ぐらりと、直立したままで馬超が倒れ掛かる。
「あああ、馬将軍危ない」
「危ないのはお前だ馬鹿めが!」
自己同一性を失った声を馬超は一声上げて、
「俺はお前の八方美人に自覚なく悋気を起こした全身胆のおかげで、やっと育てた副将を一人だめにされるかどうかのところなんだ!」
「だから、将軍にお話して、よいならそのように、悪いならそのように、と」
「奴がよいなどと言うはずがないではないか」
「はぁ」
「…もういい」
馬超は、槍立てから、「竜胆」をむず、とつかんで、
「これを持っていろ」
と言った。「竜胆」を手に持たされると、維紫はその恐れ多さに、思わず居住まいを正す。
「そうでないと、俺がお前に丸め込まれそうだ」
あの、と、維紫が問う。
「将軍には、馬魁様のことをお話になりましたか?」
「話していたら今頃馬魁はあの場で動かぬようになっている」
馬超は、アゴで、丁々発止の現場を指す。そして、一段高いところで見ている姜維に
「後何合であろうか?」
と尋ねる。
「はい、あと十合と言うところです」
「承知した」
馬超はそう頷く。
「…いままで、馬魁様、よくがんばられましたね」
「そりゃ、趙雲殿が止めを刺さないからだ」
流石の鈍感も、そろそろわかっていていいはずだ。俺も奴をいちびるのはほどほどにしたほうがいいかもしれん。馬超は退屈そうにそう言った。
「後数合」
趙雲が言う。
「いい加減、その鉄騎尖が重くなってきただろう」
見た目、二人の勝負は、どちらの一方的な展開にならないよう進められてきていた。兵卒の槍で、しかも穂先を使わない趙雲を、「無駄な血を嫌う仁徳よ」と感嘆する声もあった。しかし、趙雲の鎧には、鉄騎尖のかすめた跡もない。
その趙雲が、やっと石突を上に上げた。
「馬魁将軍、武器とは使われるものではない。使うものだ。まして、この兵卒の槍は、蜀漢が誇りとする三槍の基となるもの。
その使い方を忘れたとは、よもや言わぬだろうな」
構えよ。その言葉が呪文のように、馬魁に構えを取らせる。趙雲はそれに対峙して、足をやや開き、膝を軽く曲げた。
「はっ」
一呼吸の短い間合い。その後、馬魁の手から鉄騎尖が弾き飛ばされた。その顔の皮一枚と言うところまで間合いをつめられ、斜に穂先がなめあがり、これまた紙一重の胴薙ぎ。馬魁はまさしく、練兵用の人形のように、突っ立つことしか出来なくなっていた。
最後、そののど元に穂先が突きつけられる。そこでやっと、趙雲の表情が闊達な
いつもの顔に戻る。
「…私と違って、雷姫はこのように厳しくは教えない。機会があれば教えを請うことを勧める。
もっとも、雷姫は私の逆鱗だ。下手に触れたとわかればこの子龍、兎を狩る虎のごとく、容赦はかけぬぞ」
もっとも、最後の言葉を聞いていたかどうか。馬魁は白目をむいて、立ったまま失神していた。
「勝者、趙子龍!」
歓声と、立ち戻る人の雑踏の音が交雑する中、馬超軍の兵卒が、馬魁をずるずる
と引っ張ってくる。
「まあ、こうなることはわかっていたが、わかっていても面白くないものだ」
馬超は心底からつまらなそうに言う。
「西凉の砂の味でもかみ締めてくるか? ん? 敵地だからイヤでも鍛えられるぞ」
気絶していることをいいことに、馬超があきれ果てた声で言った。
一方。副将たちがそろって、趙雲を拱手で迎えた。
「将軍の技、拝見いたしました」
「…」
趙雲は、緩んだ結い紐をぐい、と引っ張ってとってしまう。
「直槍のみならず、兵卒の槍についても、今一度の鍛錬を忘れるな」
「は」
副将一同それにうなずく。それから維紫に向き直り
「雷姫、髪を結いなおしてくれるか」
と言った。維紫がきょとん、とした顔で
「は、はい」
と頷くと、やおら維紫は「竜胆」ごと、抱きかかえられてしまった。
「あの、勝ち数では馬超軍団の勝利なんですけど…趙雲殿は?」
姜維がそう尋ねると、馬超以下、二軍団の将たちは、一様に肩をすくめた。
「えー…と」
「姜維殿、細かいことは抜きで解散でかまわぬ」
「それだと、段取りが」
眉根を寄せる姜維に、馬超はやる気なさそうに言った。
「段取りを気にしているとな、馬に蹴られるのがオチというものだ。」
「は、はぁ…」
「悪夢のようだった」
と、髪をまとめ終わって、趙雲がため息のように言う。
「すみません」
維紫が頭を下げると
「いや、自分に、だ。あれをこそ疑心暗鬼というのだと」
と趙雲は返す。
「疑心暗鬼、ですか」
「疑いだすとまらぬ。私のいないところでお前が何を考えているのか、なぜ馬魁のような男にも嫌な顔をせずに接していられるのか、考えを巡らせる間に」
どんよりと顔を重くする。
「例の方寸が騒ぐ。あの男には、私にない何があるのか、あるとして、何がお前の琴線に触れて、あんな顔をさせるのかと」
そうして趙雲は、脇に座った維紫の顔を、頬を手で挟むようにして自分に向かせる。
「笑ってくれ」
真剣な視線に目を射抜かれて、維紫は、笑うどころか涙が出てしまう。
「…なぜ泣くのだ、そこで」
「私も」
えくっ、とひとつしゃくりあげて
「なぜ突然将軍が私を避けられるのか、理由がわからなくて… どこがいけなかったのか、とても、悩んだんです」
「…なんだ」
趙雲は苦笑いをして、維紫を膝に乗せ上げた。
「結局二人して疑心暗鬼か」
くしゅくしゅとすすり上げる維紫の頭をぽんぽんとなでながら、そう呆れたように言う。
そこに
「たまにはそう言う刺激があったほうがいいだろう」
と声がするので、二人はあわてて居住まいをなおすが、
「…そう言うところはカンがいいのだな」
入ってきた馬超は少しく気の抜けたように言う。
「おかげさまで、今回は勝たせてもらった」
馬超はどっか、と卓の席について
「馬魁は辺境警備の部隊に卒伯の身分で入るよう、手続きを済ませてきたところだ」
「早いのですね、その上左遷なんて」
維紫が、また赤くなってしまった鼻を隠しつつ言うと、
「馬魁のような馬鹿が何人も出ては困るのでね、風紀にも気をつけねばならんようだ」
馬超はつくづくと言う。
「聞き飽きたかもしれんが維紫」
「はい」
「もう少し女として危機感を持て」
「…はぁ」
「馬魁のようなくだらない奴だったから今回はこれですんだが、もしもだ、俺が馬魁みたいにあの手この手でお前を攻略しにかかってきたとして、どうする」
維紫はきょとん、とする。そして趙雲に
「どうしましょう」
と尋ねる。趙雲も
「馬超殿となら、もう少し取り合いに張り合いが出るか」
「ひどいです将軍、維紫はモノじゃありません」
こりゃだめだ。馬超は処置ナシ、という顔で
「邪魔をしてすまなんだ」
と帰っていったが、二人はそれも気がつかずに、採るに足らない話を続けて
いたようだ。
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