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 数日後、
「次善策は見つかりましたか?」
と、いささかならず仏頂面で聞いてきた彼に、私はかぶりを振った。
「私にはもう、これ以上の考えは出来ないわ」
「そうですか」
彼は仏頂面を、穏やかな顔にして言った。
「貴女は前からそういう方だ。私に何かを打ち明けられるときは、もうそれは、すでに決定されていることで」
という彼の言葉が、ちくりと胸を刺す。
「ごめんなさい」
裏腹の心を必死に隠して、穏やかに私を見てくれる彼に、私は、涙なしに返答できなかった。
「いつも、自分勝手で、あなたを振り回して…
 子供たちにも…悪い母親になることしか出来なくて…」
「違います」
私の髪に頬をうずめながら、彼は低く、優しい声で言う。
「貴女は、すべてにおいて、常に全力であるよう、子供たちに行動で示された。
 子供たちは、それをわかっていますよ。
 リーフ様にとって、貴女は忘れ得ぬ方となりましょうし、ナンナも、貴女を目標をすると」
「本当に?」
「はい」
今そんなことを言われたら、決心がくじけてしまいそうだった。
 本当は、この人の大きく広げる翼にあたたかくくるまれていたい。
 でも、時の流れは、冬鳥のつがいが翼を重ね合って、その寒さをしのぐような、そんな甘やかな時間を許さないのだ。

 かたことと、荷物をまとめ始める私を、じっとナンナがみている。
「お母様、ターラの次はどこに行くの?」
と言うのを、
「お母様は、ここで一度、お父様にあなた達を任せて、行かねばならないところができました」
「お母様はずっと一緒じゃないの?」
頓狂なナンナの言葉に、私は苦笑いして返すことしか出来なかった。
「あなたに一つ、大切な話しをするのを忘れてたわ」
「『おすましの日』のこと?」
「いいえ、それはもう終わり。あなたは『おすましの日』の間、ずっとプリンセスでいられたわね、それはとても素敵なことよ」
「えへ…」
とうつむいてはにかむナンナは、確かに、その行く末までみていたほどに愛らしかった。私はその彼女に、何枚かつづった紙を渡す。
「そんなおすましプリンセスにごほうびです。
 お母様が教えた『おすましの日』のお作法を、まとめておきました。わからなくなったら、これを読んで、思い出して」
「はい」
「それと…」
私は、持っていくつもりでいた剣を、二振りナンナの前においた。
「これをあなたにあげましょう」
「剣?」
ビロード包みを開ける。ナンナが目を丸くした。
「すごいきれい…」
「ノディオン王家に伝わる家宝の宝剣は、全部で三振りあります。
 その第一はミストルティン。代々の継承者しか使えない、砦の奇跡で下された魔剣です。
 そして第二は、この大地の剣。敵から活力を奪い、自分のものに出来るという魔法の込められた剣です。壊れやすい剣なので、これは使わずにおきなさい。
 そして、第三の剣。『祈りの剣』といいます。もしあなたが、死にそうな窮地に陥ったときに、きっとあなたを助けてくれるでしょう。この剣はノディオンのプリンセスのお守りとして、代々受け継がれてきました。今度は、貴女が持つ番です」
ナンナが、二振りの剣をつらつらとみて、
「みすとるてぃんは、今どこにあるの?」
と尋ねた。
「ミストルティンは、今ここにはありません。たとえここにあっても、私にもあなたにも使えない剣なのです。
 私が覚えているかぎりでは、私のお父様が使える方でした。その後、私のお兄様だから…あなたの伯父様に伝えられ、今はあなたのいとこになる方が持っているはずですが…いろいろあって、今どこにいるかがわかっていません」
「ふぅん」
ナンナには、まだ難しい話しだったかしら、つい苦笑いして、
「どれも大切な剣だから、お父様に預かっていただきなさいね」
「はい」
あと… 私は、もうだいぶ中身の寂しくなった宝石箱を開けた。その中からついとひろいあげて
「いらっしゃい」
とナンナを招く。
「これ、ずっと欲しがっていたでしょう?」
「うん」
「あげましょう」
単純な、おもちゃのような、いろいろな想いの入った色水晶の耳飾り。これも、この子に継いで欲しかった。
「いいの? お母様が一番大切にしたのに」
「いいのよ。お父様から始めてもらった贈り物なの。なくしてしまいたくないから、ね」
言いながら、耳飾りを付け替えてあげる。うるさくならないように、揺れない耳飾りしかつけさせてもらえなかったナンナは、とてもうれしそうにちりちりと、音をさせながら飛び出していった。
 あ。
 本当は、デルムッドの話もしてあげたかったはずなのに。

 その夜、私は、彼に手紙を託した。
 真実の書かれている手紙を。
 コーマックにゆがめて教えられてきた偽りの敵意など、兄とシグルド様になどないこと。私は、お姉様を、決して疎んじていなかったこと。私からも、言葉を書き添えた。
 でも、人任せにして旅に出ることに、良心が苛まないことはない。
 もしものことがあったらと、膝を折る私を、彼は立ち上がらせて
「承りました。
 旅のご無事を、祈ります」
「…ありがとう」
つい流れた涙を、彼の指がぬぐう。私は、この館での最後の夜を、まるで、シレジアにあった頃のように、情けの限りを尽くして体に刻んだ。

 まだ彼は眠っている。
 私は、起こさないように、身支度を整え、厩舎に行く。持ってゆく荷物は、必要最低限のほんのわずかなもの。それを馬に乗せ、くくりつけて、夜番の人が開けてくれた裏側の門から出た。
 人気のない往来を、ゆっくりと、馬を歩かせる。こんな時間でも、もう働き動いている人がいるのだ。興味深く視線を傾けては怪しまれような気がして、外套を深くかぶって、やや馬の足を速めた。
 ターラの門は、常に開かれている。そこから外に飛び出し、左右どちらに行こうか迷いながら、振り返ったとき… ターラの街は、あの不穏な、忌まわしい雰囲気に包まれていた。

 …私は、今発つべきでは本当ではないのかしら。
 混乱の近いこの街に、私は、大切なものをみんなおいてゆく。
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 幾度も聖印を切り、薬指の指輪に唇を当て、私は馬をやみくもに走らせた。

 当てどもなく、馬を歩かせるままにいたら、数日後にメルゲンについた。
 メルゲン…砂漠の入り口。
 アレンに来るときは、この逆の道を、舞い上がりそうに歩いていたのに。
 いまの私と馬には休養は全く必要ないし、食料も十分にある。それでも酒場にはいると、その壁には、砂漠越えのために一時的に集まりませんか、という旨の求人の紙がいくつも貼られてあった。
「ねぇ」
と、私は酒場の人に話しかける。
「ここから先の砂漠は、一人で越えたら危険?」
酒場の人は顔色を変えた。
「お客さん、そりゃ無茶ってもんですよ、黒い服の盗賊の一団が、何でもかんでも奪って、揚げ句は子供まで奪うって話しなんですよ」
「…そう」
「それに、そんないいお顔のひとが一人旅なんて、別の意味で恐ろしいですわ」
「ありがとう」
酒場の人の世辞に銀貨を一枚渡して、私は酒場を出ようとした。が。
 急に背中が痛みはじめた。最初は我慢していたけれど…
「く、…はっ」
息が出来ず、その場に座り込む。酒場の人が、私を慌てて席に座らせる。
 フレストで作った古傷が痛むのかしら。でも今までそんなこと全然なかったのに。
私は、痛みの中ぼんやりと、すでに行く先を決めたらしい旅の一団が出て行くのを見た。彼らが消えてゆくのと一緒に、背中の痛みも治まってくる。
「あ、あの人たちはどんなひとたち?」
「あ、ああ…ダーナのお抱え傭兵団じゃねぇかなぁ」
「そうなの」
「ダーナに行くつもりかい?」
「わからない。でも、旅は全然急がないから…」
「ダーナまでなら、何とか一人で行くことは出来ると思うよ。でも、そこから北はだめだ」
見かねたらしい別の旅人が、私に話しかける。
「一番の問題は、暗黒教団の盗賊が根城にしているイード神殿だからな。暗黒教団の聖地になってて、周辺の物騒この上なしというはなしだ」
それでも行くならとめねぇけどよ。そんな話をぼんやりと聞いた。

 ダーナ…砦の奇跡の起きた聖地。一度は尋ねろと言う聖地だけれど、このご時世ではそんなことをするほうが酔狂だろう。
 でも私は酔狂でいいのだ。宿を取り、翌日、私はダーナにむかった。
 聖地を目指すのだろうか、外套の徒歩の一団が見える。礼拝帰りなのか、ラクダに乗った身分いやしからぬ人もいる。
 そして傭兵団に守られる不思議な聖地ダーナに、最初から興味がなかったといえばうそになる。
 あの痛みが、私の背を押したのだ。
 古傷でないとすれば、あれは聖痕同士が響きあい、継承された聖痕にすべての血脈はひれ伏せと言う響きだ。
 私は、馬上で聖印を切った。
 神様、ありがとうございます。
 アレスを生かしてくださって。

 ターラの街の雑踏にも驚かされたが、砂漠の中だというのに、このダーナのにぎわいはどうしたことだろう。
 街にはオアシスがあり、渇いた心を聖地が潤すように、乾いた体を潤してくれるのだ。
 そしてこのにぎわいは、それだけ大陸の各地が、何者かに脅かされていることを、暗に示していた。暗黒教団がのさばる世の中だからこそ、光の聖戦士の加護を求めるのだ。
 宿を取り、一息つく。背中のヘズルのみしるしは、痛くはないが、熱くうずいていた。ミストルティンがこの街にあるのは、間違いがないのだ。
 宿に着いている酒場で、ダーナのお抱え傭兵団について話しを聞くことにした。主人の返答は、
「いやぁ、私ら、あの傭兵達で食べさせてもらっているようなもんですが、あの人たちが何か私らのためにしたかと聞かれると、ねぇ」
と、何となく歯切れが良くない。
「迷惑なの?」
「いやいや、迷惑っていうのではねぇんでさ。一応聖地だってんで、帝国から領主みたいなのが来てはいるんですがね…その方が個人で御雇いになった傭兵だから」
「そぉ」
「領主ともなれば、雇う傭兵も一流だ。まさか姐さん、そん中の誰かに親のかたきでもおいでですか」
「まさか」
と私はくすりと笑って、小気味よく床が踏みならされる軽い音を聞いていた。小さな踊り子が、愛らしいしぐさで踊っていた。私はそれを見て、シルヴィアを思い出していた。あの子は無事、逃げられたのかしら、そんな、少し苦い思い出も。リーンも無事なら、ちょうどこんな年ごろだったはず。
 最後の足を鳴らして、踊り子が深く膝を折ると、そこそこににぎわしい酒場からぱらぱらと拍手が起こった。多分彼女を遣っている主人なのだろう、男が一人、客席を回っている。でも、私のところにはまだ来そうになかったから、私は小銭を二三枚つまんで、
「おやつぐらいしか買えないけど…内緒ね」
と渡した。踊り子は、
「あ、ありがとうございます」
と、深く頭を下げた。もちろん、主人らしい男にも、堪能した分は払う。しかし主人は、
「リーン、お前、この姐さんから何かもらったな、それも出しな」
と言う。リーン。本当にこの子がリーン? 私は、思わずその子と主人の間に入った。
「待ってください、その子に直接渡した分は、彼女本人へのねぎらいです。それまで取り上げるなんて、聖地でなんという浅ましい振る舞いかしら」
「しかし、私らはこの子の稼ぎで食ってる訳で」
私は、黙って、主人の袋の中に硬貨を入れた。その中身をみて、主人の顔が変わる。
「少し、あの子と、お話させてくれるかしら?」
と尋ねると
「ええええ、そりゃもう」
主人はわななきながらうなずいた。金貨には、こういう使い方もあるものだ。覚えたくはなかったけれど。

 「あなたの名前は、リーンと言うの」
と私が尋ねると、リーンはこくりとうなずいた。よく見れば、しぐさも表情も、シルヴィアにそっくりだ。
「踊り、とてもきれいだったわよ」
「ありがとうございます」
リーンは、年ごろの割にはしっかりと話す。
「さっきは、助けてももらってしまって」
「私みたいに、あなたに直接お駄賃をくれる人もいるの?
と尋ねると、リーンは
「うん…でも、みんな親方がもっていってしまうけど」
そうこたえる。聞けば母親もわからず、この街の孤児院の前に捨てられていたのを助けられたそうだ。名前を書いた紙切れが服に挟んであって、それで名前だけはわかったという。私は無理に、シルヴィアの話をして、この子を混乱させたくなかった。ただ、バーハラの悲劇を生き延びられた神父とシルヴィアが、ダーナに活路を求めたというのは、あるいは当然の成り行きであったかもしれない。
「字を書くのも、お祈りの本を読むのも、上手にできないけれど、踊ることだけは、得意なの」
リーンはそういって、私が渡した小銭をもてあそんでいる。少し、そわそわしているようだった。
「どうしたのリーン? もう帰るの?」
「ううん、親方が、夕方の鐘までいいって言ったの。だから、広場に、あの子いるかなって」
「あら、隅におけないこと」
私はふふ、と笑った。彼女の目の動きが、リーフ様を探すナンナと同じだから、よくわかる。
「特別なお友達なのね」
「…うん」
「じゃあ、三人で、一緒に何か食べましょうか」


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