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 趙雲は、自分の仕事場の前にある、庭代わりに開けたところに、同じ槍を持って待っていた。
「すみません、おくれました」
「確かに遅いな。さっきの練兵に疲れて昼寝でもしたのかと思ったぞ」
「そんなことしません。
 将軍、始めましょう」
「そう意気高いと教えがいもありそうだ」
趙雲は満足そうにうなずいた。が、
「維紫、顔が白いな」
と言う。むしろ、練兵上がりで顔はほてっていると思っていたのに。維紫はぶんぶんとかぶりを振り、
「そんなことないですよ、気のせいです」
早く早く、と趙雲をせかす。はたから見ればさながら妹に何かを頼まれた兄、そんな風情だ。趙雲もさすがに顔が緩み、
「そこまで言うなら、はじめよう。
最後まで、ついて来るんだぞ」
と、槍を構えた。

 そして。
 維紫は部屋に寝かされている。型を教えてもらい、何度か打ち込みあったのは覚えているのだが、そこから先が真っ白だ。
 維紫の傍らには医師がいて、
「ご無理はいけませんな、大切なお体を」
と言った。維紫は心当たりがあるだけに
「…はい」
しんなりと医師の言葉を受ける。一家の離散してこの方、ふっつりとなかった月ごとの来客が、今になって再び来意を告げてきたのだ。ある意味、維紫の体が健康この上なく、また精神的にも落ち着いた証拠でもあるわけなのだが… 衣を変えるときにそれを認めはしたが、まさかそんなことが理由で訓練を受けられませんとはいえなかったのだ。
「まさか、初めてではございませんでしょう」
「は、はい…」
「ならば、後は申しません」
と言いながら、医師の顔は笑んだままである。
「いやしかし、たまげましたぞ」
「はい?」
「趙将軍が血相を変えて、あなたが倒れたと、抱き上げられたまま飛び込んでこられて…」
医師がそう言い始めると、戸口のほうで咳払いのような声がした。医師は
「いや、無用な長居をいたしました、では、これで」

 気まずい雰囲気である。最初は仕方なく、ひとまず他の兵と同じようにと思い、そのうち自分の槍に興味を持ち始めたこの面白い部下が、根本的にどうしても越えられない壁の向こうにいるということを、趙雲は気づかされたのだろう。
「自身の健康管理も、将の仕事のうちだ」
気まずい沈黙がいよいよ気まずくなったとき、趙雲がそう、指導じみた声で言った。
「…はい」
「無理をされると、それを普段のお前と勘違いしてしまいそうになる」
「…はい」
「練兵など、体を使うことは、自分の裁量で再び参加するように。再び練兵に出たら、今日の続きを教えよう。今後もそうするように」
「はい」
「筋は悪くなかった。早く戻って、私からすべてを教えられてくれ」
最後に趙雲はそう言って、また、ぽん、と、維紫の頭をなでた。

 事件が起きたのは、それからしばらくのことである。
 維紫の名前は兵達の間でも少し知られたものになっていた。
 趙雲に見込まれて、自分の持つ槍の技術を教えられているらしい、という、事実に近い知られ方もしていたが、もっぱら、見初められて兵のふりをさせながら、見えぬところでは妾のように扱われているに違いない…という知られ方のほうが多かった。

 「よ、お嬢さん」
没個性的な呼ばれ方だが、自分をさしていることはわかっていたから、維紫はその声に
「なんでしょう」
と振りむいた。見知った顔が何人かある。同じ時間に練兵を受けている兵卒達だろう。
「これから、趙将軍のところかい?」
「はい、それが?」
維紫が答えると、兵卒達の声がやに下がった笑いにゆがむ。
「見込まれてるんだねぇ」
と声がし、
「その見込まれてるところでさ、俺達をひとつ鍛えてくれよ」
「私は」
維紫は、だんだんと取り囲まれる、その前後を見回しながら
「人に教えられるほどのものは、何も身に着けてはいません」
と言う。
「そうかねぇ」
と言う声には、維紫にはわからなかったが、身に着けた技術は槍に関してのものだけではあるまいという揶揄がにじんでいる。維紫は、持っているのがいつもの練兵用の槍で、趙雲からもらったものでないことを心配した。十数人の人の輪なら、今の自分の技でも何とか脱出できるかも知れない。でも。
「来ないなら、俺達からいくぜ!」
その声は早く、槍が数本、いっせいに繰り出されてくるのも、また早かった。

 いかに他の兵卒より槍の鍛錬に時間がかけられ、その技術には一日の長のみとめられる維紫でも、いかんせん多勢に無勢である。
 何本かの穂先を振り払っても、片方からまた何本も穂先が飛び出してくる。
 集中力が途切れ始めていたその時の、
「隙あり!」
と言う声と、ぶつっという音はほぼ同時。練兵時に衣のあわせが乱れないように止めてある止め具が、誰かの槍の穂先に引っかかりちぎれた。その拍子に、帯が緩み、衣のあわせがばっ、と乱れる。槍を構えることができず、維紫は手で、形ばかりにあわせを直す。
「勇ましい格好だねぇ」
と聞こえるのは、維紫の胸にはきつく布が巻いてあり、腕の邪魔をしないよう押さえられてあるからだ。
「でも、こんなものないほうが、逆に俺達としちゃありがたいがな」
ひとりがくい、とあごを動かすと、維紫の両腕は後ろ手にされ、自然、その胸を突き出すような形になる。首謀者か、兵卒の一人が隠し持つようにしていた小刀が、すう、と、維紫の肌と、布の隙間に入った。
「じらすな、一気にやっちめぇ!」
の声に促され、
「そうだな!」
しゅっ、と小刀が下から上に、巻き締めた布を断ち切った。維紫の胸元には切っ先の線が赤く走り、腕を押さえられていては、あらわになった胸をかくすこともできない。
「ち、変なところに傷が」
兵卒の手が触れ、維紫の体が総毛立つ。助けを呼ぶのはたやすい、しかし、ここで趙雲の名を出したら、野卑な噂を助長させるだけだ。
「しめつけてる割にはいい型してるじゃねぇか」
「そりゃ、形よくしてもらんってんだから多少のことじゃ崩れねえよ」
「そうだな」
不特定多数の目が自分に注がれているという事実を、維紫は目を閉じて気づくまいとしていた。ただ、傷がうずいて、血らしいものが一筋、胸の辺りから一筋落ちてゆくのを、総毛立つ思いで感じていた。

 そのうち、
「何だよ、もったいぶらせやがて、さっさと下も剥いちまえ!」
そう言う声が飛び始める
「まああせるな、じっくり脱がせるのがまた」
兵卒が、維紫の、形ばかりついている帯を解こうとしたときである。
「そこまでです」
その兵卒の首に、長物の刃が当てられた。
「軍規に照らして、許すまじき行為。相応に罰せられなければなりません」
その毅然とした声は、月英のものだった。

 「なぜ、助けを求めなかったのですか」
本当は怒鳴りつけたいのだろう。だがたしなめ声に月英は、維紫の衣のあわせを直しながら言う。だが維紫はそれには答えず、
「…将軍は?」
と言う。月英は視線でその方向を指し、
「あちらにおられますよ」
そう言った。維紫がその姿をはっきり見ることができたら、眉間に深くしわを刻み、憤怒の感情をみなぎらせ、腕を組み、仁王立ちのまま動きもしないその姿を見ただろう。
「立てますか? 私の肩につかまって」
月英の肩を借り、やっと維紫は立ち上がった。胸につけられた傷の痛みが、すんでのところで、彼女の気の失うのをとどめていた。

 あの兵卒達にどんな処分が下されるのだろうか、そんなこと維紫は考えたくなかった。
 胸に走った傷は、深くはないが、おそらく残るだろうと月英は言う。
 見たことのある天井だと思った。諸葛亮の家だった。
 薬は、薬草の粉を動物の脂で練り合わせたもので、少し傷にしみた。
「気分はいかがですか?」
月英が尋ねる。まだ、頭に一枚薄いもやがかかってる気がした。できたら夢であってほしいが、あいにく、あったことは現実だ。傷の痛みと、あの視線に囲まれたおぞましさが、まだ彼女の中で生々しい。
「…悪くはないです」
「どなたかと、お話できる気分ですか?」
「…」
維紫はしばらくそれに答えなかった。しかし、部屋の外の気配はわかる。
「…いれて差し上げてください…」

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