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  荊州夜曲  

 「だからお嬢ちゃん」
文官らしいなりをした男は、目の前の少女に、あきれたような声で言う。
「ここは兵士を募る場所だ。女官を集める場所じゃない」
「わかっています。字も読めます。私は兵士になりに来たのです」
目の粗い麻の上下で、一見は家を追われた難民のように見えた。事実彼女はそうだった。しかし、薄汚れた顔を整えれば、じきに誰もが放っておかない、そんな風情に見えた。
 少女と文官の押し問答は、ずいぶんと時間がかかっているのだろう。だんだん集まってきた兵士候補が騒ぎ始める。
 そのうち、
「なにか、ありましたか」
と、いかにも厄介は面倒だという顔の、道服に羽扇の若い男が近づいてくる。少女はそのほうを向き、文官は
「はわわ、軍師様」
その場でヒザをもつきかねない勢いで、少女が兵士の応募にきて処置を考えあぐねている、と言う。羽扇の男は、少女の顔を見て、あまり抑揚のない声で
「名は、なんと言いますか」
と尋ねた。
「姓は維、名は紫といいます」
「なぜ兵士になろうと」
「この戦乱の中で、家族と離散しました。維紫の無事であること知らせるには、兵士になり、名を立てるのが一番だと思い、募兵に応じました。」
「そうですか。それは殊勝な思い立ち」
羽扇の男は、その手の扇で顔を隠すように言った。やや間があって、彼は文官に、
「この少女、私が預かります」
と言い、維紫には
「私の後に来なさい」
と言った。

 あなたはだれですか? という質問を、維紫はしなかった。新野の城で道服で羽扇と来れば、先ごろ、この城の主が迎えたという噂の、「眠れる龍」と二つ名される策士・諸葛孔明であろうと、察しがついたからだ。
 二人は、別の入り口から新野の街に出て、ほとんど城と隣接しているといっていい、小さい屋敷に入る。
「月英」
中にそう声をかけると、物音のあとひとり、栗色の髪をした婦人が出てきた。最初、話にしか聞かない胡人かと思ったが、顔立ちにはまったくそんな雰囲気がない。とにかく。
「孔明様…その子は」
月英と呼ばれた婦人は、きょとん、として、諸葛亮の後ろの少女を見る。
「瑞兆です」
諸葛亮は、ほんの少し頬を緩めた。
「仕事の途中でしたから、また城に戻ります。その子…名前は維紫といいます…衣服など改めさせてください。処遇を考えておきます」
諸葛亮はほとんど一息に言った。しかし月英は十を心得た顔で
「心得ました、孔明様」
と答え、維紫を家の中にあげた。

 湯を使わせ、髪など結わせると、確かに、磨かれた維紫の容貌はたしかにはっとさせられるものがある。しかし維紫はこの扱われようが不思議でならず
「兵士になるのですよね」
と、月英にも確認してしまう。月英は諸葛亮が考えることは何でも正しいと思っているのか、
「ええ、今孔明様は、あなたをこれからどうしようか、考えてくださってるところだと思いますよ」
兵士と言えば十把ひとからげで将を問われず配属され、いわば捨て駒のようにされるようなものだと、維紫はあたらずとも遠からずなことを思っていた。
 家族が離散したのは本当だが、名を上げて自分の健在なことを行方もわからない家族にしらしめたいといったのは、ほとんど方便に近く、当面の衣食住が保証される場所にいたかった、それが維紫の本音であった。
 だから、予想外の厚遇に維紫は驚いていたのだ。使用人も少ないらしいこの家は、月英自ら食事を供する。
「驚いているのでしょう、こんなお客様みたいな扱いをされて」
図星を射抜かれて、維紫がうなずくと、月英は
「孔明様は観相をされたのでしょう」
と言った。
「かんそう?」
「人の顔かたちなどから、その人がどういう人なのかを予想するものです。孔明様は先ほど、あなたを瑞兆と仰いました」
瑞兆、の意味を知りたかったが、月英は「あなたが来てくれてうれしい、ということですよ」と言っただけだった。

 翌日の同じ頃、諸葛亮が維紫を迎えに来た。維紫がすっかり小奇麗になったことには、さして驚いた風ではなく、きたときと同じ道を、逆にゆく。
「名を上げたい、とあなたは言った」
「…はい」
方便を真に受けられてしまった。なんとなく気まずく維紫がうなずくと、
「そのときは方便だったのかもしれませんが、あなたの方寸…心の中には、確かにそれがある」
諸葛亮はそう言って、維紫のきょとん、とした顔を見る。
 二人の歩く道は、城のいくつかの建物をこえて、兵の声が規則正しく聞こえる、その方向へと向かっている。
「兵となっただけでは、そこから名を立てるのは難しい。しかし、将となれば話は別。
 あなたは将となるべきです」
ついてきなさい、と言うように、目の前の石造りの階段の前で立ち止まった維紫を、諸葛亮が振り返る。
 一足一足のぼってゆくと、乾いた風に髪を流し、兵の動きを見る一人の将がいる。
「この龍に、あなたの志と、方寸をお預けなさい」
諸葛亮は、手の羽扇で、その将を指した。

 しばらく、諸葛亮が仕事をする傍らで、練兵が終わるのを待つ。維紫はあの時、諸葛亮が龍と呼んだその将とは、言葉を交わすどころか顔を合わせることもしなかった。
「あの方は、そう言う邪魔をされるのはあまり好まないようですから」
 書簡が、右から左に流れてゆく様子を、いささかあっけに取られた様子で見ていると、兵士が入ってきて
「趙将軍がお見えになりました」
と言う。
「通してください」
諸葛亮の言葉のあと、入ってきた人物は確かにあの後姿の将で、維紫が…というか、女子がそこにいるのを見るなり
「諸葛亮殿、これはどういうおつもりですか、お戯れの話でもあっても、媒酌が要るようなことは」
そんな渋い声を出す。諸葛亮は机から離れ、維紫とその人物と鼎談の形をとる。
「人の言葉を聞かずに結論を急ぐことはないでしょう」
そんなことを言い、「維紫」と確認するように言う。
「この方が、あなたがこれから将として師として仰ぐことになる趙雲殿です」
そして趙雲を見やり、
「あなたにこの未来の将を託します。あなたがよいと思うように、導いてください」
と言う。
「私に将を育てよと言われるか」
「…重い荷ですか」
「ひとを導けるほど、私は大きい人間ではありませんし、しかも、この女子をですか」
「できると思うからお勧めする、それだけです。」
諸葛亮は隙間なく、趙雲の言葉をやり込める。
「ただの一兵卒に甘んじることになるか、それとも、我らが殿の軍において輝き瑞兆となるか、…私は、それを見ることにしましょう」

 …もしかしたら、私は無理やりこの将軍に押し付けられたのではないだろうか。
 維紫はそんなことを思った。兵卒の宿舎に案内するといわれて、その後をついてきたが、ずっと将軍は首をかしげたままだ。
 ややあって
「うむ、やはりまずい」
趙雲はそう言って振り返る。もしかして、自分を預かれないと言い出すのかと思った維紫は、覚悟して、趙雲の次の言葉を待つ。
「…兵卒と同じ部屋では倫理的によくない」
しかし、ついで出た言葉に、その覚悟がへなりと緩む。趙雲は、たまたま通りかかった女官を捕まえ、二、三何か言い、
「宿舎については、女官の宿舎に変更する。そのほうが安心だろう」
そう言う表情は、完全に維紫をもてあましているように見えた。

 不安なのは、維紫も同じだった。
 兵としての一日はしっかりと決まっていて、時間を守らないものは、見せしめとして多勢の前で罰を受ける。
 しかし、維紫のような例外…つまり未来の将として育てられているものは少しだけ違っていた。養成の方法はそれこそそれぞれであったが、師である将を多方面から補う、そんな行動力と判断力を培うことも、大切な「仕事」であった。
 夕暮れ近くなった新野城内の廊下を、前が見えないほどの書簡の束を抱えて、警邏の兵士や女官がはらはらしながら見返る姿があった。維紫である。
 こんなにいっぱいの書簡、いつ読み終えられるのだろう。維紫は時折、自分の進む道が間違っていないか、書簡の左右からすかすように前を見ながら考える。
 やがて、目的の扉の前に着く。兵士に
「趙将軍にお取次ぎください」
と言うと、兵士は扉を開け、二三、中と言葉を交わして、
「入ってよい」
と言った。

 部屋で待ち受けていた身には、書簡が歩いているようにでも見えたのだろう、がたりと音がして、維紫の視界が突然開ける。趙雲が立ち上がって、書簡をつかみあげたのだ。
「やれやれ、ずいぶんな量だ」
趙雲は少し眉をあげてそう言った。維紫が持ってきた書簡の二三個を、おそらくは未処理の山なのだろう、そこに積み、彼女が持っている残りもそこに置くよう言う。もう練兵には何度も参加して、兵を鍛えることに熱心なのは知っていたが、机の向かうような仕事もするとは意外だった。
「将軍は、こんなお仕事もされるのですか」
維紫が書簡を抱えたままでしびれた腕をさすりつつ言うと、
「こんなお仕事、ではないよ。私の軍に関する裁可の書簡は、私本人が目を通さなければ」
趙雲は席に戻り、読みかけだったらしい書簡の続きをくるくると開く。
「いつまでも、劉備殿はこの新野一箇所で終わるような方ではない。いずれ雄飛するそのときに備えて、兵力を強化するのが私達の仕事なのだからね」
それから彼は、少し外を見やり、
「ずいぶん暗くなったな。
 明かりをひとつ増やしてほしいな」
と言う。維紫は
「は、はい」
と返事をして、新しい灯心と油をとった。練兵をしている間は多少乱れようがまったく気にならない髪も、こういうときは気になるのだろう。結い紐でひとつにまとめてある。

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