「維将軍〜」
馬魁がいなくなって副官達がおどおどと近寄る。その顔は一様に、何か苦いものでも食べたような顔だ。
「きもちわるくなかったですか?」
という問いに、維紫は聞き返す。
「何が?」
「馬魁将軍ですよっ あんなにやにやにまにまして、絶対あの人か関係者が一度とって、見つけたように見せかけたんですよっ」
「あの人、少しでもかわいいと、女官だろうが兵卒だろうがお構いましなんですからっ 変なところで遊んでいるって言う話もよく聞きますしっ
維将軍がどうして今まで何もなかったのか、不思議なくらいですよっ」
維紫は暫し考えて
「あのね」
と言った。
「どんな評判があっても、それをおもむろに態度に示すのは、ご本人に対してとても失礼なのよ」
「そ、それはわかってますけどぉ」
「馬魁将軍、下心がミエミエなんですよぉ、口実を捏造してでも維将軍に会いに来たって」
「落し物を返すついでの表敬訪問でしょう、あれは」
さて見つかったといわんばかりに、それを荷物に入れる維紫に、副官達はいえなかった。
馬魁が入ってきて、維紫と話をしている間に、庭伝いに趙雲が来ていて、しかし結局、声をかけずに帰っていったのを。
勿論、二人のくわしい事情は副官達は知らない。ただ、維紫が最初の生え抜きの副将だから一番手心を知り合っているというぐらいには理解していた。
「もしかしたら、軍団対抗戦の手の内を教えあってるとか、そんな風に勘違いしたのかもね」
卒伯の部屋で、間食の揚げ菓子をぽりぽりとやりながら、一人が呟く。
「ああ、思いそうだね、趙将軍、そう言うところすごい厳しいから」
「そうじゃないっていうの証明できるの、あたしたちしかいないけど、どうする?」
一人が言うと、最後の一人が
「その必要はないでしょ」
と言った。
「趙将軍の顔、そう言うのとは全然違う顔だったし」
「どんな顔?」
「ん? オトコの顔」
「…趙将軍が女の顔してどうするの?」
「そう言う意味じゃなくて」
よっこら、と、身をもたげて、揚げ菓子を卓の上に三角になるようにおく。
「こういうこと」
話をしていた二人がすすすす、と引いた。
「…も、もしかしてそれ」
「もしかしなくても三角関係」
「ぶっ」
一人が笑いかけて、口の中の揚げ菓子をぽろっと落とす。
「汚いなぁ」
「そ、そんな馬鹿なことないでしょ、馬魁将軍がどうひっくり返ったら趙将軍に対抗できるのよ」
「読みが浅い、趙将軍が馬魁将軍を勝手に敵対視したのよ」
「ええええ」
他の卒伯達が顔を寄せる。
「それじゃ、趙将軍って、…もしかして?」
「…じゃないかなぁ、維将軍だけでしょ、目下なのに字呼びするのも」
「それって意味あるの?」
内緒話になりはじめたところで、
「あえて目下を字で呼んで信頼を寄せている証明とすることはあるな」
急に男の声がして、卒伯たちはわきゃわきゃと居住まいを直す。
「どっちむいてる、こっちだ」
こっち、と窓のほうを向くと、馬超の顔があった。
翌日の練兵。趙雲は入ってくるなり直槍をかまえて兵卒の中に踊りこむ。
なぎはらい、突き飛ばし、しまいには
「勝負!」
無双乱舞。鳥瞰すれば、その舞うような軌跡は美しいものなのだが、今ばかりは余計なことは考えていられない。維紫隊は脇にのけられていたが、維紫はその様子のただならなさに、急遽隊に治療の用意をさせる。まさか死人は出はしないだろうが、副将が総出で牽制をしても、はじかれるばかりだ。
維紫も直槍を持って兵卒の中に飛び込む。まさに乱舞を放とうとした槍はがきっと鈍い音を立ててとめられる。
「将軍、落ち着かれてください、これではもう訓練ではありません!」
しかし、純粋な力勝負にはかなわない。直槍の柄同士がぎりぎりと音を立て、次の瞬間には維紫は弾き飛ばされている。
「邪魔をするな!」
「できません!」
突きをはじこうとして、逆にはじかれる。
「維紫殿!」
他の副将たちが助け起こそうとするところに、まだゆらゆらと何かの気配を発している趙雲は
「『維紫』、今はここにいるな。傷があったら治癒させ、そのまま帰ってもかまわない」
「…え?」
「今の私にお前は邪魔だ」
「わかりやすい男だ」
借り出されてきた護衛武将の道術で怪我を治してもらっても、維紫の体はすぐに立てるようでもなく、ふらふらと支えられて段を上ってくる。
「あ」
その途中でふと顔を上げると、馬超が段の途中で座っている。
「帰れそうか?」
と言う馬超を見て、維紫はぶわっと涙をあふれさせた。
「まあ何だ、あまり落ち着かぬかもしれんが」
馬超は、維紫を自分の仕事場に入れる。ここまでの間に、あったことは大体聞かされていた。それと維紫の卒伯の話をあわせれば、あの男の思考回路は単純に解明できる。
「…二十四の大の男が焼く悋気ではないな」
馬超はそう思いつつ、
「お前のほうがよくわかっているかもしれないが、激昂している間、奴には近づかないほうがいい」
と言う。
「どうしてですか」
しゃくりあげるのが止まらず、差し出された茶も飲めない維紫はそう返す。
「何か気難しいことがあっても、私と話す気が晴れると、将軍はいつも仰って下さるんです、なのに、だめなんですか?」
「気難しくなっている理由の元凶がそばにいて落ち着けるか?」
馬岱が差し出してくれる手巾をもう何枚も涙でしっとりと重くして、その上この言葉である。維紫は、一年分の涙を出し尽くした様子なのを、二年分にするかの勢いだ。馬岱が少しあきれるように言った。
「従兄上、ちょっと今のは言葉がまずかったんじゃないですか?」
「…かもしれん」
馬超は、維紫がまた収まるまでひとしきり泣かせた後、とつとつと言った。
「奴はおそらく、お前をこう思っている。本人はそう思っていないとしたとしても、だ。
誰にでも笑顔だ、他のものが嫌うような相手でも笑って話せる。
なぜその笑顔を、自分だけにむけてくれないのかと、自分だけのものにできないのかと」
「…」
「同時に、自分に激昂している。お前を今のままにしておく自分にな」
収まるに収まれない理由は、俺は知らんが。維紫は涙はおさまったようだが、しょんぼりとうつむいている。
そこに
「あの、従兄上」
と馬岱が割り入ってくる。
「今、趙将軍の練兵が終わったようで、副将の方から対抗戦出場者の名前が届きました」
馬超がそれをくるくると開く。ちらりと維紫を見て、
「一応、お前の名前も入っているな」
と言った。維紫がそれに付け加えるように言う。
「せ、戦略ならお話できませんよ」
涙が収まっても顔を手巾で押さえているのは目はともかく鼻も真っ赤だからなのだろう。
「俺も聞かぬ。
岱」
しゅるしゅると書き上げた書簡を馬超は馬岱に渡し、
「これがこちら側からの出場者だと、趙雲殿のところに」
「はい」
馬岱はたぱたぱと廊下を行ってしまう。
「よく出来た弟さんですね」
「いや、兄の子だ。魏の策略で父以下一族郎党がことごとく謀殺されて、生き残ったのが俺と岱の二人だけなのだ。みな邪魔と思わず扱ってくれて、感謝しているところだ」
「そうだったのですか」
「とにかくだ、あまりに面白すぎる話なものだから、」
馬超はたちあがって唇の端を持ち上げる。
「奴とお前を見ていると、邪魔もしたくなるが、応援もしたくなる」
練兵の日以来、英気を養う口実で少し城から遠いが自分の家にいて、維紫はかえってよかったと思う。
趙雲は荒れまくっていたと。黙々と深酒をし、練兵では流石に無双乱舞まではしなかったが、兵卒の槍で暴れまくっていたと。これは未確認情報だが、妓楼にいたという話も、卒伯たちが頼まれもしないのに書簡で送ってくる。正直、目の当たりにしたくない姿ばかりだ。
しかし、数日を置いての出仕はやはり心重かった。道で会ったらどうしよう、城で会ったらどうしていよう。そんなことばかり考えているうちに、城門の前に近づいていた。
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