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  何とはなしに一日を  

 降って沸いたような維紫の転居騒ぎも、使用人の住居の準備なども整い、なんとか終わった。
 なにぶん、新しい家は狭くとも城下の一等地、周りには、だれかれと名前を聞いたらすぐそれとわかる高官名将の住まいが軒を連ねている。
「ご主人様、一体これはどういうことなんでございますか」
と、使用人はおろおろしている。あまり突っ込んだことを聞かれたくなかった維紫は、その辺はあいまいに
「広すぎて困るという方も、世の中にはいるのよ」
それだけ言っておいた。使用人たちは、隣人が誰であるかさえも知らないのだ。
 取り立てて、新しい調度品を持ってくる必要もなかったが、もとの家から持ってこさせた書簡と牀は、主になる建物に少し離れた、池のそばの小さな建物に入れさせた。贅沢といえば、池にわざわざ、もとの家からつれてきた鯉を放させたくらいか。

 とにかく、新居での生活が始まって、維紫はその自室に定めた小さい建物の部屋の牀で目を覚ました。
 閨で眠ることも試みたが、広すぎる上にいろいろ余計なことを思い出しすぎて、「一人で」寝るには向かないと判断したのだ。貧乏性である。
 とまれ休日で、用事は確か夕方からのはずだった。だから、自分の牀の中でしばらくふにゃふにゃとまどろんでから起きる。
 朝のしたくといっても、着ている服は平服でもくたびれた上下で、だれぞに見せたら、或いは幻滅しそうな気楽な一人暮らしの風体だ。
 適当に朝食を済ませた後、ややあわてたように使用人が入ってくる。屋敷そのものを持たされたときには、何をされるにも話されるにもかしこまった維紫だが、ようよう、その扱いと言うものに慣れてきた。
「ご主人様」
あの建物に戻って、何か急ぎの書簡はなかったか確かめようと立ったところに、
「門の前で、お嬢様が三人ほど、ご主人様をお待ちですが…御用でもございましたか」
と問われ、維紫は考えることしばし、その後、
「…忘れてた…」
と、額を押さえた。

 先日の会話。
「維将軍、このごろお引越しされたんですね」
卒伯の耀夏に尋ねられて、「ええ」と維紫は書簡から目を離さずに答えた。
「将軍が敷地が広すぎるからって、なぜか分けてくださって」
「そういえば、前から広すぎて困るなんて仰ってましたね」
広すぎて困るから仕事部屋で寝起きしていたほどなのだ。もっとも維紫までそのまねをする必要はなかったわけだが…
「新しいお住まい、教えてくださいね」
 その部屋には、同じ卒伯の金蓮と芙陽もいた。
「今度のお休み、遊びに行きたいなぁ」
と金蓮が言う。
「まだ落ち着いてないけれど、いらっしゃいよ。
 春鶯が今度転属になるの。夕方挨拶に来るから、送り出してあげましょ」
「いいんですかぁ維将軍」
「夕方からだから、昼の間は暇なの。
 町の中も一度見てみたかったけど、まだ不案内で」
「はい、はい、それなら大丈夫、私、この町の生まれです」
耀夏が手を上げる。
「迎えに行きます、街歩きしましょう!」

 そう言う話になっていたのを、すっかり維紫は忘れていた。だから、転属になる春鶯のことは説明していたが、三人と町歩きをすることまでは説明していなかったのだ。
 庭先で待たせるのも何だ、回廊の隅に待たせて、外出に耐えうる服に替える。
 あれこれと準備をして飛び出してきた維紫を最初に見つけて声をあげたのは、
「はい、大姐は約束忘れてた、私の勝ちぃ!」
小躍りする金蓮だった。

 金蓮が嬉しそうに、他の二人から小銭を受け取る。芙陽はあまり考えていなかったようだが、耀夏は明らかに不承不承という感じだ。
「…どうしたの?」
維紫が尋ねると、耀夏が
「大姐が今日の約束を忘れているかどうか賭けようって、いきなり金蓮が言い出して」
と、渋い顔を崩さずに言う。ちなみに「大姐(たーちぇ)」とは維紫のことである。義姉妹の誓いを卒伯の一人ひとりとしたわけではないが、外で将軍と呼ぶのは色気がないと、そう呼ぶことに決めたのだそうだ。
「私と耀夏は忘れてない、金蓮が忘れてるで、出てきたお屋敷の人が、私たちのことを知っていれば忘れていないことにして〜」
「お屋敷の人が『主人に伺いますので待っていてください』って言ったから、私の勝ちになりましたぁ」
「そういうことだったのね」
維紫はため息を一つついて、
「金蓮、うけ取ったお金は二人にお戻しなさい」
と言う。
「何でですかぁ」
「その代わり、これをあげる」
維紫は三人に、小銭の袋をそれぞれ渡す。片手に乗るくらいの小さな袋だ。
「少しだけど、忘れてたお詫び」
「あ、さみしんぼの袋だ」
三人は一様に声を上げたが、それぞれ違った反応をする。耀夏はそのまま懐にしまいこみ、金蓮は中身を調べ、芙陽は袋の外側を見る。そして、
「大姐は本当に紫がすきなんですね〜」
と言う。そういえば維紫の服装は、城での決まった格式の衣装以外は、濃淡はあれ紫が多い。しかし維紫はそれには気がついていなかったらしく
「そうかしら」
「大姐が下さるお小遣いやご褒美の袋は、いつも紫です〜」
小さな兵卒に慰めるお菓子を上げたり、なにかのご褒美をあげたり、そう言う
ときに重宝する通称「さみしんぼの袋」を維紫はとりあえず、おやつ代わりに小銭を渡す袋に使ったのだ。
 金蓮がやっと袋の外側に気がついて、
「もしかして、今日使われてる帯の端切れですかぁ? 大姐とおそろいだぁ」
と言う。維紫の唯一の手慰みなわけで、生地など気にしたことはない。芙陽が
「でも、大姐もったいないです〜」
と言う。
「え?」
「お着物は綺麗なのに、髪は簡単なんですね」
維紫は頭に手をやったが、ふう、とためいきをついた。後ろ頭に高いところで一つにまとめて、くたびれた結い紐でまとめてあるだけなのだ。しかし、結いなおすのも面倒くさくなっていた。

「もう行きましょう? 夕方には春鶯が来るはずだから、間に合わせないと」
「春鶯、どうしたんですか?」
町のにぎわしい辺りまで出るまでの間、耀夏が問う。
「ええ、何でも、軍師様が預かると仰るので、何か、彼女にしか出来ないことでもあるのでしょう」
「そうですか」
「しばらく春鶯の二胡もおあずけかぁ」
春鶯は維紫直属の卒伯のひとりで、二胡の名手だ。彼女の話もいずれするだろう。
 とにかく。
「街はにぎやかなのねぇ」
「たぶん市の日で、いつもよりにぎやかなんですよ
静謐に包まれた邸宅街とは全く違う。人通りも多く、維紫だけでは絶対迷ってしまいそうだった。耀夏はなれているのか、さして驚きもしない。
 あっけに取られる維紫を置いてけぼりにして、
「さあって、お小遣いもいっぱいだしぃ…何買おうかなっ」
金蓮が嬉しそうな声で飛び出した。

 家庭のあるものはいざ知らず、基本的に兵卒は城住まいである。まして、女子の兵卒は鍛錬も城の中、任務は主に後宮の警備、要するにずっと城の中である。だから、休みで外に出られる日は、彼女達には特別も特別なのだ。
 さて、一人先に飛び出した金蓮を見て
「全く、ちゃっかりモノなんだから。大姐がとりなしてくれなかったら、私も芙陽も遊ぶお金がなくなりそうだったのに」
と耀夏が言う。よほど賭けの件が腑に落ちなかったようだ。その耀夏に、
「あなたは、家に戻らないの?」
一応、そう尋ねる。折角家のある街なのに、家族に会わないのはもったいない。
「少しお時間をいただければ、そうしたいです」
「いってらっしゃいな」
「でも」
「私に遠慮することはないのよ」
「では、行ってきます。大姐は、そこのお店で待っていてください」

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