそう聞こえ、すたっ、と船べりから人一人が飛び降りてくる。一方、水をかぶってただよろりとしただけの維紫を、趙雲は怒る気もうせて
「お前まで物見遊山のつもりになっていてどうする」
と言った。
「すみません、うっかりしてまし…」
くしゅんっ 言葉の最後は間抜けたくしゃみだった。船から下りてきた人物が、水にぬれなかった枝を集め始める。歩く音にからんからん、と小気味よく鈴の音が付いてくる。
「立ち話もなんだ、火にでも当たらないと、風邪ひくぜ」
「こっちが風邪引きたくなるような格好で、風邪引かせるようなことをさせた当人が言う言葉かっつの」
「んだとぉ、ちっと寒いが、やるってならやるぜ?
「お二人ともやめてください…」
その会話を、燕淑が恥ずかしそうにとめて入った。

 火が起こされた後、からからん、と音がして、維紫の背に布がかけられる。
「すみません甘将軍…すっかりお仕事の邪魔をしてしまって」
顔はぬぐってしまってすっぴんになったが、維紫の顔はそれでも紅だけはさしたようなほんのりとした顔色をしている。
「まあ、いいけどよ、あんまり岸に近いと、ああいうこともあるから気をつけたほうがいいぜ」
「はい…」
くしゅっ
「これで維参軍が本格的に風邪引いたらあんたのせいだね」
と凌統が火の中に乾いた流木を一本投げて言う。甘将軍…甘寧は、
「やっぱ、俺のせいか?」
少しくうろたえた声を上げた。見た目硬派を気取っているワリには、こういう事態は弱いのか。
「だけどよぉ、意外とあのあたり、船に取っちゃ死角なんだよな…」
甘寧があまり強くも出られなさそうに言うと、
「もうそこまでで」
と趙雲が言う。
「これからの自己管理次第ですから、ご心配は無用です」
と二人に言い、維紫には「油断はしてならぬ」だの「そのぼんやりはいつ治るんだ」だの、時々小言めいた言葉をかける。維紫はそのたびに「はぁ」と返答するが、膝の上に、あの巻貝を乗せたままだ。
「ねぇちゃん…じゃねぇ、維参軍、それ、貝か?」
甘寧が尋ねると、維紫はこくん、と頷いた。
「海で似たようなのを見たことはあるがそこまで大きくなかったぞ、せめて手のひらぐらいだ」
「はい、それが不思議で…」
維紫はそう返答する。
「焼いてもあんまりうまくはなさそうだな」
「食べちゃうんですか?」
「食べるんじゃなきゃ、あんまり火のそばにゃ置かないがいいと思うぜ、壷焼きになっちまう」
「そうですね…」
維紫はおもむろに立ち上がって、ずいずいと歩いて、貝を元いた岩の上に乗せて帰ってくる。
「その辺に放っておけばいいものを」
趙雲がまたいらんことしいを、と難しい顔をすると、
「はい、でも、あの貝が、戻るならあの岩の上がいいって、言ったような気がしたんです」
「はあ?」
場の声が一斉にひっくり返る。
「いえ、聞こえただけの話なので…」
と言う維紫に、
「まあ、今の時期、風邪は引いたらしつけぇからな」
と甘寧は立ち上がる。
「しばらく、ねぇちゃんたちの代わりをあいつとめましょうかね」
「かたじけない」
「いやいや、そちらもご苦労様なこってす」

「点数稼ぎかい? あの通りなんで、結構狙ってる奴多いらしいけど?」
という凌統に、甘寧は
「バカ言え、俺はもう賊じゃねぇ、人のモノにゃ手を出さねぇよ。趙将軍の顔見りゃ一発じゃねぇか」
と返す。はた、として、凌統が
「なんだか今度だけは意見が合いそうだねぇ。表向きは大徳殿のため、裏を返すと自分のため。バレバレだっつの」
下がり加減の目じりを細めて笑う。
「今夜あたり、趙将軍にはいいものの差し入れだな」
「異議なし」


 その日の物見遊山も終わって、維紫は夜の警備に立つ。が
「ふぁ」
生あくびがでて、注意散漫この上ない。風邪は引かずにすみそうだが、こう眠いのは何とかならないだろうか。
 昼間は劉備をあっちこっちひっぱわり回す姫も、夜となればしおらしいものである。短く会話など交わされてる気配がうかがえて、そういえばこのごろ将軍、難しい顔してるけど、どうかしたのかしらん、などと、漠然と思ったりしている、と、
「維紫、交代しよ」
と燕淑がやってきた。
「で、でも、交代って、今日は私が…」
「うん、だから明日はあなたがしてね。
 水かぶった後って、体がだるくなるのよ。眠ったほうがいいわ。
 はいこれ」
さらに燕淑は瓶子をひとつ差し出す。
「何?」
「甘将軍からの迷惑料だって。お酒じゃないかな。体温めて、寝たほうがいいってことだと思うの」
「迷惑だなんて、私がうっかりしただけなのに」
「甘将軍は、その辺律儀なところがあるの。ややこしくなるから、もらってあげて」
「…わかったわ」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
維紫は瓶子を受け取り、近くにある自分の宿舎に戻った。

 杏を漬け込んだ、甘い酒だった。
もとよりそう飲むほうでもない維紫がすきっ腹にいれるのだから、回りは速い。一、二杯で様子を見ている間に耐え切れない眠気におそわれて、着替えるのもそこそこに、部屋の牀に倒れこむようにして、すぐすやすやと眠り込んでしまった。

 夢の中に、昼間の巻貝がいた。
「やっぱり、海のものに似ていたって言うし、海に帰りたかったのかしら」
と思いながらそれを見ていると、その貝は瞬く間に人間の形を取る。若い女性であるが何歳ぐらいかはわからない。頭と両耳の辺りに髪を分けて結いこんだ、不思議な巻貝の女性は、呆然としている維紫に、
「サザヱでござい…もとい、妾は栄螺娘々といいます」
と、朗らかに言い間違えた後、厳かに言った。
「妾はただの海の巻貝が、運よく幾年月を生き延びて、ついに仙境を垣間見るに至ったものです」
「はぁ…」
ただただあっけに取られるだけの維紫をどんどん放りっぱなしにして、サザ…もとい、栄螺娘々は話をつづける。
「このごろ、人の形を持つことを覚え、その楽しさにここまでいたり、あの場所で気力果て、天地の気を蓄えていたところに、そなたがきたのです」
「…はぁ」
「そうしたら、なんということでしょう、そなたを介して受け取る天地の気の、豊かで心地よいこと。しかし、安易に流れてはいけないと自制をし、もとの場所に戻させたのです」
「そういうことでしたか…」
風邪の引きかけの幻聴じゃなかったのだと、まず維紫はそこを安心する。
「そなたを介して受け取った天地の気は、あの岩の上で浴びる何十倍もありました。これで、妾が再び人の姿を取れるまでの時間はずっと短くなりました、感謝しています」
いかにおっとりぼんやりでも、人や人ならぬものが仙境に入るまでには長い時間が必要だということはわかる。やっと話に追いついて、維紫は娘々に尋ねてみる。
「ずっと短くとは…どれぐらいでしょうか」
「あと数十年と言うところ。そなたがいなければ、あと百年はあのままだったでしょう」
数十年も百年も、仙境に足を踏み入れられるような存在にとっては、ほんの昼寝のひと時なんだろうなぁ、維紫はなんとなくそんなことを思ったが、とにかく、その気長さには圧倒される。その維紫に、
「恩を受けたままでは悪いと思い、何か、そなたが望むことをかなえにきました。
 何か、望みはありますか?」
しかし、改めてそういわれると思いつかないのが人間と言うもので、しばらく考えて、維紫は
「申し訳ありません、今は何も思いつきません。娘々がお礼にたると思われるだけのことを。私にお知らせする必要もございません」
と言う。これは夢だから、即物的なことを求めても、おそらく夢のままで終わりそうに思ったからだ。
「無欲なひとだこと。いずれそなたが仙境に入ろうと思い立ったとき、この出来事は或いは徳として、評価されるかも知れませんよ。
 お礼は、あなたにはわからないかもしれませんが、ちゃんと授けていきますからね」
んがぐぐ。栄螺娘々は最後、呪文なのか一声上げ、そこで維紫の目もさめた。

 燕淑や、他の女性兵たちとともに、夜の見張りを過ごすこと何日か。
 当番から外れたある夜、寝不足の分を取り戻そうと、維紫は早々と牀に入る。その寝入りばな。がた、ごとん、と、戸が空けられる気配がする。維紫は反射的に枕上の小刀に手をかけた。が、
「雷姫」
とかけられた声は聞き覚えがあったので、
「は、はい」
と小刀をもとに納める。
「どうされました将軍、こんな時間に、お一人で」
「うむ、じつは、その」
声は何かを切り出したいようだったが、維紫には、伸びてくる手のほうが早かった。維紫はもといた牀の中に引きずりこまれる。
「あ、あの…」

 翌朝。二人はほぼ同時に目覚めて、がば、と起き上がる。趙雲は、自分のなりを見て、
「…昨晩、私は何をした?」
と頓珍漢なことを言う。維紫は、お互いの、寝乱れるにしてはあまりに乱れすぎている衣を指し、
「あの、その、このごろ何かお悩みのことがおありだったのは知っていたのですが…理由が私には全然わからなくて…
 その上、私も少し、ハメというか、タガというか、はずしちゃったみたいで…」
まあ、維紫がハメやタガをはずすといっても、少ない経験値の範疇の中でのことでしかないが…
 しかし、いらんこといいの維紫を放っておくように、
「おかしいな、そんなつもりではなかったのに… 甘将軍に、疲れているようだからと薬酒をもらって… この数日は調子が良かったのだが」
と趙雲は呟き続け、ぶつぶつぶつ…と昨晩の自分をさかのぼっているようだ。
そのうちに、
「そうだ」
と手を打った。
「雷姫、実は相談が…」

そしてまもなく、二つ目の袋が開けられる。

そして、維紫の預かり知らぬところで、栄螺娘々の返礼は発現していた。
維紫は、それからの時間、周りのほかの人物と同様、何度季節を繰り返しても、見た目の姿が変わらない。
 人それを、「サザヱさん現象」と呼ぶ。
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