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  栄螺娘々、祝福を授けるのこと  

 当時の暦で冬12月といえば、1800年たった今では、早い春の便りなど聞くこともあるだろうという一月ごろにあたる。
 百日宴、と後に伝えられる劉備と孫尚香との婚儀は、まだおひらきの気配もなく、今日はあちら、明日はそちら、二人の上にある月は、まだまだとろりと蜜の朧にかすんでいる。

 「策略かもしれない、と言うことを、ゆめお忘れなく」
と、本拠地を出てくる前の、諸葛亮の眉根のよった顔を思い出す。
「赤壁で共闘し、対魏への体裁を深めるための婚儀ですが…荊州を、孫呉はいまだ狙い続けている、それはわかりますね趙雲殿」
赤壁の戦後処理でなし崩し的に実質劉備のものになった荊州は、孫呉にとっては、奪取して西進の足がかりにしたい要地であった。
だから劉備は、荊州の要所に自分らをおいていわばやんわりと東側をけん制していたわけだが、その孫呉が、より深い盟友たらんと、孫堅の娘を劉備の夫人に迎えてほしいといってきたわけだ。
「殿が荊州を支配することを追認せざるを得なかったことは、孫呉にとっては打撃…
 殿を現地にとどめ置くことで我々の結束をぐらつかせる意図が垣間見えます…
 江東の野花を猛将といつくしむ美周郎…らしいといえばらしい、アジな策です」
「策のことはどうでもよろしいのだ、諸葛亮殿」
趙雲は頭の中の、何色かわからないかとにかく脳細胞をかしゃかしゃと動員させているらしき諸葛亮に尋ねる。
「というか…その孫呉への対策があるからと、私をここによばれたのでは」
「ああ、そうでしたね」
盟友の間に重ねて取り交わされる慶事のことだから、劉備に随行してゆくのは趙雲以下ほんの少しの、いわば親衛隊だ。
「私は、警備の都合上荊州を離れることは出来ません。
 殿はおおような方ですから、もしかしたら、これが策略であるとわかっていても、徳で何とかなさるおつもりかも知れません。
 その殿の徳でもいかんともしがたいと思われるときに、」
諸葛亮は、袋を三つ、趙雲に示した。
「この袋を、順番に開けてください。そのとき、あなたが殿に進言すべきことが書いてあります」
「わかりました。が」
と、趙雲は難しい顔をする。
「いつこの策を用いるかについては?」
諸葛亮は、羽扇を退屈そうに顔の前にさしかざし、
「それは趙雲殿でご判断ください」
と言った。
「わ、私が?」
つい返すと、それにさらに返ってくる
「…殿や私の指示がなければ動けないなどと、まさかそんなことを…」
自身の矜持をぞりぞりと無精ひげで撫でられるような感触を覚えた趙雲は、
「わかりました、諸葛亮殿がそこまで言われるなら、まさにその時と言う時に、この策を使って見せようではないですか」
売り言葉に買い言葉と言うか。そう言って、劉備の護衛のために荊州を飛び出してきたのだった。

 一つ目の袋はすでに開けられている。直接孫呉の胸のうちに飛び込んだら、一巻の終わりやもわからぬから、少し遠回りをすることになった。
「孔明は一体何を考えて、そんなことをせよと?」
「殿のお命が危うければこそ、急がば回れということでもありますし…」
 尚香の兄二人の母はすでに没していたが、没した夫人の妹でもある尚香自身の母は健在である。まず呉夫人に対面したところ、呉夫人は劉備の人柄を、孫堅がいなければ自分が嫁ぎたいのではないかと思わせるほどに褒めちぎり、のみならず、夫・兄弟、ついでに周瑜まで呼び立て、
「このような大徳の命を脅かすなど、そんなたくらみに尚香が使われるのは真っ平ごめんと言うものです、婚儀なら婚儀と、素直にことを運ばせなさい!」
の一声で、男共の野望は瓦解することになる。
「まさか、いつか黄巾討伐では肩を並べたお前が、義理とはいえ息子になろうとはな」
孫堅は苦笑いをし、
「…あの娘にこの母あり、義母上にゃかなわねぇや」
孫策は肩をすくめ、
「諸葛亮…まさか君がそう言うウラをかいてくるとは…」
周瑜は血を吐くように言い、
「下らん計略をねちねち練るのはもうたくさんだ、酒を持て!」
孫権はもう投げたしたようであった。

 そうして劉備は無事?尚香を娶ることに至ったわけだが、
「いや、流石は弓腰姫と二つ名を戴かれることはある」
劉備は婚儀の夜、尚香の部屋の女官達が押しなべて武装しているのだよ、と、年に似合わぬ好奇心…いや純朴さ…いやそう言うこと一切抜きにして単純に…驚いた様子で話してくれた。

 とにかく、相手は孫呉の姫である。呉夫人の気迫からして、その性格は大体推し量れたが、劉備以外の男は宦官しか入れぬようなところまで、趙雲が入れるはずもなく、
「お前がいて正解だった」
そう維紫に言った。
「なかなか跳ね返りのご様子で、ご自身も武術を相当にたしなまれているから、危ないことはないと思うが」
「はい」
「『どうしても無防備にならざるを得ない時もある』、わかるな、雷姫」
「は、はい」
「そこまで私は踏み込めぬ。頼むぞ」

 維紫は布鎧を仕込んだ特製の女官衣で、尚香の近くにいる劉備を守ることになる。とはいえ、呉夫人のニラミが相当聞いているのだろう、危なくなりそうな気配などない。
 そのうえ、この何十日と宴に続く宴。これも策のうちであろうと感づいた趙雲は、そろそろ、二つ目の袋を開けねばならないか、迷い始めていた。

 その日、劉備と尚香、それに何人かの護衛をつけさせた一行は、最寄の川で船遊びと言う趣向のようだった。おりしも、山は早い春の景色を見せ始めている、それを肴に水上の宴といったところだろうか。
 新郎新婦は、わずかな付き添いを乗せただけの船で水入らず、やや遠巻きに水軍の船がそれを見張り、川岸からも警備されているという風景に物々しさはないでもないが、そんなことも、月がとっぷり蜜の中の二人にはお構いなしのようだった。
「そちらさんも、ノンキですねぇ」
と、水軍の船の間をゆらゆら行き来する小船を、退屈そうに見ながら、護衛の将が言う。緩めの癖のついた髪を一つに纏め上げて、モノは上質だが簡単な武闘着に要所だけに皮鎧をあてた姿で、川岸の倒木に腰掛けている。趙雲がしっかり武装して「竜胆」まで握っているのに、この将の得物らしいものといえば帯にさしている両節棍だけだ。
「俺にもわからない上のほうじゃ、もしかしたらまだ大徳殿のことを諦めていないかも知れないのに」
それぐらい、策をひねるほうには疎いほうの趙雲にもわかる。だが、策中になったと感づいてるとしても、劉備が帰ろうと言い出さないから困っているのだ。
「むしろ、姫はこちらがお預かりすればそれを限りに孫呉の土を踏めなくなる方、名残を惜しむに日月足らずの情を、我が殿は心配していると思っていますが」
「へぇ」
将はひょい、と軽業のように勢いをつけて座っていた倒木から立ち上がり、
「長坂単騎駆けの勇将から、そんな風流な言葉を聞くとはねぇ」
と、茶化すような口ぶりで言った。
「主君の先を憂える身からの言葉で、そちらには少々心証のよからぬことを尋ねることになりますが、凌将軍」
釘付けにしておいて孫呉から言い出した更なる深い盟約を、劉備の暗殺で自ら破壊するつもりかと尋ねた趙雲に、護衛の将・凌統は肩をすくめた。
「俺は、本当にそんなことはわかりませんよ。
こわーいお方の目の黒い間は、まあ、大丈夫なんじゃないでしょうかね」
呉夫人が事を物騒な方向に持っていきたい方向ににらみを利かせ続けてくれているならいいのだが。
「ま、物騒な話はこれくらいにしときましょうや」
凌統がそう言うので、趙雲もやめることにした。ここでの云々が筒抜ける可能性もないではない。
「それにしても、荊州にはほとんど女武将がいないと聞きましたけど、いるじゃあないですか」
しかも凌統の関心はそんな物騒なところにはとうになく、少し離れた場所で警備のつもりか、そぞろ歩いている二人を見る。
「こちらほどではないが、いないということはありませんよ」
「燕淑も、相方が一線から引いたんで、つまらなかったようで…どうやら気が合ったってやつらしいですね、あれは」
燕淑と言う人物の話は、維紫の口から何度も出てきたので、名前だけは知っている。
 女性が武器を振るうことにそれほど敷居の高くない孫呉の軍では、女性の武将が荊州より多いと言って、維紫は不思議がりながらうらやましがっていたのだ。中でも、燕淑という人は武の道のためには女としての人生を諦めてもいいとまで言っている、と。
「ら…維紫は、今後の我が軍がそうなるためのさきがけのようなものですよ。
 武将として連れてこられたのは、男では踏み込めないところでの我が殿を見守るためで、まだまだ未熟です」
あくまでそのために選抜したのだというのを強調しつつ言う趙雲を、
「そうですかねぇ」
凌統が、端整な二重まぶたの下の目でその頭の中をみているような表情で言う。
「燕淑と組んでるのを見たんですけどねぇ、相当使うはずですよ、彼女」
当たり前だ、使えるように育てたのは自分なんだから、と言うのを趙雲は飲み込んで、
「…まだまだですよ」
と言った。

 維紫と燕淑は、警備区域のぎりぎりのところまで歩いてきていた。二人とも、見た目は女官衣だが、中に布鎧が仕込んである。
「本当よ、あんまり綺麗だから、女官で来たのかと思ったわ」
そういう燕淑に、維紫はきょとん、とする。
 綺麗などといわれたことがないのだ。そういわれてどう反応していいのか、わからない。
「我が殿のごく近くまでお守りできるのは私しかいないといわれて来たので…」
「だから、それを聞いて驚いたの。
 敵にならないことを祈るわ」
燕淑は面白そうに言って、もと来た道を戻りつつ
「折角同じ副将にまでなったのに、縁組であっさり、なんだもの…つまらなかったの」
と呟くが、聞き手の維紫の姿がない。
「維紫?」
振り返ると、警備区域の目印になっている川岸の大岩に、ぼんやり維紫は座っている。
「維紫、どうしたの」
「…なんだか、風景が不思議で」
遠景に見える、裾野の極端にない不思議な山並みを、維紫は視線を明後日の方向に照準を定めて眺めている。
「それに、この石、乗ってると気持ちいいの」
「…もしかして、あなたの将軍号の道の障害は、そのうすらぼんやりしたところかもしれないわね」
とにかく、二人一組で行動しなくてはいけない。
「維紫、早く降りないと、予定が狂ってしまうわよ」
と言う燕淑に、維紫は
「…ええ」
頷いて、何かをよっこら、と抱えて降りた。
「何を持っているの?」
「燕淑、これ、貝よね」
「ええ…巻貝…この辺じゃ見ないわ」
維紫が抱えている、子供の頭ほどの巻貝は、巻貝にしては随分とげとげとして、
「川のものじゃない気もする…」
と燕淑が言った。
「でも、貝に間違いはないわよね…お食事にも、よく似た貝が出てきたし…」
「蜃、だったりして」
燕淑がつい言う。海の果てに住み、幻…蜃気楼を吐き出すという大きな貝のことだ。
「でもあれは海のもので…」
維紫が言ったとき、
「危ねぇぞ、よけろ!」
と声がした。

 その声ですぐよけられるならよほどの反射神経である。
見えていた燕淑はあらかじめ退っていたが、川に背を向けていた維紫は、その川の水を頭からかぶる。
「おーい、ちっと船止めろや」
と言う声の後、上のほうから
「なんだ、別嬪がいると思ったら、荊州のねぇちゃんか」
と話しかけられた。水をかぶって、結った髪も顔の化粧も台無しである。しかし維紫は、巻貝だけは離さなかった。

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