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 ここにきて一月二月にはなるだろうか、接し方に悩んでいたらしい趙雲は、やっと維紫のが視界の中にあることになれたようだった。そして、ひとまず普通の兵として扱い、それ以外の時間は自分の邪魔にならない程度の雑用に使い、いかんともしがたい何かの問題が出来したらそこで次善策を講じようと、そう言うつもりに見えた。
 何か次の用が与えられるかも知れない。しばらく、傍らで立っていた維紫だったが、その時間が惜しい。一服の休憩でも、と思ったのがその始まりだった。
 噴いた湯が維紫の指に跳ね、「あっ」と手を引くと、衣のすそを踏んでしりもちをつく。その間、何とか姿勢を保とうと手をかけた卓は、大きく揺れた拍子に茶器を跳ね上げ、床で派手な音を立てて割れる。一瞬後の静寂が夢のような悪運の連鎖だ。
 わたわたと、目に付くかけらを拾おうと、維紫が手を伸ばす、その手が増えた。
「将軍」
「後で見失って踏み抜きでもしたらことだからな」
趙雲が言って、二人で黙々とかけらを拾う。維紫が、少し遠くにあったかけらを見つけ
「あんな遠くにまで…」
手をさし伸ばしたときに、
「つっ」
そのかけらが刃となった。維紫の指がわずかに裂け、血がにじんでくる。
「言わぬことではない」
あきれたような声。維紫が持っていた手巾で押さえても、血はなかなか止まらない。
「深いな」
趙雲はその様子を見て、髪の結い紐を解き、維紫の指をこれでもかと言う力で締め上げた。傷より、その締め上げた紐のほうが痛い。
 夕方の、光の届かない床では、かけらを拾うことぐらいしかできない。維紫は手を引かれ立ち上がり、
「すみません…」
衣の裾をはたはたと叩く。趙雲は
「仕方ない」
と言った。
「昼間の練兵の疲れが、そろそろ出る頃合だからな。後は女官にさせる」
戻っていい。そう言われては、
「失礼します」
維紫は部屋をでるよりない。とぼ、と歩き始めたその後ろ姿を捕まえるようにして、
「医者がまだいるだろう、手当ては忘れるな」
という声がした。

 幸いに指の傷は、後もなく治るし、動かすことに不自由もしないだろうと、医者に言われ、維紫はやっぱりとぼとぼと、自分の部屋に帰ってきた。
 血に染まった結い紐を洗い、伸してつるす。いずれ返さねば。
 その後、ふらりと部屋を出た。
 女官の部屋は、後宮に近い。小さく、何かの旋律が聞こえる。女官達は、ほとんど後宮に向かってしまったのだろうか、今は、このあたりには維紫しかいない。
「父さん…」
適当な柱にうずくまって、空を見た。離れ離れになって、もうどれだけになるか。命の有り無しすらわからない。母も、兄弟も。
 しゃくりあげてしまう。一人だから、この場所でもいいだろう。くすくすと鼻を鳴らしていると、
「なるべ傷つけぬようにと思ったが、やはりすこしこたえたか」
と声がする。
「…将軍」
「なんとなく後味が悪くて、書簡の量が減らなくてな。様子を見に来ただけだ」
傷はどうだ、と趙雲に聞かれ、手当てされたときのことをそのまま言うと、彼は安心した風に「そうか」と言った。
「さっきは、すみませんでした、お仕事の時間を騒がして、そのうえ…」
維紫が言う。趙雲はそれに
「まあ、あれほどのは私も始めてみたが、誰もが一度はやる失敗だろう。気にするな」
と言う。
「…はい」
気にするな、といわれても、あんなことも満足にできないのかと思われていると思うと、維紫はすぐにもそこを立ち去りたい気分だった。その維紫に、念を押すような声がかかる。
「失敗は振り返るものではない。次を起こさないように考えさせてくれる経験だ」
励まされてるのだ、と思うと、やっぱりなんとなく自分が情けない。
「…はい」
維紫は、やっぱりうつむいたままだった。

月の光は弱くもなく強くもなく、ぼんやりと美しかった。しかし、維紫は、顔をあげると、いろいろな思いでまた涙が出てきてしまいそうな気がして、うつむいたままでいる。
「今、何を考えている?」
そう趙雲に尋ねられ、一瞬浮かんだことをそのまま口にする。
「…家族のことを」
立身して家族を見出す、という維紫の目標は、何かの折に聞かされたのだろう、
「見つかればよいな」
趙雲はそう言うが、維紫はかぶりを振った。
「もう、だめかもわかりません」
「なぜそう簡単にあきらめる?」
趙雲の声が不思議そうに尋ねた。
「戦のさなかに散り散りになりました。あの街は、聞けばもう廃墟も同然とか…」
やっぱりだ。忘れかけていた涙が戻ってきてしまう。が、
「維紫」
彼の口から自分の名前が出て、維紫は涙も忘れて顔を上げた。
「戦が原因ではないが、新野にある前、私は違う諸侯に仕え、その間に母と兄を亡くした」
「…」
「お前のような、もしや、ということは、私の上にはな。もしお前が思っている通りだとしても、諦めるな。
 どうしようもなくて、誰かを頼りたければ、私を頼ればいい。預かった限り、それもできぬとは言わぬ」
「…将軍」
「親しいものそばにいない寂しさぐらいは、わかってあげられるぞ」

 しばらく、二人とも何も言わず、ぼんやりと、ひとつの柱に背中を預けていた。
「…十万の曹操軍が」
そして趙雲が呟くように言う。
「兵を進めているという話だ。新野の東北にある、博望坡という場所までひきつけ、迎え撃つことになった」
「征かれるのですね」
「…お前は置いていく」
維紫はきょとん、とした。維紫の思考回路がまた別なものであったら、初陣になるだろうその戦になぜ連れて行かないと趙雲を責めたかもしれない。おそらくは責められると思ったのだろう、趙雲は維紫を伴えない理由も付け加える。
「初陣の機会をみすみす逃すことになるが、新野の勢はせいぜい一万、まともに当たって勝てる数ではない。
 諸葛亮殿が、策を用いて退けるといわれた。まだお前はよく知るまいが、諸葛亮殿は手厚く迎えられた割にはその策を役立てる機会がなかなかなく、ほんとうに『眠れる龍』という二つ名がつくほどなのかと、いぶかしむ諸将も多いのだ」
「将軍は、帰られますよね」
維紫は、ふとそう言っていた。
「きっと帰られますよね。軍師様は『眠れる龍』ですけれど、将軍はもう目を覚まして、空にある龍ですものね」
趙雲は、しばらく間をおいて、
「私もずいぶんかわれたものだ。…天命尽きていなければ、帰る」
そう言った。その声には、幾分、照れのような笑いが含まれている。
「伴えぬからといって、鍛錬を怠っていいというわけではない。
 傷を癒し、兵法書のひとつでも読み、己を磨くように」
「はい」
涙はもう止まっていた。「帰る」と言う言葉が本当になると、維紫には確信できたからだ、

 果たして、その迎撃は劉備軍の勝利に終わり、味方の損害も最小限にかえってきた。諸葛亮はこの戦での策・用兵の妙について諸将を驚かし、やはりきたるべくしてきた軍師だったのだと、彼をみとめたそうだ。
 維紫はまだ、軍議が行われるような場所に出入りすることは許されていなかった。だから、城の中にある趙雲の仕事場で、彼が戻ってくるのをじっと待つ。
 聞けば先陣で、敵の武将と兵を陽動する役目だったそうではないか。策が控えてくる場所に誘導するのまでの時間とはいえ、油断があれば危険な任務だ。
 やがて、かつかつと、ゆっくりした足取りが聞こえ、維紫は立ち上がり、
「ご無事でのご帰還、何よりでした」
しかし、そう言うのがやっとだった。帰ってきて、その姿が見られた、それだけで何かが一杯になってきた。武装の趙雲の姿が、ぐにゃ、とゆがむ。
 趙雲は維紫が突然泣き出したのに驚きを隠せず、ひとまずの武装を解いて
「…そう泣かれると、まるで勝ったのに負けてきたようだ」
そう言った。
「すみません。でも…」
「心配をしてくれたのか」
涙で声にならず、ただうなずく維紫の頭を、ぽん、と叩く。と言うより、なでる。
「初陣には少し厳しい戦いだった。お前を伴わず逆に安心している。
 諸葛亮殿の策はよくできたものだった。後の参考になろうから話そう」
趙雲は仕事机ではなく卓の席に着き、
「その前に一服だな。今度は、転ぶなよ」
と言った。

 やはり維紫の才のなかには、天賦の質があったのかも知れない。
 一様に行われる練兵の後、何だか物足りなさそうな顔をする維紫にそれが与えられたのは、あの奇跡的な勝ち戦があってしばらくのことだった。
 変哲もない槍だったが、どことなく、雰囲気がちがう。趙雲は
「その槍で、私が使っている槍捌きの型を教えることにする。練兵の後、私が教えよう」
そう言った。
 物足りなさそうな顔を維紫がしていたのは、確かに、練兵で使っている槍では、趙雲の使う独特の動きをすることができないからで、事実、維紫は何度かためしはしたが、見るだけでは覚えられないと思っていたところだった。
 それが覚えられるのだ。維紫は跳ねるように部屋に帰り、翌日の練兵を楽しみにしていた。
 しかし。その翌日になって、維紫は、自分の体がひどく重く感じた。練兵を何とかしのぎはしたが、それだけで今日はもう休まねばならないと、体がそう言うように聞こえる。
「だめよそんなこと、今日から将軍のあの槍のすごい使い方を教えてもらえるのに」
大儀な体をやっと持ち上げて、練兵の続きそのままのホコリじみた格好ではと、練兵着を改める。
「うん。大丈夫」
とん、と気合をいれるように丹田のあたりを叩き、拝領の槍を持って維紫は部屋を飛び出した。

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